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読書感想 『デッドライン 』 千葉雅也 「思考することの、さわやかさ」

 いつもじゃない図書館で借りてきて、読んだ。(その日のことは、ここをクリックすると、リンクしています)

 本当は、本というのは、買って、所有して、読んで、ということが正統というか、王道だという思いはあるので、ここ10年以上、ずっと図書館利用の方が圧倒的に多くなってしまって いるのは、ふと思うと、ちょっと後ろめたい気持ちはある。でも、今の自分の貧乏状態では、そうでないと本を読めないので、図書館というシステムは、本当にありがたい。いつもじゃない図書館になっていても、予約したら、借りて読めるのは、有難いと思っている。

   この「デッドライン 」というタイトルを見て、つい「死線」という言葉に直訳してしまい、ひりひりするような、バイオレンスな内容を勝手に想像してしまうのは、21世紀の読者としての悪い癖かもしれない。

 ストーリーの大きな流れは、大学院生が、修士論文を書き上げようとして、いろいろと苦戦する、といった日常を描いているだけ、とも言える。それは、なんだか平凡だともいえるし、すごく限定された狭い世界とも見えるのだけど、その日常から、目を離せないように思えるのは、読んでいると、この主人公というか、この小説の意識に、気がついたら、乗っかって、運ばれるように、いつもと違う視点で、世界を見ていられるからだと思う。

  そして、この小説の視点みたいなものが、特に自由で、いつの間にか、他の人の視点に移動するような場面もあるけど、読んでいる時は、そんなに気にならなくて、普通に乗せられて、自然に感じている。それは、その自由さそのものが、いつも生きている人間の意識に、実は近いということかもしれない。

 主人公が、すごく頭がいいのは、自然に分かる。そういったことに、ひがみやすい私でも、あまり鼻につきにくく、頭がいいのが自然に思えてしまうのは、主人公が、その生活の中で、頭の良さを『考える』ということに、奉仕しているような感じがするからかもしれない。

 というよりも、私という読者が、この作者の他の著書を読んだり、トークショーなども聞きに行って、その思考力の凄さを感じていて、勝手に好感度が上がっているので、もはや、純粋な読者ではないかもしれない、という疑念もある。こうして著書のことを書いていても、ずっと、ひいき目みたいなものが働きすぎているのかもしれない、と疑いながら、書いていくことになる。

 主人公にとっては、ゲイであることも、自然なことなのだろう。ただ、その自分にとっての自然も、外部からの視線や内面化した自分の視点も含めて、強制的に考えさせられた上で、それに反発したりした過程で、自然になってきた状態、という複雑な成り立ちを感じさせる。
 そういった複雑さを強いているのは、本人よりも、その周囲の社会だと思えるエピソードも出てくるが、そのことさえも、より主人公の思考力を深めさせているのかもしれない、と想像する。

 こうしたややこしく、注意深い書き方になるのは、小説の影響だと思う。

 それに、こういったことを、異性愛者である自分が書いていて、安直な想像はできないと、より強く思うのは、作者や主人公に対して、その洞察力に対して、どこか、びびっているせいもあるのだろう。

 ただ、当然だけど、他人のことは、本当に分かることはできない、という原則も、この小説が思い起こさせてくれる、というのも関係があるような気がする。

 そして、小説の世界のことを書いている時は、思い出しながら書くことになる。だから、その書き方も、ただの読書の感想ですら、影響を強く受けて、よく言えば繊細で、悪く傾くと、ただ過剰に慎重になってしまう。つまり、悪く傾いて、ただ大きく届かない、という結果になったら、小説のなかの人たちほどの、思考力がないことが証明されるだけなのかもしれない。


 個人的な小さい経験に過ぎないが、中年になってから大学院に通った時、閲覧室という場所で、たわいもない話をしゃべるのも楽しかったが、その年齢になって初めて、自分の修士論文のことや、話し相手の論文のことを考えて、また話す、ということ自体が、楽しかったのも思い出した。
 資格試験のために、院に行ったから、学問的な純粋さからは、相当に遠いし、特に若い世代と比べると、自分は、野蛮だと思っていた。それでも、そうやって、講義だけでなく、様々な年齢の同期の人たちとも接しているうちに、学ぶというのは、自分の体質を変えることだ、という初めての実感があって、だから、辛かった部分もあったが、充実していた。

 私は、残念ながら、小説のなかの人たちみたいに、優秀ではなかったけれど、それでも、主人公が、指導教授との、研ぎ澄まされたような切実な会話で、何かをつかみかけたり、そして、それによって、より苦しむことになったり、といった過程もすごくリアルに感じた。
 学んでいく喜びと、怖さみたいなものを、こういう風に書いてくれて、それが伝わるような小説を読んだ記憶はあまりない、と思った。

 夏目漱石の書いているものは、もしかしたら、全部が、それに近いのかもしれないが、(あまり読んでいなくて、うしろめたいですが)たとえば「明暗」を読んで、登場人物の気持ちの描写に、すごみを感じても、そこにいる人たちの存在は遠いままなのに、「デッドライン 」の人たちは、時代が現代というだけでなく、近さを感じる。

 研究者として、または、思考を仕事とする人たちで、ある程度以上、業績もあげている人たちは、こうして研究者としてのスタート時点での、揺れるような感じ、どこか初心を感じさせる出来事、みたいなものは、もしかしたら忘れているかもしれないし、忘れていなくても、恥じらいもあるだろうから、あまり率直に書いていないのではないか。と思うのは、『デッドライン 』を読んだ後だからかもしれない。


そして、何より、読んでいる時、ずっと明るい気持ちが持続していた。
 

 ちょっと抜けていることで、明るさを感じさせることはあるが、この作品は、考え続けているのに、そう思える。それは、頭のよい人間が、意識的にも、もしくは無意識的にもやってしまいがちな、自分の頭の良さを誇るようなマウンティングのような行為が、たぶんほぼなかったせいだと思う。

 大変な出来事があったとしても、その頭の良さという能力が、何よりも、純粋に、思考することに使われていて、それが自己犠牲とも無縁で、考えていることが、生きていくこととイコールになっている感じがするから、それが、潔く、さわやかな感覚につながっているのだと思う。


 表紙の写真は、ヴォルフガング・ティルマンスだった。
 オペラシティーギャラリーで2004年に見た時に、日常的だけど、どこにもないような作品が並んでいて、それでいて、気持ちがよかったのを、思い出す。それは、平凡な言い方になってしまうが、やはり、生きる事を、いろいろあったとしても、その結果として、肯定するような気配があったから、気持ちがよかったのかもしれなくて、それは「デッドライン 」にも共通していることかもしれない。

 さらに、千葉雅也本人のツイッターで、このティルマンスの写真は、「デッドライン 」の時間と、ほぼ同じ時期の2000年の作品だと知って、その行き届き方に、凄みを感じた。

 『デッドライン 』の帯には、「第41回 野間文芸新人賞受賞」という文字が大きく載っていて、さらに、「ゲイであること、思考すること、生きること」という言葉も、やや小さく並んでいる。

 小説を読んだあとだと、「思考すること」が、主人公にとって、本当に重要で、その文字を、少なくとも、もう少し大きくするべきかも、と思えるようになった。思考することが、主人公を先に進め、そして、同時に支えていると、感じるようになったからだった。



(データ)
「デッドライン」   千葉雅也   新潮社  

 2019年11月25日発行

 2020年3月。東京都大田区内の図書館で、予約して取り寄せてもらった。区内に8冊の蔵書。取り寄せてもらうのに、1ヶ月半待った。



 他にも「読書感想」があります。クリックすると、そのnoteにいきます。

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『ケアへのまなざし』  「存在そのもので支えるセラピスト」

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