『大竹伸朗展』-------「世界」を集め続ける人。
もう20年以上は作品を見てきて、辛い時も気持ちを支えられてきたように思っているけれど、作者本人・大竹伸朗は、50年も、とにかく作品を作り続けている。
作品
作品に、違和感があって、ゴミのようなものが固まっているだけにも見えることがあって、だけど、間違いなく、何か違うものに見えるのは、どうしてだろうと思ったりもするし、わかりやすく美しいとか、癒されるというものでもないけれど、見ているうちに、何か少しずつ影響を受けて、自分も知らないところで変わっていくような気がする。
そんな作品を、とにかく大量に製作し続けている。
こちらは、時々、個展や展覧会があると見に行って、いろいろなことを思うけれど、そんなこととは関係なく、変わらずに、つくり続けている人なのだろうと思う。
既にそこにあるもの
この本のタイトルが、著者の見極めが形になっているようで、とてもかっこいいし、何かを新しく生み出すことはできなくて、だけど、既にそこにあるものを見つけて、集めて、そこに手を加える、といったことをずっと続けてきたのかもしれない。
トークショーなどで、なんだか難しいことはいいんだよ、とにかくグッとくることをする、といったような言葉を何度も聞いたような気がするから、それは、アートの歴史があって、そこに新しくコンセプトを加えるような、西洋の現代美術の世界からは、やや隔絶しているのかもしれないけれど、自分がつくりたいものをつくり続けるという、アーティストの基本を、これほどまでに徹底して、しかも、何十年も継続している人は、気がついたら、おそらくは他に誰もいないのかもしれない。
そんなことを思わせる存在になっている。
『全景』
もう17年前になってしまうのだけど、東京都現代美術館で、企画室の全フロアを使って行われた展覧会は、「全景」と名付けられて、本当に、大竹伸朗の作品の、それも子どもの頃からの制作物も含めて展示されていて、圧倒されて、二回見に行った記憶がある。
その時の図録を予約したのだけど、予定よりも何度も遅れ、その度に、おわびのハガキが来たはずだけど、それも大竹伸朗の作品のようだったから、少し得をしたような気持ちにさえなったし、届いた時は、宅配便のスタッフの方から受け取った時に、本当に重く、5キロのお米くらいの重量感があった。
その後も、直島に初めて行って、そこで大竹伸朗の作品にも触れられたし銭湯にも入った。約3年前には水戸芸術館の展覧会も見られた。実際に行っていなくても、道後温泉のアートプロジェクトは写真などで見て、行きたい気持ちになったりしていた。
そして、今回、本当に久しぶりに大規模な個展が開催されるのを知った時は、うれしかった。とにかく行こうとは思っていた。
予約
17年前は、東京都現代美術館で今回は、国立近代美術館だから、どちらにしても公立の建物で大規模におこなわれるのが、似合うのかどうかはよくわからないけれど、こうして開催してくれること自体がありがたい。
最初に、混雑するかもと思って、予約もしてチケットは購入しておいた。だけど、その時は、都合が悪くなって出かけられなくなったけれど、予約して、ダメになっても、別の日でも入場券として使えることはわかったので、そこから、また二週間ほど過ぎたときに、やっと妻と二人で行けることになった。
とても寒い日が続いて、少しだけ気温が上がった日に、もうすぐ会期が終わるからと、午前中に出かける。それは、混雑すると、入場制限がかかるとか、この前の土日は整理券が発行されたと聞いていたから、少しでも早く出かけた方がいいかもと思ったからだ。
東京駅で乗り換えて、地下鉄に乗る途中で、たまには都心で外食でも、と予定していたら、まだ12時前なのに、あちこちの飲食店は、すでに行列ができていた。最寄駅の竹橋のビルの地下も、人がいっぱいいた。
店はあきらめて、コンビニでパンを買って、どこか外で食べることにした。探しながら歩き、結局、美術館まできて、スタッフに聞いたら、館内では無理なので、外にあるイスとテーブルを使って、軽い昼食を食べた。
風が強くて、微妙に体温を奪われながらも、用意していった保温ポットに入ったコーヒーと一緒に、おいしく食べた。
大竹伸朗展
美術館に、「宇和島駅」の文字がある。それも大竹伸朗の作品だった。
午後12時半頃に、美術館に入り、かなりいっぱい使われているロッカーの空いている場所を探して、荷物を入れて、展覧会の会場へ向かった。
最初の部屋から、立体も、絵画も、さまざまなものを張り込んであるような大竹らしい作品が並んでいる。それも、時系列ではなく、7つのテーマに沿って、作品が並んでいる。
どれも、密度が高く、そして、あとは作品との相性もあるのだろうけど、時々、急に気持ちに入ってくるような作品も少なくなく、空間すべてが、大竹伸朗の作品で満たされていて、囲まれていて、そういう空間で、あちこち歩いて、気がついたら、時間が経っていた。
以前、見たこともある作品もあったけれど、見たこともないものも、当然あったし、この前の大規模な個展から、17年経って、その間にも、おそらくは自然につくり続けてきたから、また増えているのだろう。
会場には、小屋のような作品もあったし、大きな作品も多かったし、圧倒的だった。全部で、500くらいの数があるらしい。
途中で、ふっと疲れを感じるくらいの時間だった。
2階にも会場があって、それを鑑賞する前に座って少し休んでから、最後のテーマが「音」で、そういえば、音楽に関係する作品もあったのを思い出し、そして、集めれば、こんなにあるんだと思った。
鑑賞の途中に、窓の外を見て、こうやって、こちらが作品を見ている間も、今日も、大竹伸朗は、作品を普通につくり続けているんだろう、と思った。
毎日、「世界」の全部を集めようとして、作品にしている。それを続けている。
大竹伸朗は、そんな人だと思った。
それを50年継続しているから、すでに、大竹伸朗の作品の中にしか残っていないような「世界」も、実は多いのではないかとも感じた。
ミュージアムショップ
臨時に設置された大竹伸朗展のためのミュージアムショップで、いろいろなグッズを買った。Tシャツも欲しかったけれど、自分では着こなせないような気がして、買えなかった。それでも、図録やポスターやキャンディーや靴下などを購入した。
全部で、約1万円になってしまったけれど、普段は貧乏で節約している自分とは、ちょっと別の感覚になっていて、妻の冷静な指摘がなかったら、調子に乗って、もっと買っていたと思う。
最後に、予約制の腕時計を買おうと思った。かなりの金額だったけれど、これからの自分の気持ちも支えてくれると思ったからだ。
それまで画像で見ていたものよりも、小ぶりで、品も良くて、欲しくなったのだけど、そこにケースに入っていた現物を見て、「針が小さくて、時間が読み取れないのでは」という助言を妻がしてくれて、それは本当にそうだと気がついて、買うのをあきらめた。
確かに、時間を見ようとするたびに、わかりにくくて、イライラするかもしれない。
それでも、他には欲しいものも買えたし、何より、まだ私たちにとっては収束の見えないコロナ禍の中で、妻と一緒に大竹伸朗の作品を見にこられたのは、素直に、うれしかった。
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