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「地動説」を「信じること」と、「コロナ禍」に「マスクをつけること」は、似ているのかもしれない。

 最近、場所をとるので、マンガをあまり読まなくなっていたのだけど、テレビ番組で、マンガのことを、とても楽しそうに語っているのを見て、何冊か読みたくなった。


 その中の一冊が、「チ  地球の運動について」だった。

 読んでいると、地動説のこと。知そのもの。それが、テーマになっているようで、そして、まだ2巻までしか読んでいないけれど、こんなに描けるのかという凄みを感じた。

 たまにはちゃんとマンガも読まないと、自分も、ただ古くなるのではないか、と本当に思った。

「コロナ禍」に「マスクをすること」

 今は、外出をすると、ほぼ全ての人がマスクをしている。
 それを見て、今は違和感はなくなっている。

 だけど、久しぶりに、そのことへの違和感を表明する言葉を聞いたことによって、改めて、どうしてマスクをしているのか?を考えることができた。

 別に新しいことではない。
 すでに言い古されたことだけを、繰り返すことになると思う。

 マスクをしても、自分自身の感染を防ぐことはできない。目に見えないウイルスは、普通のマスクだったら、2枚重ねにしても、そのすき間から入ってきてしまい、吸い込んでしまう。

 だから、自分のためにマスクをしていない。

 それに、マスクをしても、人に感染させるリスクを完全に防げるわけではない。ウイルスは、マスクのすき間を通り抜けて、外へ出てしまい、それが誰かに感染させることになってしまうかもしれない。

 だけど、自分が知らないうちに感染していて、まだ無症状だったりする時に、くしゃみをしたり、話したりして、飛沫が飛んだ時に、それが周囲に飛び散って、他の誰かに感染させるリスクを、おそらくはほんの少しでも減らせると思う。

 そのために、マスクをしている。

 無症状でも感染するという、「タチの悪い」ウイルスに対して、ほんの少しでも感染拡大を予防し、そのことによって、自分からは直接は見えない重症化しやすい誰かが、感染しないですむことを想像して、マスクをつけ続けている。

 それは巡り巡って、感染者数の全体の数を少しでも減らすことになり、ぜんそくを持っている家族の感染のリスクを減らせるかもしれない、ということも願うような気持ちでもいるから、自分のためでもあるのだけど、それでも、直接は目に見えていない誰かのため、という気持ちはある。


 家族や大事な人にも重症化しやすい人がいなくて、自分自身も若くて健康な人たちがマスクをしていたとすれば、それは、私よりも、もっと、「そばにはいない誰か」のための行為だから、それは「利他的」な行動だと、昨年思ったのだけど、その気持ちは今年も変わらない。

「地動説を信じること」と「マスクをすること」

 最近、面白いと思ったマンガ「チ 地球の運動について」のことを説明する時に、「地動説」と「天動説」の話をしなくてはいけなくなった。その話の前だか後に、「コロナ禍」に「マスクをすること」の話題も出て、その2つのことを話してから、しばらくたった時に、ふと思った。

「コロナ禍」に「マスクをすること」と、「地動説」を「信じること」は、実は似ているのではないだろうか。

「地動説」を信じる理由

「天動説」の方が、実感としては信じやすい。

 毎日、日は昇って、日は沈む。
 地球が自転をしていて、さらに太陽の周りを回っているよりも、太陽が地球の周りを回っていると考えた方が、素朴に信じやすい

 動かない大地に、自分は生きている。
 何も知らなければ、普通に、そう思うはずだ。

 だけど、「チ」の時代(かなり架空らしいが)ならともかく、21世紀に生きている人間であれば、おそらくは、「地動説」を信じている人の方が圧倒的に多い。(すでに、事実として観測されているのだから「地動説」という言葉を使うのは、本当はおかしいのかもしれない)。

 私も含めて、「地球が動いている」ことを実感している人は、ほぼいないと思うのだけど、それでも「地動説」の方が正しいということは、みんなが同意しているように感じている。

 それは、やはり教育を受けているからで、まだ右も左もわからない小学生の時に、太陽系という言葉を知り、太陽の周りを地球が回っていることを教えられる。

 その上で、地球に関する言葉や、宇宙についての話題に関しては、全てが「地動説」を元にした説明がされ続ける。一般的には、誰も「天動説」を唱えない。そんな時間の中を生きてくると、「地球が動く」こと前提で考える癖がつく。


 これは、「コロナ禍」で「マスクをつけること」と、実は、かなり似ているのではないか、と思ってしまった。

 どちらも、自分の目では直接確かめるのはできないにも関わらず、科学的な情報を元にした想像力によって、信じて行動している。という意味で共通しているように感じる。

「コロナはただの風邪」という主張と、「天動説」

 今は、それほど表立って語られなくなったけれど、2020年の都知事選には「コロナはただの風邪」と主張する候補者がいて、一定の支持もされていた。

 それは、アメリカの元・大統領トランプが主張していたこととかなり近く、日本国内でも、そうした考えの人が存在することへの驚きもあったりもするのだけど、今も、コロナはそんなに恐れる必要はない、というような言葉をインターネット上で見ることも少なくない。それは、マスクをする必要はない、という言葉で、表現もされているように思う。

 コロナ禍という言葉が定着して、「コロナはただの風邪」という主張も知ったが、今になると、「コロナはただの風邪」という主張は「天動説」と似ているのではないか、と思えるようになった。

変えられない「主観」

 自分自身が若く、健康で、家族にも、周りの大事な人も、同様に若く健康で、親がいる場合も、健康で、それほどの高年齢でもなければ、新型コロナウイルスに感染しても、軽症で済む確率は高くなる。

 だから、そういう人から「見える範囲」だけで考えれば、「コロナはただの風邪」ということは、「主観」や「実感」では、完全に「事実」になってしまうと思う。

 自分が「見えないところ」で、何万人感染しても、大勢の人が亡くなったとしても、それは、マスコミやWHOの嘘といった「陰謀論」を本気で信じることができれば、マスクなんてバカバカしくて、つけていられず、「他の人のため」と思ってマスクをしている人たちが、愚かに見えてしまうのかもしれない。

 いったん「コロナはただの風邪」といったことを信じ込んでしまったとしたら、日夜、そのことを強化するような情報のみに接しているはずで、そうなってしまった人を説得するのは難しい。

「天動説」と同様に、個人的な実感を元にした「理論」は、強いはずだし、さらに、「天動説」を信じていた人たちが、「地動説」が事実だと分かった後でも、考えを変えない、という「歴史」からも、そういう「主観」が変化しにくいのは、明らかだと思う。

 天道説から地動説に変わっていく理由というのは、説得でも論破でもなくて、じつは「世代交代」でしかなかったんです。
 つまりパラダイムシフトとは世代交代だということなんです。

「地動説」を信じることと、コロナ禍で「マスク」をつけることは、つながっているのかもしれない

 「地動説」を信じているのも、「天動説」と同様に、「洗脳」の結果と言えるのかもしれない。ただ、現在では、「地球が動いている」のは「科学的」な常識でもあるし、それに異を唱える人は、かなり特殊な人だと見られてしまう可能性が高い。

 自分の実感からは遠いことでも、科学的に実証されたことを信じ、それに従うことができる現代人だから、目に見えないウイルスに関してもイメージをし、また、自分の目が届かないところにいる重症化しやすい人を想像し、マスクをつけることができるのではないだろうか。

 もし、実感だけが全ての世界が続いていたら、「コロナはただの風邪」というような言説はさらに力を持ち、もっと新型コロナウイルスの犠牲者が増えていた可能性があるのかもしれない。


 「地動説」を信じることと、「コロナ感染予防」について、一緒に考えていたら、そんなことを思った。



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