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「植物は動かない」からこそ、「成長」と「変化」を続けられる。と思った。

 家の柿の枝を切る。

 電線にかかりそうだから、高枝切りバサミを使って、何本も切る。
 切れ味が悪くなっているから、はさんで、ひねらないと、枝が切り落とせない。

 だけど、確かこの前、わりと新しいノコギリを買って、その切れ味が良くて、だから、多少の太い枝も切れるようになって、なんとなくうれしくて何本も切ったはずだ。

 これで、しばらく安心だ。

 そんなことを思ったのは、つい最近のはずだったのに、もう、こんなに伸びている。

 どうして、こんなに伸びるのだろう。


 実家は、両親が亡くなり、今は誰も住んでいないのだけど、いろいろ事情があって、そのままにしてある。何もしないと、荒れた空き家になってしまうので、定期的に通って窓を開けて空気を通したり、そして庭の手入れもする。

 父の趣味なのか、それほど広くない庭に、さまざまな樹木が植えられ、それも、角地で少し高い場所に建っているとはいっても、敷地ギリギリに、梅や、他の名前をあまり知らないような小さめの樹木が植えてあるから、その枝を整えるためには、なんだか、変に身を乗り出さなくてはいけないから、やりにくい場所がある。

 それでも、伸びっぱなしだと、場所によっては電線に引っかかりそうになるから、脚立に乗って、新しめのノコギリを使って、太めの松の木の枝も切り落としたこともあった。

 それに、そのノコギリが切れるので、ちょっとうれしくなって、松の木だけではなくて、伸びてきた樹木のあれこれを切った。

 かなり切り込んで、そして、どれも短くして、かなりさっぱりして、そのときも思った。

 これで、しばらく安心だ。

 だけど、その次に実家に行ったときには、また樹木の枝がいっぱいになっていた。

 どうして、こんなに伸びるのだろう。

 だから、植物が伸びることに生命力を感じてはいるのだけど、だけど、こんなに伸びなければ、こんなにいつも高枝切りバサミやノコギリなどを使って、切らなくてもいいのに、と勝手なことを思っていた。

 実家の庭には、それほど頻繁に行けないから、除草剤をまいて、あまり生やさないようにしているのだけど、それでも、伸びてくるドクダミもある。

 植物が、こんなに伸びるすごさは、いつも感じてはいた。

植物の成長

 特に夏になると、とても暑いのだけど、その太陽の光によって、植物は、とても生き生きしているようにも見える。

 電車の中から、いつも見ているような小さな茂みも、わずかな間に、密度が増して、緑の色も濃くなっているような気がする。

 家や実家の庭などだけではなく、夏になると、目にする植物は、小さくても大きくても、どこででも、すごく勢いがあって、特に気温が高いほど、凄みを増しているような気がした。

 植物は動けない。

 タネがどこに落ちるか分からない以上、その場所は選べない。

 それは、どれだけの苦痛なのか。それとも、それしか選択肢がないから、そこでなんとかするしかない、というような諦めもあるのだろうか。

 植物に感情があるかどうかも分からないけれど、ごく当たり前のことに、夏の植物を見て、気がついた。

 植物は動かない。
 だから、成長ばかりをしている。

 それは、置かれた場所で咲きなさい、といった柔らかくも命令的な言葉におさまるようなことではなく、この場所で生き抜いていくために、止まることのない成長を、毎秒のようにしていると考えたら、それは、目を背けたくなるほどのエネルギーの持続でもあるのだから、改めて、やっぱりすごいことだと思った。

植物のライフサイクル

■1年草のライフサイクル
発芽して開花し、タネをつくって枯れるまでを1年以内で行う。

■木のサイクル
木には1年を通しての生育サイクルがある。常に緑を保ち続けて、変化が見られないような常緑樹でも、四季を通じて絶えず変化している。多くの木は春に生育を開始し、芽吹きの前後か、生長期の後に開花、結実し、その後実が熟す。寒さに向かうと活動を一時的に休止し、葉を落として休眠する。常緑樹でも葉の寿命は永遠ということではなく、多くの常緑樹は新しい葉が出るときに、一番古い葉が落ちて、新旧交代が行われる。

(「住友化学園芸」より)

 このように「1年草」でも、「木」でも、常に成長や変化をしている。
 だから、動かないのだけど、時間的には止まっていることがない。

 その上、動物の寿命をはるかに超えた長い年月を生きている樹木まで存在する。

長生きの木を見ると、スギやヒノキ、ケヤキなど、どれも高木の傾向があります。世界一高く伸びるセコイアも非常に長寿で、カリフォルニア州のセコイア公園にそびえるジャイアントセコイアは推定樹齢2300~2700年。木の長寿ランキングベストテンに入りそうです。

(「OKAMURA」より)

 2000年を超える年月は、西暦でいえば、紀元前から命があり続けているということで、その間も成長し、変化し、止まらないというエネルギーは、やはり、とんでもないことであって、だから、時々、切っても切っても伸び続ける植物に、怖さを感じるのだと思った。

動くこと

 そうした植物を見ていると、こじつけかもしれないけれど、でも、同じ生物として、人間のことまで勝手に考えてしまうのは、自分が人間だからだと思う。

 人間は小さい頃から、活発だったり、積極的だったりすることを求められる。

 元気いっぱい。
 伸び伸び。

 そして、成人すれば、社会の中の経済活動では、当然、動くことが大事になる。

 スピードを持って、対応する。
 継続する努力が称えられる。

 年齢を重ねて、老いて、誰もが体の機能が低下している時期でさえ、止まることを許されていないように思う。

 元気で生き生き。
 自立する高齢者。

 それは、とても分かりやすく、時代が進むほど、動き続けることを推奨され、期待され、止まることが許されないような気配が強まっていくようだ。

 だけど、それは、本当に人間という生物に適したことなのだろうか。

動かないとき

 植物は動かない。(中には例外もあるけれど、それは今回は勝手ながら除外します)。

 でも、成長を続ける。おそらく毎日、毎日、伸びている。

 それは、動かないから可能なことで、もしも、動くことができたとすれば、毎日身長を伸ばすようなことはできない、と思う。

 ここから、またこじつけかもしれないが、もしかしたら、人間も動き続けるだけでは、それもある種の成長を促すのは当然としても、止まらないと、成長しない要素もあるかもしれない。

 毎日の睡眠だけでは足りず、あまりにも疲れた時に動けなくなること。
 体だけでなく、心に負担をかけすぎたことで、止まることが必要になる場合。
 病気になってしまい、治療に専念するしかないとき。

 わかったようなことを言うのは失礼だと思うけれど、そういうときは、止まっていること、動かないことが重要なのではないだろうか。

 植物は動かないから、成長と変化を続けることができるように、現代だと、人間は、やたらと動くことを求められて、それ自体が「正しい」ことのようにさえ思えるかもしれないけれど、実は「止まっているとき」にしか成長しない要素が、想像以上に存在するのではないか。

 それは、変な言い方になったら申し訳ないのだけど、いろいろあって「動けない」状況があり、そのときは、自責の念や、焦りも含めて、とても苦しい時に違いない。それでも、その時を過ぎると、回復するだけではなく、自分でも気がつかないうちに、不思議に成長や変化をしていることは多いはずだ。

 それは、もしかしたら辛い時にいて、「動けない人」に対しての励ましにおさまるようなことではなく、人間という動物は、「動く時期」と「止まる時期」が、本当の意味で成長するためには、両方必要ということではないだろうか。

 どんな時も、成長と変化を続ける生物である植物を見て、そんなことを思った。




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