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あいまいでも、記憶や思い出や感想を、公開する意味を、書きながら考える

 こうして書いている時に、記憶や思い出について触れたくなることは、少なくない。
 それは、書いていると、書いている行為に引き出されるように、思ったよりも多くの出来事や風景が、自分の中にあることに気がつかされる、といった作業でもある。

記憶の中の意外な光景

 それは、『あ、そういうものが、自分の中にあった』という、どこか意外性のあることで、その光景が頭に(頭というか、心に、という言葉を使ったほうが、ふさわしいこともあるような気もします)浮かぶこと自体が何か楽しい。

 さらには、その光景が、それまで忘れてしまっていたほど、自分の中で、どこかに行ってしまっていただけに、思い出せたことが、ちょっとうれしくなる。その光景が、美しければ、それはうれしいけれど、そうではない場合でも、どうしてこんなことを覚えていて、それに、これまでほぼ忘れていて、書くことで改めて、思い出したのだろう。などと思うこともセットで、一種の心の娯楽みたいな感触がある。

記憶の光景の共有

 そして、もっと欲張りな欲望としては、たとえば、その思い出の光景のどこかに、一緒にいた人が憶えていてくれたらうれしい、という気持ちにもなる。実際には、同じ時に、同じ場所にいたとしても、同じことを憶えていること自体が、意外に少なそうだが、強烈な出来事であれば、一緒に話せることも多くなるはずだ。たとえば、今の外出を自粛されるような状況は、いろいろな人の様々な思いに触れることが増えて、話せることも多くなるような気もする。

 もちろん、完全に同じ場所や出来事ではなくても、「私は、こんな時、こう感じていました」と投げかけて、そのことに反応して、別の誰かが、「私は、こんな風に思っていました」と反応してもらったら、それだけで、やっぱりうれしくなると想像する。その内容が違っていると、そのずれの分だけ、豊かさが生まれるかもしれない。

 さらには、「わたしも、そう思っていました」と同意に近い反応をしてくれても、やっぱりうれしいと思う。それが、このnoteであれば、「スキ」という返事になるから、それで、もらうと、うれしくなるのかもしれない。

 たとえば、入学式の時。卒業式の光景。花見の季節のできごと。さらには、恋愛や結婚。友達とのケンカ。みたいなことは、個人的であるけれど、いろいろな人が反応してくれそうな一般性の高い光景ではないか、と思ったりもする。

 今、例としてあげてみて、とっさに思いつくのが、これくらいしかなくて、大勢の人と、共有できそうな出来事に対して、このくらいの想像力しかないことに、自分の限界を、感じたりもする。

自分だけが知っているささやかな光景

 ただ、こうして書いていて、私の場合、思い出して、記録して、こうして公開までしたくなるのは、もっと、ささやかなことなことも多かったりする。それは、逆に、とても自己愛の強さをあらわすような行為なのかもしれない、とも思う。

 しかも、思い出は、その場面に複数の人、場合によっては、大勢の人たちが立ち会っていることもあるが、自分一人だけしかいない場合も少なくない。その時の思い出は、語るとしたら、自分しかいないのだ。と書いて、それは本当だろうか、とも思う。

 自分だけがいた場所の、自分だけが見た光景。それは、今だったらスマホを向けて、写真を撮って、インスタグラムにあげたりしたら、あっという間に、ある種の共有財産になると思う。もう数も数えられないくらい、どこかに統計があるかどうかも分からないけれど、おそらく、この10年で人類が撮影した写真は、写真が発明されてから150年くらいらしいけど、それ以前の140年間よりも、比べるのも無意味なくらい、はるかに多いように思う。

だから、自分だけが見た光景、というものでも、撮影して、公開した瞬間、その意味が変わるような気もする。ただ、私はスマホも携帯も持ったことがない人間なので、このことに関しては、ほぼ説得力はないかもしれない。

何百年前と同じ光景

 もしも、自分だけが立ち会った光景があって、写真を撮ることもなく、自分の中の記憶だけにあり、誰にも語ることはなかったら、その人がいなくなったら、それは、最初から、なかったことと一緒なのだろうか。その光景自体は、時間の経過によって変化するだろうし、その時しか見えない光景もある。考えたら、誰も見ていない時の、決定的瞬間というのは、どんな意味があるのだろうか。

 だけど、その光景そのものは、ずっとある場合もある。そうなると、この光景は何百年前の人も見ただろうか、とたまに想像すると、その光景を見た人の気持ちみたいなものを、反射的に、わずかでも考えることがあって、それで、何百年という、時間の長さが、ちょっとだけ顔を見せたような気にもなる。

 分かりやすい例をあげれば、富士山は、かなり昔からある。東京都内でも、「富士見」という名称は、今もあちこちにある。それは、富士山という存在と、それを見ること、という事がセットで、何かがあるとしても、誰も見ることがなかったら、それはなかったことに近くなるのだろうか、と思う。

杉本博司の「海景」

 そんなことをもっと考えたり、感じたりすることを思うと、杉本博司の「海景」という作品のことを思い出す。その作品は、海の海面と空以外は、なにも写っていない、というより、写さないようにしている写真作品である。最初はピンとこなかったが、この光景は、何百年も前の人が見ていたものと限りなく近いものかも、と思った時に、その作品の見え方が変わったことがあった。

 話は少しそれますが、この杉本氏の作品に、興味が湧いた方は、以下のサイトに、もっと詳しく、わかりやすく書かれていますので、誰に頼まれたわけでもないですが、検索をしたら見つかったので、よろしかったら、ご覧ください。誰かと、この作品の凄さについて、一緒に話をしたい、という気持ちもあって、リンクしました。

議論というぶつかりあい

 すみません。話が少しずれました。

 誰かの主張や意見といった抽象的な言葉に対して、反射的に出てくる、自分の感情や言葉は、思い出の光景といった具体性のあるものではなく、もっと何らかの色がついた固まりみたいなもので、だから、ぶつかりあうようなことが多いのでは、と思う。もちろん、もっと具体的な出来事にもとづく主張であれば、その光景が、はっきりと浮かんでいる場合もあるかもしれない。 

 ただ、主張という、どこか抽象的なことを、いろいろな人がぶつけあったとしても、理想的には、考えみたいなものが、うまく混ざり合い、今までになかった色が生み出される、といったことになれば、美しいのかもしれない。でも、おそらく、そんなことは、少ないと直感的に思ってしまう。
 それは、主張や意見は、どこか固い物質に近いものなので、合わさることは難しいと、勝手に思っているだけかもしれないし、色としても、多くの色が混ざるほど、黒に近づくはずなので、やっぱり話し合いは、難しいのかもしれない。

 こうしたことは、昔や現代の、もっと頭がいい人が書いてくれていると思うのですが、でも、主張や意見や考え、みたいなものは、その人だけのもの、ではなく、公開をして、話し合って、そのことによって洗練されていく、という前提があるように思う。ただ、これは、あまりに粗い発想で、ただの幻想に過ぎないなどと言われそうなことでもあるのだけど。

あいまいなものを書いて、伝えていく意味

 もっとささやかな個人的な思い出の光景について、書いていくのは、ことに意味はあるのだろうか。

 そんなことを、そばで本を読んでいた妻に尋ねたら、
「自分の中のあいまいさを、少しでも形にすることは、本人にとっては、意味はあると思う」と、妻はすぐに答えてくれて、それは、私もそうだと思った。

 それでも、その人だけの光景、そして、その時に伴う、その人だけの感情。そこには、書いた本人の満足感と、あ、分かったといった気持ちみたいなもの以外に、意味はあるのだろうか、と思う。その表現が優れていて、読んだ人に、その光景を見せてくれるようなものになっていたら、当然のように価値はあると思える。だけど、それは、それこそ一部のプロの仕事だったり、優れた書き手だけに許された行為なのだろうか。それ以外の人の書くことには、自分も含めて、価値はないのだろうか、などと思う。

 しかも、自分だけが立ち会っていて、さらに過去の出来事であれば、その記憶はあいまいになり、事実と違ってくることも少なくない。今の出来事であっても、自分の気持ちが強く出てしまえば、見えるはずのものが見えなくなることだって、多い。
 それを、書いて、さらには公開して、それは、書いている人間の自己満足にはなっても、読む側にとって、意味はあるのだろうか。などと、書きながら、思っていたりもする。

 それでも、自分への言い訳の部分もあるとは思うが、あいまいであっても、書く意味はあるのではないか、とここまで書いて、改めて思う。

ささやかなことを書いて、公開する時でも、それに伴う覚悟や責任

 もちろん、前提として、ささやかであっても、書いて、公開して、不特定多数の目に触れる以上、フィクションでなければ、事実と違うことを書かないようにしたほうがいいとは思う。その書いたことによって、誰かに不利益をもたらすものであれば、場合によっては、犯罪に近いことになるから、その人にとっては、その時思った事実であっても、具体的な根拠がなければ、自分の気持ちの中だけに留めておいたほうがいい場合もある。
 いわゆる歴史修正主義者(改竄主義者の方が意味としては正確かもしれない)の行為は、自分の願望にそわせるように、実際の歴史をねじ曲げてしまう行為に見えるから、やめるべきことだと思う。
 それは、道徳的なことだけでなく、人類の知性の集合体が、やっぱり乱れていくことにつながるのではないか、といった思いもあるからだ。オカルトではないけど、「情けは人のためならず。巡り巡って、我に返らん」といった大きな流れの中での得になったり、損なことになったり、に関係があるようにも思う。

 ただ、あいまいな思い出の光景であっても、場合によっては事実と違ってしまったささやかな光景でも、その人にとっては事実であることに間違いない。その違ってしまったことまで含めて、思い出になっていたりする。
 これまでは、そうしたことは、身近な人に話すくらいだったのだけど、今は、こうして個人でも、もっと違う誰かに届く可能性があるから、また意味が違ってくる可能性はある。

 あいまいであっても、確かに見た光景があり、そこで確かに感じる気持ちがあって、それが長い時間の中で変形されていたとしても、それが誰かを陥れることでなければ、書く意味はあるのではないだろうか。それは、ただ、自分のあいまいな記憶への覚悟とか責任も、ささやかであっても伴ってくるということでもあるのだろう。そんな重さを、自意識過剰かもしれないが、思ったりもする。

プライベートな文章が膨大に存在し、公開される時代

 こうして、公開することで、たぶん、最低でも、一人は読んでくれる。そう思う事自体が、やっぱりうれしい。それに、自分の書いたものが、人が読んでくれることで、その読んでくれた人の中に、あいまいだった光景が、また違うものになっているのでは、と想像すると、不思議な気持ちにはなる。

 それは、他の人が書いた、おそらくはその人の個人的な思い出でも、私自身が読み手として読んだら、自分の中の似たような記憶が蘇るだけでなく、他の人の視点や見方が、ちょっと自分の中に入り込んできて、おおげさにいえば、少しだけ世界が広くなる、ような気がする。今までだったら、そんなに触れることがなかったようなプライベートな文章に、SNSができて以来、大量に接することができるようになった。そして、こうして、その材料を、今も、自分も、せっせと作っている。

 それに、大勢の人が共有できるような出来事、たとえば、ずっと不安が続くような現在の状況でも、今までだったら、声の大きい人や、表現の優れた、ある意味で「力の強い人」の見方ばかりが優先されて、それは、これからも基本的に変わらないとしても、こうして、ささやかな声も、誰かに届く可能性が今までよりは、少し高くなっていると、思いたい。

 もう少し科学的かもしれないことを、薄い理解力のまま、生意気にも言えば、たとえば、アンケートのように、いくつかの答えに答える集計ではなく、その時の複雑な思いが複雑なまま記録されているデータが集まり続けていると見ることができるかもしれない。その膨大な言葉を今までとは違う方法で集計し、分析し、考察することによって、今までとは違う種類の全体意志みたいなものが、見えてくる可能性は、ないのだろうか。

読み手がいることの意味の大きさ

 ここまで書いてみて、書くだけで、読み手がいないと、書くことに、やっぱり意味はないかもと思うけれど、誰も読まない文章も、少なくとも書いている人は読んでいるから、読み手がいない文章は、実は、これまでも存在しなかったのかもしれない、などと思う。(これは、すでに誰かが書いているようなこととは思うのですが、今、とりあえず書いていて、思いましたので、ご容赦ください)

 自分のあいまいな記憶や思い出や感想でも、それを誰かが読むことで、ちょっとでも見方が変わったり、その書いた光景に触れて、何かしらの感情を抱いてくれれば、それは、やっぱりうれしい。

 写真を撮影する人が爆発的に増えて、写真そのものの蓄積が膨大になったことで、まだはっきりしないが、すでに、今までとは違った、なんらかの影響が出ているかもしれない。

 それと同様に、ささやかでも、あいまいでも、個人的な思い出や光景や印象や感想や、場合によっては、なんだか分からないものでも、今までだったら、形にならないまま消えていったようなことを、大勢の人が書いて、公開して、誰かに読んでもらうことで、やっぱり、今ははっきりとしない、今までとは微妙に違う意味が生まれかかっているのかもしれない。

 それも、主張や考えといった、どこか硬いものだけでなく、あいまいでも自分だけの中にあるような、思い出や光景を、書くことで、それが膨大に蓄積することで、それらは交じりあって、何か、少しでも美しいものになれば、と思っている。だけど、これは、あまりにも楽観的で、浅はかな考えなのかもしれない。

 この文章も、ややこしくて、思ったより長くなって、申し訳ないのですが、どなたかが読んでくれて、その読んでくれた人が、もっといいものに育ててくれれば、意味があるものになるかもしれません。

という、あいまいな、とりあえずの、結論です。

 理屈っぽくて、未熟な思考の過程が形になったような、読みにくい文章を最後まで、読んでもらい、ありがとうございました。



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