見出し画像

とても個人的な音楽史②甲本ヒロトの歌声

  家にこもりがちの日々が続いていて、録画したまま、まだ見ていなかったドラマを見始めた。1年くらい前に、とても話題になっていたから、今さらなのだけど、年末に一挙再放送された「3年A組 今から皆さんは人質です」

   見始めたら、ああ、これはすごいし、話題になるはずだと思った。一緒に見ていた妻は、ものすごく泣いていた。主演の菅田将暉の言葉には、演技とはいっても、魂がのっていると感じた。冷静に見ると、多少の矛盾があったとしても、引き込まれた。
 そして、番組の最後に音楽が流れる。「あ、ヒロトだ」と分かった。今は、クロマニヨンズのボーカル。甲本ヒロト。自然に、青春の場面にフィットするように聞こえる音楽だし、声だけれど、50歳を超えているはずだった。

「迷走王 ボーダー」で知った「ブルーハーツ」

 最初にブルーハーツを知ったのは、漫画の中だった。
 1980年代、その当時でもすでに古めのノリだった、どこか熱く、うっとおしいが、でも、本気で描かれていた、と思える連載があった。原作者は、狩無麻礼(かりぶまれい)という名前で、それは、レゲエのカリスマ ボブ・マーリーからとったと言われていた。この時代でも、そういうのめり込み方をする人は、珍しかった。
「迷走王 ボーダー」というタイトル。主人公は、ずっと自分探しをしているような男性で、貧乏なために家賃がやたらと安い便所部屋で住んでいた。見た目はやたらと若く、バイオレンスも強めだが、実は中年で、それまでは意外なキャリアを積んでいて、いろいろとこだわりが強い彼が、作品の中で出会ったのが「ザ・ブルーハーツ」だった。

 あとから振り返れば、その頃は、バブル時代でもあったのだけど、その頃に生きている私自身は、若くて貧乏で、そんな自覚もなかった。こんな時代に本当のことを伝えているバンド、として「ブルーハーツ」は主人公に評されていて、だから興味を持てた。
 漫画だから、音がなくて、ただ、情報だけで知った。ただ、ブルーハーツは、凄みはありそうだけど、そんなに売れるようには思えなかった。
 しばらく、忘れていた。

1980年代。カセットテープで買った「Train-Train」

 1988年に、初めての一人暮らしを始めた。6畳と台所の古いアパート。1980年代の後半でも、風呂付きの五万円は、安かった。風呂とトイレが同じで、やたらとコンパクトだったから、風呂に入ると、トイレットペーパーが濡れてしまうので、入浴のたびに、はずした。浴槽も、いかにも「お一人用」で、上から見ると正方形で、本当に小さかった。

 その頃は、全部が英語ばかりのイメージの、J-waveのラジオが始まっていた。パッとしない若い時代を過ごしている自分でも、それがどうやらオシャレらしいのは、わかった。
 個人的には、音楽をそれほど必要としないで、10代を乗り切り、20代も後半になっていた。会社を辞めて、フリーのライターとしてやっていこうと思って、同時に一人暮らしを始めた。
 たぶん、不安ばかりだったはずだ。音楽は、ラジカセだけが部屋にあった。
 1989年の正月の頃は、ラジオはクラシックばかりを流していた時期もあったと思う。


 夜中に、原稿を書いていて、ラジオをつけていた。
   ピアノのイントロに、ふっと気持ちが向いて、歌が流れた時は、ひきつけられていた。ブルーハーツの「Train-Train」だと知った。あの、「迷走王 ボーダー」で語られていたバンドだった。勝手に、売れそうもないと思い込んでいたが、「はいすくーる落書」というドラマが1989年の1月から始まっていて、話題を呼んでいたことも知らなかった。その主題歌に起用されたことでヒットしていたことも、あとに知った。
 ライターをやっていて、そんなにいろいろと知らなくて大丈夫だろうか、とも、あとになって思った。

    その曲を、また聴きたくなった。
 音楽が必要な感じが、初めて分かったように思った。
 それまでの自分は、そんなに不安ではなかったんだ、と分かった気がした。
 今が、そんなに厳しいわけでもないのだろうけど、これまでが、ぬるく生きてきたのかもしれないと思った。

    もっと聴きたくなっても、音源がなかった。
 1980年代の後半は、CDが主流になりつつあったし、これからはCDの時代だといわれていたけど、所有しているラジカセは、ラジオとカセットテープしか聴けなかった。  
    だから、「Train-Train」のアルバムは、カセットテープで買った。
 それで、何度も聞くことになった。
 20代後半で、こんな風に、必要に迫られるように、音楽を聞くようになるとは思わなかった。


    しばらくたって、CDも聴けるCDラジカセも買ったはずだが、自分にとっては、思い切った買い物だった。デビューアルバムはCDで買って、聴いていた。「リンダリンダ」もよく聞いた。だけど、どぶねずみの美しさは、今もわかっていない。

    ただ、3枚目のアルバムだった「Train-Trainのあとは、勝手なもので、急に関心が薄くなっていったから、申し訳ないのだけど、本当のファンではないのだと思う。

「ホームラン」に「青空」

 それでも、時々、聴きたくなることがあったし、偶然に聞くことも少なくなかった。

 その頃、「スピリッツ」という週刊の漫画雑誌を買っている時期があった。それは、松本大洋の「花男」が、すごく先が楽しみで、この作者は本当に天才だと思いながら、読んでいたからだった。
 その漫画のテーマ曲があるとすれば、ということで、名前があげられていたのが、(作者か編集者か誰かは忘れました。すみません)ブルーハーツの「ホームラン」だった。聞いてみたら、本当に合っていると思った。この曲が入っているアルバム「ハイ・キックス」も、何度か聴くことになった。やっぱり、よかった。

 それからも、ブルーハーツの名前も、生活の中で聞くことが時々あった。
 知り合いになった、自分よりかなり若い人に、『「青空」が好きなんです』と聞いたりすることもあった。それは、「トレイントレイン」に入っていて、聞いていた時代のことを、少し思い出した。

1990年代。ブルーハーツ解散とハイロウズ結成

 その後、1995年にブルーハーツは解散してしまった。
 それから、甲本ヒロトと真島昌利は、またバンドを組んだ。

 ザ・ハイロウズになった。
 最初の曲は、「ミサイルマン」で、テレビでも見た。

 激しく、十分以上にすごいとは思った。
 ただ、失礼だとは思うのだけど、どうしてもブルーハーツ、それも初期と、おそらく無意識に比べてしまっていた。

2000年。テレビで聞こえてきた「青春」

 個人的には、しばらく聞くことはなくなっていた。
 また聞こえてきたのは、テレビからだった。
 2000年のことだった。
 「伝説の教師」という松本人志が初めて主演のドラマだったので、見ていたら、ヒロトの声が聞こえてきた。

 自分自身は、かなり気持ち的にも厳しい時で、「青春」という曲名に抵抗もあったが、ドラマを見るたびに聞こえてきて、収録されたアルバム「Relaxin’ WITH THE HIGH-LOWS」を買っていた。ずっと、「青春」を歌えて、しかも、切実感もあるのは、すごいと思った。

2001年。「十四歳」の衝撃

 21世紀に入っていた。
 次に聞こえてきたのは、「十四歳」だった。

 この曲が、「王様のブランチ」という番組の、エンディングテーマになっていたらしいのは、あとで知ったが、聞いていて、甲本ヒロトは、変わってなかった。その上で、広がりもあったし、切実だけど、成熟しているように思った。 
 まだ先へ行こうとしているし、どこかを目指している感じがした。
 聴いている私自身は、完全に未来がなくなっていると思っていた時期だったけど、聞いている時は、高く広がる空が、見えた気がすることもあった。これは、平凡な感想なのだろうとは思うが、でも、なんだかうれしかった。

 何で読んだか、失礼ながら、やっぱり忘れていますが、この曲を作ったときに、甲本ヒロトは真島昌利に、“さすがに、14歳はどうだろう”みたいなことを聞いて、“大丈夫”みたいな返事があったらしい。そのやりとりを話せることも含めて、すごいと思った。二人とも、30代後半になっていたのだから、そうしたためらいがあるのも自然だった。
 「伝説の教師」は高校が舞台だったけど、「十四歳」は中学生の年齢で、そういえば、エヴァンゲリオンも、楳図かずおも、14歳だったし、その流れは不自然に思えなかった。

2000年代。ハイロウズ解散と、クロマニヨンズ結成。

 ザ・ハイロウズ2005年に解散した。
 もうほとんど聞かなくなっていたのだけど、気になり続けてはいた。
 何かの雑誌でヒロトが矢沢永吉と対談しているのを読んだ記憶がある。
 “いっしょにやれるやつがいるなら、そのほうがいい”といった言葉が矢沢から投げかけられていたことを、おぼえている。ただ、もしかしたら、それは微妙に自分で作ってしまった記憶かもしれない。
 それでも事実として、甲本ヒロトと真島昌利が、また一緒に組んで「ザ・クロマニヨンズ」というバンドができたのが、2006年だった。


 だけど、私は、ほとんど聞かないまま、時間が過ぎた。
 2010年、個人的には、大きい変化を迎えていた。
 CDショップで、ブルーハーツの映像が流れていて、そして、かなり衝動的に「オールタイムシングルズ」を買った。

 幸いにも、自分よりも、20歳以上年下の知り合いもできる機会があった。学生時代にバンドをやっているような本格的な音楽ファンでもあるせいか、ブルーハーツは知っていた。好きな曲を聞いたら、「夕暮れ」と返ってきて、改めて聞いて、こういう微妙に力が抜けている良さも、改めて教えてもらったりした。

2011年。「立ち上がる」

 2011年。東日本大震災の年に、テレビから、また甲本ヒロトの声が聞こえてきた。
 「立ち上がる」というシンプルな言葉を、何度も繰り返していた。

 「ナンバーワン野郎!」という曲名だった。自分は、直接被害にあったわけでもなかったし、何もできなかったけれど、この歌を聞くと、どこか支えられるような気持ちになったから、やっぱり不安はあったのだと思った。


 シンプルな言葉が、これだけ届くのは、平凡な見方で、どこか青臭いのは、わかっているけれど、ヒロトの歌には、今も魂がのっているからだと思った。デビューして、もう25年はたっていて、しかも、50歳近くになって、その変わらなさはすごいと思った。
 ただ、それは遠くから見ていただけだから、本当のことはよくわかっていないと思う。だけど、聞こえてくれば、その声を間違えることは、ほとんどないし、つい気持ちがそこに行ってしまうのは、変わらなかった。

 2019年には、CMで「青春」が流れていた。
 同じ年に、「3年A組」をやっていて、私が知らないだけで、そこにはザ・クロマニヨンズ「生きる」が流れていた。それを知るのは、1年後の2020年だった。

1980年代から、2010年代。青春を歌った甲本ヒロト

 ブルーハーツでは「Train-Train」が1989年に、ハイロウズでも「青春」が2000年に、そしてクロマニヨンズでも「生きる」が2019年に、それぞれの時代で注目を集めた学園ドラマに、選ばれる曲になっている。

 甲本ヒロトは、1963年生まれ、真島昌利は、1962年生まれだから、50歳を超えた人間の楽曲と演奏が、今も若い視聴者向けのドラマに選ばれるのは、それはすごいことだとは思う。だけど、「生きる」の歌詞は、「三億年」とか「四億年」の単位を歌っているから、そんな30年とか、40年くらいの違いは関係ないのかもしれない。それに製作者側に、ブルーハーツの時から聴き続けている人が一定数以上いるから、そうやって、バトンが渡されているのかもしれない。

 今、自分が発したい言葉に魂をのせること。
 そんなシンプルなことを、ブルーハーツの、ハイロウズの、クロマニヨンズの甲本ヒロトは続けてきたし、今も続けていると思う。そして、真島昌利も、魂をのせてギターを弾いてきたはずだ。だから、届く人には、いつも必ず届くのだと思う。書きながら、ちょっと恥ずかしいが、かなり本気で、そう思っている。

 個人的には、今も好きな「人にやさしく」の中で、『いつまでもこのまま』と歌っていて、その約束を、ただ守り続けているのかも、と思ったりすることもある。(そういえば、このタイトルのドラマもあった)

生きる」のMVを見たら、ヒロトもマーシーも、まるで30年前にテレビ画面で見た時と同じように、歌って、演奏していたように見えた。それは、ほぼ同世代のひいきめもあるし、ノスタルジーというバイアスがかかっているのかもしれないが、でも、演奏が終わって、ヒロトが笑っていた。普通に幸せそうだった。

 まだ一度もライブに行ったことがない。激しい時間がありそうで、年齢を考えたら、アキレス腱でも切ってしまうのではないか、と何かびびってしまって、近づけない。だけど、今の状況が落ち着いたら、やっぱり一度は同じ空間にいたいと、こういう文章を書いていたら、改めて思った。




とても個人的な音楽史③「シド・ヴィシャス」の「マイウェイ」。も書きました。よろしかったら、クリックして読んでいただければ、うれしく思います。


(他にもnoteを書いています。もしよろしかったら、クリックして読んでいただければ、幸いです↓)。

スマホも携帯も持ったことがない人間が、見ている景色

いつもじゃない図書館へ行って、帰ってくるまでのこと。

読書感想 『デッドライン 』 千葉雅也 「思考することの、さわやかさ」


#私のイチオシ   #ザ・ブルーハーツ   #ザ・ハイロウズ   

#ザ・クロマニヨンズ   #生きる   #人にやさしく

#甲本ヒロト     #真島昌利   #音楽

#パンク









この記事が参加している募集

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。