ラジオで教えてもらった“大人のいじめ”から、「誠実」の難しさと、「悪の愚かさ」までを、考えてみる。
今はすっかり一般用語になった「パワーハラスメント」も、その定着具合いと理解の度合いは、おそらくは、世代によってかなり差があるのだろうと思う。
昭和生まれの自分の同世代では、パワハラ的な「指導」は、学校でも、部活動でも、会社でも普通にあったから、それを受けた人間は、もしも、自分が「上」の立場になったときに、気がつかないうちに、場合によっては「善意」で「厳しい指導」として、パワハラをおこなっていることも多いような気がする。
ただ、根拠もない、ぼんやりとした、なんとなくの感覚に過ぎないけれど、今の会社組織では、少し前の「パワハラ」とは、ちょっと違う状況になっているのではないか、と思っていたので、「大人のいじめ」というテーマで、ラジオ番組で話されると知り、その番組を聞いた。
アシタノカレッジ
◆今日のアシタノカレッジは、テーマは”大人のいじめ”
講師に、膨大な数の「いじめ・嫌がらせ」の相談を受けてきたNPO法人「POSSE」の坂倉昇平さんをお迎えします。
被害にあったら、どうする?職場で起こる”嫌がらせ”の特徴、”大人のいじめ”が起こる仕組みについて伺います。
大人のいじめ
板倉氏は、この「大人のいじめ」の著者であり、相談を受けてきた専門家でもあるのだけど、この著者の帯にも、「職場のいじめで精神障害を発症した件数が、この11年で10倍に!」という文字がある。
それに関しての最初の疑問は、パーソナリティのキニマンス塚本ニキ氏が聞いてくれた。
それは、パワハラなどが認知されることによって数が増えているのか、それとも実際に「いじめ」の数が増大しているのか、という質問に、坂倉氏は、すっと答えていた。
それは、両方だと思います。
だから、結局は、その数が増えている、という状況なのは、分かった。
いじめの起こる構造
ラジオを聞いて、それをメモしているので、多少の違いがあるかと思います。その点はご容赦していただきたいのですが、聞いていて、少しでも広く伝える意味があるのではないかと思ったので、こうして、まずは書くことにしました。
以下は、坂倉氏の話を中心に、まとめたものです。
(正確な言葉が必要な場合は、お手数ですが、前掲のYouTubeなどで確認していただければ、幸いです。また、過去、もしくは現在にパワハラなどの被害に遭っている方は、慎重に読む進めて、場合によっては、途中で読むのをやめる方がいいのでは、と思っています)
増えているのは、事実として、まず、パワハラをはじめとして「大人のいじめ」が起こりやすい環境はある。
それは、基本的には低賃金で長時間の過酷な労働環境の中で、パワハラなどが起きやすい。それによって、今は上下関係のパワハラとだけ言いづらいのは、同期だったり、後輩からも、そのような「大人のいじめ」が起きるようになっているからだけど、今は、本来ならば力を合わせるべき「仲間」でもあるはずなのに、過酷な労働環境がそうさせていない。
例えば、仕事でミスが多いと、ターゲットになりやすく、そして、無視をされたりとか、いじめによって心身の調子を崩すと、それは、メンタルが弱い、といった言われ方をされたりしてしまう………。
板倉氏は、そんな話から始めた。
これは、どこか聞いたことがあるような話ではあるものの、こうして改めて話を聞くと、それは地獄でしかないとも思う。
機能していない企業の相談窓口
次に、板倉氏が語ったのが、企業の相談窓口に関する話だった。
今は、いわゆる「パワハラ防止法」によって、大企業には、相談窓口が義務付けられている。
だが、板倉氏のように、相談を受ける側から見ると、相談しても、何も動いてくれない場合が半数はある。そのために、NPOに相談が来る。
それは、板倉氏から見ると、相談窓口が機能していないのは、企業側の都合ではないか、という。パワハラ防止法は、相談窓口設置の義務化はしているものの、その先の解決までは義務化されていない。
調査にはコストがかかる。だから、あえて対応しないのではないか。
そんなことを推測してしまう、という話にまでなった。
それぞれの企業内部の事情の詳細は分からないにしても、相談に対応してくれていない場合が多いのも事実だから、どちらにしても、助けてくれると思ったところが、動いてくれない時には、決定的に気持ちがやられてしまうと想像すると、やはり怖いことでもある、と思う。
いじめられる理由
「大人のいじめ」が発生する理由も、いろいろと話されたのだけど、聞いていて、気持ちが暗くなることもあった。
相談を受けるのが多い業界は、医療や福祉。保育や介護。それは、低賃金で長時間労働が多い業界でもある。
それも、例えば、保育園で、人手も足りなくて、働いている方もボロボロだから、子供を大人しくさせるために暗い部屋に閉じ込めておく、といった手段がとられることさえある。最初は泣いても、そのうちに大人しくなるので、一人一人丁寧に対応していくよりも、コスパがいい。
そういう方法に対して、保育の基本からいったら、おかしいのではないか、と強くでもなく、少し異議を唱えただけで、いじめられるようになる。無視をされたり、雇い止めになったりする。
仕事の質をよくしよう、といっているような人がいじめられてしまう。それを見ている人は、同じように思っていても、結果として黙らされてしまう。
そんな構造の中で、人間性が歪むほどの長時間労働であれば、いじめが起こるのも自然ではないか、という話にもなり、聞いているだけでも、ちょっと絶望的な思いにもなった。
これからの対策
2022年の4月から、大企業だけでなく中小企業でも、パワハラの相談窓口が義務化されるらしい。
ただ、このことに対しても、板倉氏は、過大な期待をしない方がいいと話す。まずはパワハラや、大人のいじめなどは、証拠を残すために、相手に断る必要もないので、録音したりした方がいい。その上で、会社の相談窓口では限界もあるので、社外の労働専門の弁護士や、自分達のような支援団体に相談してほしい。
いじめやパワハラにあうと、自分が悪いんじゃないか、といったことを思いがちだけど、職場の改善が、社会全体のひどい働かせ方を変えることの第一歩でもあるので、自分の違和感を信じて、声を上げてほしい、と板倉氏は伝えていた。
「NPO法人POSSE」 https://www.npoposse.jp
POSSE(ポッセ)は若者の労働・貧困問題に取り組むNPO法人です。
労働や生活に関する相談を無料で受け付けています。
技能実習生や難民など、外国人の方からの相談も英語や中国語で受け付けています。
誠実
今の社会が変わって、労働環境が豊かになったとして、「大人のいじめ」というようなことは、なくなるのだろうか。そして、仕事の正しさを語る人は、大事にされるようになるのだろうか。
もちろんいじめやパワハラの絶対数は減ると思うのだけど、誠実さに関しては、人類は、本質的に排除するのではないか。というよりは、組織と誠実さは両立しないのではないか、と思ったのは、単純かもしれないが、この本↓を読んだからだった。
「コンパッション」は、「慈愛」とも訳せる言葉で、特にこれからの時代に重要なことだという内容で、それを支える五つの資質が、「利他性」、「共感」、「誠実」、「敬意」、「関与」であり、その中の「誠実」に関しては、個人的には、かなり厳しい内容だと思った。
誠実さの中核となるのが「誓いに従って生きる」こと、つまり自分の最も深い価値観を自分自身との約束として守り、良心を持って、自分本来の姿につながる力です。
だが、それに従って生きた人。例えば、ベトナム戦争中に、人間として正しい誠実な行いをして、虐殺の中で民間人を救った軍人は、その当時は、あらゆる非難にさらされ、体調まで崩したということも記されているので、組織という存在は、誠実さを嫌うのかもしれない、と思うくらいだった。
それは、面倒を避けたい、という人類の「本能」なのかもしれない。
自分も他者も気まずくなりたくないからと対立を嫌って、苦しみの現実を避けているうちに、暴力的な社会システムが勢いを増していっているのです。今日の世界で、多くの人は、道徳に反した状況を解決しようとすることなく、「心の中産階級化」を選んできました。
そう考えると、仕事の中での誠実さを大事にしていくことは、基本的に険しい道を選ぶことではないか、と思うと、ちょっと怖い気持ちにもなる。
悪の愚かさ
東浩紀氏が、「悪の愚かさについて」をテーマにした文章で、とても重要なことを書いている。
これは、大人のいじめ、ということと比べると、さらにスケールの大きな話になってはいるが、「誠実」ということだけではなく、正しいことをする方が難しいのではないか、といったことも考えさせられる。
ぼくは一年前、ひとはなぜ、かくも高い知性を備えながらもかくも残酷な悪をなしてしまうのかという問いからこの探求を始めた。
その問いへの答えは、おそろしいことに多くの場合、たまたま、なんとなくというものである。
この指摘は、人間は、自然にしていれば「悪」をなしてしまうことにもつながりそうで、逆に言えば、正しくあることの方が、不自然なほどの意志が必要なように思え、だから、その本質的な困難さを改めて思う。
賢くあろうという意志がないところには、法もなければ秩序も進歩もない。
けれども同時にぼくは、人類はどうせけっして賢くならないだろうとも思う。人類はこれからも戦争をするだろう。事故も起こすだろう。虐殺すらくりかえすかもしれない。個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜならば群れはつねに若返り続けるからである。それは希望であるとともに人類の限界である。いかなるイノベーションが生まれたとしても、人類が人類である限り、その条件は変わることがない。
だからぼくは、ひとを賢くする言説は、つねにひとの愚かさを伝える言説によって補完され続けなければならないと考える。
会社という「群れ」を考えたときは、老害という言葉もあるように、もしかしたら、老いた人間が「愚かさ」を担うこともあるかもしれないが、どちらにしても、人類は「群れ」ないと生きていけないのに、「群れ」であるかぎり愚かではないか、というような、ちょっと絶望的な気持ちにもなる。
「正しさ」の「しんどさ」
大きくいえば人類にとっては、正しさというのは不自然であって、いわゆる「本能」に従うことと相反するのではないか、と思うこともある。だからこそ、誠実という正しさを貫いた人は、尊敬もされるのかもしれないが、それだけ難しいことなのだと思う。
正しいは、しんどい。
おそらくは、それを前提として、それでも、より正しいことを目指しながら、地道に生きていくしかないのかもしれない。
ラジオで「大人のいじめ」のことを教えてもらい、誠実を見直し、悪の愚かさまで考えて、その自分自身の思考の道筋は粗いのを自覚しながらも、その規模で考えていかないと、もしかしたら、職場の環境も、将来的には改善していかないのではないか、とも思った。
かなり先が遠いのは、分かった気がする。
だけど、そのためには、目の前の小さい一歩から始めるしかないのも、理解できたような思いもある。
かといって、気持ちが楽になるわけでもないけれど。
(他にもいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。
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