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読書感想 『アンソーシャル・ディスタンス』 金原ひとみ 「生きたさ、苦しさ、死にたさの具体性」

 デビューは華々しかった。
 2004年、金原ひとみは、20歳で芥川賞を受賞した。

 それも19歳の綿矢りさと同時受賞で、とても注目されたのは覚えているが、屈折した人間にとっては、うらやましさもあったし、商業主義ではないか(こんな風に思うのも恥ずかしさがあるが)、といった気持ちにもなって、読むのを避けてしまった時期があった。

 あれから20年近くがたっていて、今も作家として、きちんと作品を書き続け、それが今の時代のことも解像度が高く描写していることを、恥ずかしながら改めて知った。


(※この後、作品の紹介のための引用部分で、性描写もあります。注意してくだされば、幸いです)。



『アンソーシャル・ディスタンス』 金原ひとみ

 「新潮」の連載をまとめた短編集。

 2019年1月から、2021年1月号にわたって連載されていて、表題作の「アンソーシャル・ディスタンス」は、2020年6月号に掲載されているから発売は5月。このタイトルはもちろんコロナ禍以降に“一般用語”となった「ソーシャル・ディスタンス」がなければ有り得なかったはずだが、この時期の空気感や気持ちも記録した作品としては、かなり早いとも思った。

パンデミックに閉塞する世の中で、生への希望だったバンドのライブ中止を知ったとき、二人は心中することを決めた。世界を拒絶した若い男女の旅を描く表題作

「公式」な紹介の中に、こうした文章もあって、確かにその通りなのだし、読者としては、ここまでバンドへ思い入れを持ったこともないので、分かったように書けないのだけど、ただ、あのコロナ禍という言葉が使われ始めた頃の、どう警戒すればいいのかどうやって緊張すればいいのか、といった戸惑いも含めた空気感も、この作品の中にあると思った。

そもそも経済優先で利権でしか動かない日本政府がどんなロックダウンを実行できるのかも分からない。卒論が終わって以来、(中略)週に四日は会っている。一週間以上会えない生活など想像もつかない。まあ多分罹っても死にはしないだろうくらいに考えていたコロナは、ロックダウンの可能性が出始めたことで初めて実感できるストレスとなった。 

 これが、この作品のカップルの男性の気持ちだった。そして、ライブが中止となって、こんな言葉になる。

「音楽がなきゃ、ライブがなきゃ死んじゃう人はどうしたらいいのかな。やる方も観る方も、このままじゃ死んじゃうと思わない?でも政府は何の補償もしてないくせにライブハウスを名指しで攻撃する。このままじゃ小さなライブハウスはどんどん潰れていくよ。コロナが過ぎ去った後俺たちの好きなバンドはもう音楽を続けられなくなってて、ライブハウスも軒並み潰れているかもしれないんだよ」

 そして、心中を決めて、旅行に行く。その直線的な決意と同時に、観光地でもある鎌倉近辺の描写が、本当に「あの頃」の忘れてしまいそうな気持ちだと思った。

二日目はゆっくり起きて朝勃ちからのセックスをするとダラダラと支度をして七里ヶ浜の人気のパンケーキ屋さんに行き、コロナだからお客さん少ないと思ったのにと愚痴りながら三十分並んでステーキとパンケーキを食べた。観光客も多くて、皆がお店の看板の写真を撮っていくのを見ながら、コロナなんて嘘のように感じる。皆が普通で、普通に観光をして普通に美味しいお店に並び、普通に美味しいパンケーキ普通に食べて普通に帰っていく。Twitterのトレンドにコロナ関連のニュースが出るたび、まだどこか映画を見ているような気になる。 

コロナ禍の分断

 この作品集の中で最後に「テクノブレイク」があり、これは、乱暴にまとめれば「コロナ禍での分断」が描かれているのだけど、この作品が「新潮」に掲載されたのが2021年1月号。だから、その分断が注目されていた頃のドキュメンタリーとも感じる部分もある。

 とても、お互いに必要として、とても激しい性行為を繰り返していたカップルが、コロナ禍のために離れ始めていく。

それから程なくしてコロナが猛威をふるい、マスクを何箱も買い溜め狂気じみた怖がり方をするようになっていった私に対して、蓮二は戸惑いと呆れを隠さなかった。コロナをさほど気にしていない人の目には、私のような人間は正義の剣を振るい誰彼構わず刺し殺す公害にしか映らないのだろう。

 元々の持病もあるために、コロナ感染に対して、若くてもより過敏にならざるを得ない女性と、そうでない男性の感覚は決定的な亀裂になっていく。

「悪いんだけど、うちに来た時はすぐに手を洗って欲しい。あと蓮二も外に出る時は必ずマスクをして欲しい。私は絶対コロナに罹りたくないの」
 不織布マスクを何日も使いまわしたり、うちに来てのんびり着替えをしてビールを飲み始めた頃に「あ、手洗ってなかった」と洗面所に向かったりする蓮二に、うんざりでも呆れでもなく戦慄していた私は、緊急事態宣言が出るか出ないか世間が騒ぎ始めた頃、ストレスに耐えきれず蓮二にそう要求した。

 この2020年には、どこの家庭でも、どの人間関係でも生じたすれ違いは、こうやって具体性を伴った描写で残さないと、もしかしたら忘れられてしまうのではないかと思えた。同時に、気にしない側の気持ちも表現されている。

「芽衣の過剰な恐怖の言葉を聞くたびに、人間は弱い生き物だって痛感する。俺はそういうメンタリティで生きていたくないんだ。ある種の全能感を大切にして生きていきたい。芽衣と付き合うことは、その全能感を強化することだった。一緒に辛いものを食べて汗だくになって、汗だくになって全力でセックスしていると、自分たちは世界を凌駕する存在だっていう気がした。でも今芽衣と一緒にいると、自分が無力でみすぼらしい存在に感じられる」

生きるための依存と、依存への恐れ

 苦しさは、生きているから生じるし、そのために、死にたさにつながるし、だけど、生きたさがあれば、何かにすがりながらでも、生きようとする。

 そんなふうに分かったようなことを書くのは失礼なのだけど、この短編集では、何かに依存せざるを得ない人たちが登場するが、その具体性の積み重ねによって、当事者の気持ちが、少しこちらの心にも蓄積してくるような感覚にもなる。


「ストロング ゼロ」の主人公は、美しい顔の男性が好きで、その望み通りの彼が少しずつ調子を崩し、うつになり、部屋から出れなくなっていく中で、アルコールを手放せなくなっていく。その描写が、「飲まなきゃやっていられない」といった、どこか粗い表現ではなく、具体性の積み重ねによって、こちらに浸透してくるような感覚になる。少し長いが、引用する。

朝起きてまずストロングを飲み干す。化粧をしながら二本目のストロングを嗜む。通勤中は爆音で音楽を聴きながらパズルゲームをやり、会社に着くとすぐにメールや電話の連絡作業をこなす。昼はコンビニで済ませてしまうか、セナちゃんや他の同僚と社食や外食に行き、食事中あるいは戻る前にビールかストロングを飲む、午後は基本的には原稿かゲラを読み、夜遅くなる時はファミレスや中華料理屋で夕飯がてら、あるいはコンビニの前で酒を飲み、帰宅の電車やタクシー内でもパズルゲームをやり、帰宅後一分以内にストロングを開け意識が混濁するまで飲んでからベッドに入るかソファでそのまま寝付く。最近は最寄駅に着いた瞬間耐えきれずコンビニで買ったストロングを飲みながら帰宅することが増えた。最初はストロング一本だった寝酒が二本になり、三本になり、次第に二杯目からは焼酎やワインに切り替わるようになり、一人で出入りするようになったバーでウィスキーに手を出しその味を覚えてからはウィスキーも家に常備するようになった。この生活の中で、私はシラフでいる時間はほとんどなく、睡眠時間以外でお酒を飲んでいないのは会社にいる時間と移動時間だけと言っても過言ではなかった。 


デバッガー」の主人公は35歳。仕事のキャリアも恋愛経験も重ね、24歳の後輩と付き合うようになってから、自身の容姿の衰えが気になり、整形を繰り返すようになっていく。

これまで整形をする人たちは好きでやっているのだろうくらいに思っていたけれど、彼女たちもこんな不安と恐怖に向き合いながら、もしかしたら誰かときちんと向き合い恋愛をするために整形をしていたのかもしれないと思うと笑気麻酔のせいもあってか急激に切なくなって目に涙が滲んだ。 

 そして、美容整形というリスクもある行為に踏み切ってからでも、不安と恐れから無縁になることはなかった。 

「あの、本当にこのボコボコは治るんでしょうか?」
「数日で治ると思いますよ。それに、今もそこまでボコボコしてるように見えませんよ」
 看護師さんの言葉に愕然とする。だめだ。この人たちはもしもひどい副作用が出たとしても「とてもお綺麗ですよ」とか言って言い逃れする人たちだ。ヒアルロン酸を溶かすにしても別の美容外科に行ったほうが良いかもしれない。

 その一方で、ある期間は、とても喜びに満ちてしまうので、そうやって依存していく気持ちも描写されている。

湧き上がる喜びを抑えきれず、私は鏡をあらゆる角度からじっと見つめ続ける。あんなに悩んでいた顔の問題がこんな一瞬で消えるのだとしたら、美容整形ほど尊いものはない。

 そんな気持ちの激しい上下を繰り返しながらも、どこか虚無感のようなものも大きくなっていく。20代の彼と数年、付き合って、もしも別れたら、40間近になってしまう。

憂鬱だった。でも彼にはそんな不安を吐露できない。何故だろう。前は「顔のアラが」とか「いい年だから」」などと自嘲的なことを言えたのに、付き合い始めた瞬間からそういうことを言えなくなってしまった。私はきっと、私の彼氏であることで、彼に惨めな思いをさせたくないのだ。でもどう考えても惨めな思いをさせたくないと整形に奔走している自分が一番惨めだった。

おすすめしたい人

 具体性も密度も高い作品なので、嫌でも心に浸透してくるような作品だと思います。なので、あまりにも疲れている場合には、おすすめしにくいですが、こんな方々には、読んでいただきたいと思っています。

 なんとなく生きづらいと感じている人。
 なんか分からないけれど、閉塞感に包まれているように思っている方。
 生きるのが、微妙に辛いという気持ちの人。

 読んだあと、分かりにくいですが、少しでも孤立感が減り、生きる力を刺激されていることに気がつくかもしれません。


(こちらは、電子書籍版です↓。)




(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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