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「車イスだけが、ここを通るわけじゃないですからね」……駅員にかけられた言葉から考える②

 かなり前の出来事になるけれど、車イスを押している時に、電車の乗り降りの際に、駅員からかけられた言葉のことを、改めて考えた。

「そちらがよくても、こちらが困るんです」。

 それは、聞いている方も微妙に嫌な気持ちになるのだけど、言葉を発する方も、切羽詰まっている状況だったのではないか、と思えた。それからずいぶん時間がたっても、その発言を生んだ組織の論理みたいなものは、決していい方向に行っていないのではないか。

 こうして、何か違和感を表明すること自体が、波風を立てるとみられ、もしかしたら、以前よりも、それだけで批判を受けるのかもしれない、と思うようになったので、だから、改めて書こうと思った。

 その「そちらがよくても…」から、数年後、違う駅でかけられた声が「車イスだけが、ここを通るわけじゃないですからね」だった。

改札の問題

 これも、古い話で申し訳ないのだけど、10年くらい前のことだ。

 妻と二人で義母の介護をしていて、義母は立つのが難しくなったので、外出する時は必ず車イスを利用していた。デイサービスに行くときは、妻が押してくれて、病院に行く時などは電車の乗り降りもあるので、私が押すようにしていた。

 病院に行くとき、予約するのは、朝夕のラッシュアワーを避けるように、午前遅くなどにしてもらうようにしていた。そして、出かけて、自動改札を通るときには、車イスが通れる改札は限られていた。

 広い自動改札は大体一つで、そこを通る時は、当時は切符を使う場合がほとんどだけど、2枚の切符を改札に入れれば、車イスを押しながら、それでスムーズに通ることができる。

 ただ、いつの頃からか、その大きい改札が一方通行になるようになった。表示を見ると、朝夕のラッシュアワーのような人通りが多い時は、その流れをコントロールするために、一方通行にします、といった説明があった。

 例えば、ある時間帯で、ある駅で、降りる人が圧倒的に多い場合は、駅を出て行く改札を増やすため、普段は両方向で使える自動改札を、出て行く側を多くするために、一方通行にする改札を設置する、という目的らしい。

 だけど、車イスで病院に行く時間帯は、ラッシュアワーよりかなり遅いのに、大きい自動改札を、そういう一方通行改札にしていることが多かった。

 そうなると、改札の前に来ても、車イスが通れる大きい改札は、一方通行で通れなくなっているので、インターフォンで、駅員を呼び出し、その上で、大きい改札を開けてもらう、ということをしてもらっていた。

 それが、病院に行くたびに、毎回、続いた。

 人の流れをスムーズにするために、自動改札の方向を調整するのは理解できたのだけど、改札の位置を考えても、人の流れを見てみても、大きい改札を一方通行にする意味は、よく分からなかった。

 その隣の、通常の幅の改札を一方通行にしてくれれば、どの時間帯であっても、向こうからの利用客がいなければ、駅員に手間をかけさせずに、大きい改札を使って、車イスで駅の乗り降りができるのに、と思っていた。

 毎回、駅員を呼んだ。開けてもらう。お礼を言う。

 その繰り返しは、駅員の時間も奪っているし、こちらも嫌になっていた。

駅員へのお願い

 こちらも、駅員も、無駄なことをしてると思うようになったので、何度も同じように呼び出している時に、少し伝えようと思った。

 それも、一応は、駅員の様子を見て、それほど他に仕事をしていなさそうな時に、改札のことを伝えようとした。それは、私たちだけでなくて、大きい荷物を持った人にとっても不便だと思ったからだ。


「特定の時間帯に、いくつかの改札を一方通行にしていますけれど。 だけど、大きい改札を一方通行にすると、私たちのように車イスで通る人間は、駅員さんを呼ぶしかありません。 

 この改札の中で、大きい改札は一つだけのようなので、これは、いつの時間でも、両方向から通れるようにするのはどうでしょう。 私たちも、駅員さんも、無駄な時間が減ると思うのですが」。

 そんなことを、さらになるべく短く、伝えるようにした。

「わかりました」。

 多くの場合、駅員からは、そんな答えが返ってくるだけだった。
 形式的に「わかりました」と言われるだけで、相手が、あまり聞いていないのは、伝わる。

 それは、壁に向かって、言葉を投げているようなことだった。繰り返すほど、無力感が重なって、なんとも言えない徒労感と、嫌な気持ちが重なる。

 そうした受け答えは、やっぱり、大げさにいえば、こちらの存在が否定されることにも繋がるから、微妙な怒りが積み重なっていたと思う。

 同じ駅で、同じことを繰り返し伝えているのに、いつまでたっても、ちゃんと聞いている感触を得ることはできなかった。

 こちらを人間として扱われている感じがしない。
 それは、わがままな要求なのだろうか。

 忙しい駅員さんに、そんな「苦情」や「意見」に付き合わせることは、迷惑なのだろうか。

繰り返した言葉と無力感

 そんな繰り返しをしていて、そういう会話を、一回あたり数秒しかしていないのだけど、どの駅員さんに話をしても、「わかりました」という壁があるようで、ただ無力感だけが募る。

 それが何度繰り返されたのか分からない頃、それでも、言い始めてからは一定の月日が経っていた時、言わないとゼロだし、と思いながら、続けていた。

 言われる方はウザいとは思うけれど、多くても1ヶ月に一度くらいのペースだったからトータルでは少なかった。だからかもしれないけれど、毎回言っていたのだけど、何も変わらなかった。

「車イスだけが、通るわけじゃありませんからね」

 そんなある日、同じように車イスをおして、病院へ向かった。駅について、インターフォンをおして、開けてもらい、出ていった。そして、その日は、いつもよりも疲れていたのは、病院で時間がかかったからだと思う。

 病院から家へ帰る際、乗る駅では、スムーズに大きい改札を通れたのに、帰りが、いつもよりも微妙に遅くなっていたから、降りる駅に着いた時は、一方通行になっていた。もう少し早ければ、そのまま通れたのに、だから、駅員さんを呼ぶしかなかった。

 いつもと同じように、大きい改札は、いつも両方向から、使えるようにした方が合理的ではないか、といった話はした。

 駅員は、「わかりました」と言ったけれど、いつもよりも投げやりに聞こえた。だから、ムッとしてしまったせいか、こんなことも言ってしまった。

「毎回、こうして話をして、全然、変わらないんですけど。
 お互いに、無駄な時間が減るのに、どうして、いつも聞いてくれる感じがしないんでしょうか。

 すぐに変わるのは難しいとしても、今、目の前で話をしている内容について、どう思うかだけでも教えてもらえませんか。別にそれで、約束した、みたいな、言質を取った、みたいなことは言いませんから」

 あまりにも、反応がないことに、いらだっていたと思う。それは、ほめられたことではないけれど、今、目の前で話をしている相手に対して、人として話をしてもいいのに、という思いはずっとあった。

 そうしたら、初めて感情込みでの答えが返ってきた。

「車イスだけが、ここを通るわけじゃないですからね」。

 その言葉を言うときの駅員の表情は、私にとっては、なんだか嫌だった。ちょっと笑っていたけれど、それは侮蔑の表現に思えた。見下ろしていたのかもしれない。さらに、言い含めるような感じ。教えている、といったニュアンスと、面倒くさい気持ちもあったようだ。それは、尊重する、とは真逆の態度であることは分かった。

 その言葉に対しては、私は、すぐに答える。なるべく感情を入れず、淡々としゃべろうとしたけれど、どこまで伝わったのかは、定かではない。

「そうです。大きな荷物を持った人も通りますよね。そういう人にも、私が言っているようになった方が、便利だと思いますが」。

 それを受けて、駅員は、憮然として、何も言わず、会話が終わった。
 

 ただ、それから何年かたって、いつの間にか、自動改札機については、そういう、いちいち呼び出す機会は、なくなった。大きい改札は、いつでも両方向から通れるようになったのかもしれない。

あの言い方は、何だったのだろうか

 映像で残っているわけではないのだから、本当に、こういうことがあったのかを証明はできない。それに、この時の駅員を責める気もないし、向こうからしてみたら、勤務中に、こちらは何もミスもしていないのに、変なおっさんに、訳のわからないことを言われた、ということだと思う。

 そう考えると、申し訳ないような気もする。

 だけど、どうして「車イスだけが通るわけじゃない」という言い方を、私から見たら、侮蔑的な表情とともに、向けてきたのだろうか。

 それは、今になってみれば、その人個人の考え、というよりは、2000年代から言われるようになった「自己責任論」や、根拠なく唱えられるようになった「弱者利権」といった流れと、もしかしたら関係あるのかもしれない、と思うようになった。

車イスを押しているからと言って、特別扱いされて当然みたいなことを言うなよ』。

 その時の駅員の言葉には、その表情の裏に、そんなような気持ちさえ感じたから、私は、嫌な気持ちになり、コミュニケーションの拒絶にも感じた可能性はある。

 この言い方と、今年(2021年)になっての車イス利用者の発言に対して、「わがまま」と非難されることは、どこかでつながっているようにも思えるから、「車イスだけが、通るわけじゃありませんからね」という言葉を投げかけられたのは、そういう時代が本格化する際の、とても小さい出来事だったのかもしれない。

 では、私は、どうすればよかったのだろうか。
 これまでの2回の言葉を含めて、こうした、うまく行かないコミュニケーションは、どうして発生するのか。

 それは、『「冷たい社会という現実」……駅員にかけられた言葉から考える③』で、もう少し考えたいと思います。




 長い目で見るならば、障害者に深い傷を負わせているこの社会の差別的なあり方こそ、改善されていかないといけないはずだ。だから、障害者としても目の前にいる介助者に都合よく痛みを転化し、留飲を下げるだけでは、決して深い傷の要因が取り除かれることはないだろうし、また介助者としても、単にキレやすいめんどくさい障害者と見るだけでも問題は解決されないだろう。

(この本の中にも、こうした表現↑がありました。どこか、今回の出来事ともつながる、重要な指摘だとも思います)。




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