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テレビについて⑯「ズームバック×オチアイ」で、「橋本治」の凄さを再発見させてもらった。

 昔の映像の貴重さも分からせてくれるのが「ズームバック×オチアイ」だけど、不定期で放送するので、見逃さないようにしないと、という微妙な緊張感がある。

 2021年の4月からのシリーズの第9回は、「世代論」だった。

 「世代間のあつれき」といったこともテーマになっていて、それに関連して、1960年代末の事も扱われていた。その時代は、学生運動が盛んだったこともあり、「今の若者は批判が多すぎる」といった見方を、その上の「世代」の経営者陣がしていたらしく、だから、新入社員の研修は、裸で川に入らされたりしている映像を見た。いわゆる「精神修養」のつもりなのだろう。

 これは一種の洗脳だと思う。ニュース映像になるくらいだから、極端な少ない例だとは思うが、見ていて、一生懸命やっている方には申し訳ないのだけど、怖くて、嫌悪感が出てしまうようなものだった。

 この世代は、会社員としても、今は引退しているのだろうけれど、この人たちが会社の中堅以上になった頃でも、無茶をさせる社員研修は、ここまでの激しさはなくても健在だったはずだ。駅前で大声で自己紹介させられたり、道ゆく人に名刺を配らされたり、といったことは、確か1980年代でもあった記憶がある。

 そのころは、新聞の小さい四角い広告に「地獄の合宿」みたいな文字があって、それは、会社員を「合宿」で鍛え直して一流にする、という文章が並んでいて、それは、個人的には恐怖と嫌悪感があった。

 そういうのが、個人的にはとても嫌だったせいか、社員研修などがないような会社に入れて、その点はラッキーだと思っていた記憶もある。その一方で、1990年代になっても、研修は、少し人里離れた道場で行われている、という話も聞いたことがあるから、この1960年代末の映像の余韻は、少しずつ形を変えて、実は、今も生き残っているような気がする。

 そうしたことが、なくならない理由の一つとして、自分がしてきたことを、下の世代にさせてしまうのではないか、といったナレーションがかぶさっていた。

穏健な常識人

 どうして、私たちは、下の世代に耳を傾けるのが、苦手なのか。

 そうした課題に関して、橋本治は、この若者の行手を阻む上の世代の人たちを、こう名付けた、と紹介されていた。

「穏健な常識人」

 当人達にそのつもりはなくとも、「阻んでいる」と思われてしまうのは、「穏健な常識人」が、自分達の知る「常識」の外にあるものをイメージ出来ないからで、そのことによって前へ進もうとする息子達の壁になる。壁になっていて、しかしそんな自覚が父親達に生まれないのは、彼等が「当たり前」の中にいるからだ。

 橋本治の本は、少しは読んできて、この書籍も読んでいた。自分が「これは」と思った部分もメモしてあったのだけど、それを見返してみても、この「穏健な常識人」の部分に関しては、覚えていなかったし、メモもしていなかった。

 こんな重要なことに気がついていなかったことに、なんだか、自分にちょっとガッカリもしていたのだけど、それでも、テレビ番組で取り上げられて、その凄さを改めて分かったことに、微妙に嬉しさもあった。

 この「穏健な常識人」という表現と、見定めは本当に優れている(こんな偉そうな言い方は出来ないが)けれど、この「穏健な常識人」当人には、この文章が届きにくいような気もした。

 その一方で、現状をなるべく正確にわかるのが最初だから、この「穏健な常識人」という見定めは、今でも本当に、「世代間のあつれき」を考えるときに、有効だと思う。


 本を読んでいながら気がつかなかったことを、テレビ番組に教えてもらって、感謝しています。

 ありがとうございました。


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