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週のはじまりは、水曜日だと思っていた。

 どんな理由か分からないけれど、勝手に思い込んで信じていることがあった。
 いくつくらいか正確に覚えていないけれど、たぶん小学校へ入って1年か2年くらいまでは、1週間の始まりは、水曜日だと思っていた。

最初の記憶

 自分がどんな人間なのか、幼い頃ほど客観的に見ることはできないし、その記憶が古くなるほど、あとになって情報によって出来上がっている記憶だったりするらしい。たとえば、一番古い記憶を尋ねられて、その情景が他の人が聞いた時に、きちんとわかるような内容だったら、それはあとになって作られた記憶の可能性が高い、といった話を聞いたことがある。

 記憶に定着するかどうか、あやふやな状態であったら、もっとぼんやりとした、自分の主観からのみの光景のはず、というようなことが、その裏付けらしい。だから、なんだか分からないようなものが見えた、とか、そんな形になる前の風景のようなものが、本物の最初の記憶になるようだ。そう考えると、整理された、他人にも伝わる記憶は、自分を外側から見ているような視点が、知らないうちに入っているのかもしれない。

「ふ」の思い出

 幼稚園に行っていた頃は、制服があって、半ズボンで黒いストッキングみたいなものを履いていた記憶がある。それは、写真にも残っていて、さらにはベレー帽もかぶっていたのだけど、どうしてああいう格好をしていたのか、それが流行だったのかも、すでによくわからなくなっている。それでも、こういう記憶も、写真があると事実だと分かるのだけど、たとえば、他のいわゆる思い出のようなささいなことは、すでに本当かどうかの証明のしようがない。

 もうずいぶんと昔の幼稚園に行っているような子供は、入園時に試験があるわけでもなく、近所だから、周りのみんなが行くから、といった理由で通っていただけで、そこに行って何をしているかと言えば、お遊戯とか、お絵描きとか、お昼寝とか、そんなことをしていたらしいが、一切覚えていない。

 当時の写真を見ると、やけにうれしそうに、体を動かしているのが一枚あったけれど、そんなに楽しかった思いをした記憶はないし、そこでは、何か勉強的なものを教えてもらったこともなかった。だから、文字も、一部の進んでいる子供以外は知らなかった。もしくは、何しろ、コミュニケーションが苦手な子供だったから、同じクラスにいる子供の状況を、ただ知らないだけだったのかもしれない。

 それでも、クラスの子たちと、ひらがなのことを、話した記憶がある。

 幼稚園のすみっこで、自分も含めて四人くらい。小さい子供が集まって、だけど、自分も小さいと、可愛いとか、そういう意識もまったくなくて、ただ、その中の一人が、「おい、知ってるか?」みたいな、やや上からの感じで話をしだして、そのテーマは「ふ、っていう字書けるか?」だった。

 わたしは、「知らない」と答えたのか、何も言わずに首をふっただけなのかも、すでに覚えていないが、その子が教えてくれたのが、「ふ」の書き方だった。

 まず数字の3を書く。そのまわりに、点を3つうてば、それが「ふ」というんだ。

 その後、もう少し成長すると、それは「ふ」というには、ちょっと違うとも思うのだけど、子どもにとっては、「ふ」は、微妙なカーブもあって、書きにくく、覚えにくいから、数字の「3」をベースにするのは、優れた教え方かもしれないとも思った。

小学校の記憶

 小学校へ入ってからも、学校へ行っても、家でもほとんどしゃべらないような子供だった。それは、今のように動画があるような環境でもないから、意外と話していたのかもしれないけれど、自分の記憶の中では、1日ほぼ言葉を発しない日も多かったと思う。

 ずいぶんと後になって、家族に、すごくおとなしいけど、大丈夫か?と思われていたと、聞いたから、やっぱりちょっと心配されるような子供だったのかもしれない。

 覚えているのは、小学校からの帰り道、1年生の頃、普段は、そんなに話もしないクラスメートの3人くらいと一緒になぜか帰ることになって、たぶん、冬になっていたから、サンタクロースの話になった。

 いるか、いないか。たぶん、私だけが、サンタクロースはいる、と主張をして、微妙にもめた。ケンカまではいかないけれど、珍しく、強めの口調になったのを覚えている。ただ、それも、記憶として残っているけれど、本当かどうかも、すでに分からなくなっている。

 学校から、もらったプリントなどは、ランドセルに入れて、そのまま忘れて、どうして出さないの?と親にも怒られたような気もするが、それでも、忘れて、というよりは、もらったことを覚えていなくて、いつも、底の方に丸まったり、折り畳まれてアコーディオンのようになっていることが多かった。

水曜日が、週の始まりだと思っていた。

 毎日のように、夜の7時台にアニメをやっているような時代だったから、曜日とアニメの題名が結びついているくらい、楽しみにしていたのだと思う。そのうちで覚えているのは、今になってみたら、紅三四郎というタイトルだけはすぐに浮かぶのだけど、その内容は覚えていない。

 今になって検索したら、このアニメが水曜日の夜にやっていたのを知った。まさか、そのことと関係ないと思うのだけど、その頃は、水曜日が、週のはじまりだと思っていた。

 どうしてそう思ったのか、も覚えていないし、その理由もわからない。だけど、カレンダーを見て、日曜日から始まっている数字の並びを見ると、水曜日は位置的には真ん中で、もしかしたら、そういうことで、子どもの私は、誰にも言わずに、勝手に思い込んでしまったのかもしれない。

 だけど、いつのまにか、そんな風に思わなくなった。

思い込みのほぐれかた

 考えてみたら、この「水曜日が、週の始まりだと思っていた」という記憶自体も、本当かどうか分からない。だけど、証明のしようもないけれど、自分にとっては、今も事実だと思っている。

 いつのまにか、週の始まりは、月曜日(もしくは日曜日)と普通に思うようになったけれど、それは、他の人たちと、比較的普通にコミュニケーションをとるようになった時期と、おそらくは一致している。

 誰とも十分なコミュニケーションをとっていないと、独特な思い込みが生まれやすいのかもしれないし、それは、だけど、他の人の考えや、思いに触れることによって、その偏りがほぐれていく、という歴史を、大げさにいえば、幼い自分が秘かに辿っていた可能性もある。

 

 それでも、どうして「水曜日が週の始まり」だと思い込んだのか、については、自分のことだけど、今でも、ちょっと興味がある。




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