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「サイクリスト」の「距離感覚」と、「ランナー」の「時間感覚」の不思議。

 健康に気を使う人は、年齢を重ねると増えてくるような気がする。

 その中で、よく聞くスポーツは、個人的には、「自転車」「ランニング」で、自分のペースで取り組めるから、それなりの年齢になってからでも始められるし、今は、競技人口も多いから、より続けやすい環境になっていると思う。

 例えば、「自転車」というよりは、とても長い距離を日常的に走る人は「サイクリスト」という名称の方がふさわしい気がするけれど、そういう方達と話して、微妙な違和感を覚えるのは、距離に関する話の時だ。

「100km」の響き

 例えば、茨城県の霞ヶ浦を1周すると、100kmを超えるらしい。
(実際は130キロ)

 このコースの話をするときの、サイクリストの人たちの「100km」の響きが、不思議な感じがした。

 私にとっては、その距離は、とても遠く、クルマもペーパードライバーだから、電車に乗ると、どこまで行けるのだろう、というような「距離感覚」になる。

 東京都内からだと、ちょうど100kmは、栃木県宇都宮にもなるらしいが、今、想像しても、宇都宮は、かなり遠く、電車を乗り継ぐイメージはできるけれど、自分が歩いたり、走ったり、と体と直接つながった感覚は抱きにくい。

 だけど、霞ヶ浦1周は、100kmを超えているのだけど、「サイクリスト」にとっての「100キロ」の響きが、とても日常的で、例えば、私自身の感覚で言えば、それほど長距離を歩くことはないのだけど、自分が「4キロ」と発声する重みと、あまり変わらないような気がした。

 それは、「サイクリスト」にとっての「100km」は、日常的になり、何度も、何十回も経験した距離だから、とても身近になっているということなのだろうか、と思った。

 おそらく「サイクリスト」にとって、自転車で長く走ることは体にも心にもいいから続けているし、場合によっては、一緒に走ることを勧められそうな感じもするけれど、「100km」の響きが、あまりにも短く聞こえすぎて、どこか怖さもあったので、どうしても長く走るのはちゅうちょしてしまう。

 それは慣れる、という人間の凄さの表れなのかもしれない、とも感じているが、「サイクリスト」の距離感は、やはり「常人」とは、違うものになっていると思う。

「ランナー」の「1時間」

 もう一つの健康のために始めるメジャースポーツは、(もしかしたら、こちらが競技人口は最も多いかもしれない)「ランニング」だと思う。

 心肺機能は走らないと上がらないのではないか、と思ったりするので、たまに河川敷をゆっくり走る。橋を目安にして、そこまで走ったら、戻ってくる。その間、15分ほど。休日は、午後から夕方にかけて、いつ走っても、かなりの人が走っている。平日でも、誰も走っていないことはない。

 それも、私のように日常的なスウェット姿ではなく、体にフィットしたウェアや、場合によっては、マラソン大会のTシャツを着ている人もいるから、走りも違うし、こんなに「ランナー」が多いのか、と思う。

 日常的にも、人と会って、少し話をすると、フルマラソン経験者は、意外と多い。そして、たまに河川敷を走ったり、といったことを問われるままに話すと、「じゃあ、マラソンやりませんか」と言われることがある。

 そう言われた人たちは、別々の場所の知り合いで、その人たち同士がつながっていないのは明らかなのに、その言い方や響きまでが、似ている。

 そして、例えばフルマラソンだと4時間とか、5時間とかの話になったりするのだけど、私にとっては、その長い時間、ただ走っているという感覚が想像ができない。その時間の長さに、気持ちがやられてしまうような感じまでするのだけど、「ランナー」の走っている「1時間」の話し方は、私には、10分くらい、の長さのように聞こえてしまう。

(この記事↓も、文章にも関わらず、そういう時間感覚の違いは伝わってくるような気がします)。

 だから、「ランナー」の「時間感覚」も、すでに「常人」ではなくなっているように思う。そして、そうなってこそ、フルマラソンのような長い時間走ることができる体と心になっている、と言えるような気がする。

時間の流れ

 ここまでの話も実際の「サイクリスト」や「ランナー」にとっては、何を言っているのか分からない可能性もある。

 だけど、「サイクリスト」と「ランナー」が、「距離感覚」や「時間感覚」について、詳細に話し合ったら、また違うことが分かるかもしれない、などと思うのは、最近、読んだ本で、改めて「時間」について考えたせいもある。

 簡単な事実から始めよう。時間の流れは、山では速く、低地では遅い。  
 その差はほんのわずかだが、今日インターネットで数千ユーロ〔数十万円〕も出せば買える正確な時計を使えば計ることができる。 

 それは、ある意味では「常識」かもしれないけれど、自分の情報や知識が、「相対性理論」の前で止まっているせいか、いまだに、納得が出来ていない。それは単純に比較はできないけれど、天動説の時代に生まれ、地動説が広まっているのに、どうしても天動説の感覚のままの人間と似ているのかもしれなくて、時間の流れ方については、こうした「簡単な事実」に対しても、納得感が少ない。

(地動説を聞いても、「だって大地は動いてないだろ」という人と似ているのだと思う)。

 さらには、じっとしていると時間が早く流れ、動き回っているとゆっくりと過ぎる、という「事実」もあるらしいが、この辺りは、「サイクリスト」や「ランナー」が、「距離」や「時間」を短めに語る感覚とは逆のようで、二重に納得感が遠くなる。


 だから、「サイクリスト」や「ランナー」の感覚は、「相対性理論」よりも、「心理学」の方が説明しやすいのかもしれない。

 楽しい時間はあっという間に過ぎるのに,退屈な時間はとてつもなく長く感じることがあります。同じ長さの時間なのに,どうして長く感じたり短く感じたりするのでしょうか。また,楽しい時間を長くすることはできるのでしょうか。

 もしかすると、「サイクリスト」や「ランナー」にとっては、走っている時間は「楽しい時間」だから、短く感じている、というシンプルなことなのかもしれない。だけど、どちらも私にとっては、苦行の時間だと勝手に思ってしまって、だから、想像なのに、より長く感じ、実際のプレーヤーとの感覚のギャップが大きくなっているだけ、の可能性もある。

 そんなことを、走りもせずに、座りながら考えているから、いつまで経っても、理解が遠い可能性もある、などと思った。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただけると、うれしいです)。


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