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「夏の終わりを告げる声」 2020.8.26.

  今日も気温は30度を超えそうで、また真夏日になりそうだった。

夏のマスク

 午後2時頃に外出して、暑いし、誰も周囲にいないので、シャツのポケットにマスクを入れて、持ってますよ、が分かるようにしながら、ノーマスクで歩いていた。それだけ暑いのだけど、人とすれ違いそうな時は、マスクをして、という作業もしていた。

 だけど、時々、すれ違ったり、自転車やバイクに乗っている人も、ほとんどがマスクをしているので、そのうちに、ずっとマスクをしながら、歩き続けた。

 初めての「夏マスク」の季節(リンクあり)は続いていた。

 歩いていると、アスファルトの道に、セミがあおむけで、そこにいた。
 だんだん、そんな姿を見る機会が増えてきたように思う。

さらに混乱した思い出

 カナブンと思っていた、よく見る青い虫が、コガネムシかもしれない、と知って、思い出が混乱したのが、(リンクあり)今年の夏だった。それで、緑色の虫を見るたびに、これは、カナブンか、コガネムシか、と思うようになった。

 そのあと、ご近所の詳しい方が、「それは、ドウガネブイブイかもしれない」と教えてくれたと、妻に聞いた。その場合は、コガネムシよりも、もっと農作物の被害を与えるような害虫らしいとも知った。

 さらに思い出が混乱した。

 そして、そのカナブンか、コガネムシか、ドウガネブイブイ(初めて聞いた)か、どれか分からない緑色の虫をあまり見なくなって、季節が変わりつつあるのだろうか、と思っていたら、今日は、洗濯をしようとしたら、さっそく流しにいた。洗濯槽も、確認したが、そこにはいなかった。


 夕方になったら、1階の蛍光灯にブンブンと当たるから、なんとかしてほしい、と妻に言われて、電気を消したり、いろいろしたが、緑色の虫は、ふっとどこかへいなくなった。その後、今度は台所にあらわれて、妻が、豆腐が入っていた小さい箱でおさえてくれたおかげで、流し台から、ずらして、下を牛乳パックを押さえながら、勝手口をあけて、外へ投げた。たぶん、部屋からは、いなくなってくれた。

 2階に上がって、部屋に入った時に、カーテンにカナブンか、コガネムシか、ドウガネブイブイかが、1匹、カーテンに止まっていて、右手でつかんで、窓をあけて、外へ投げた。どこかにあたる軽い音がした。

 1階と2階の両方に、ほぼ同時にいたのは、初めてだった。

夏の終わりを告げる声

 夜になって、月が雲の中に見えて、雲を溶かすように、時々、半分の形が見えていた。
 きれいだった。
 
 どこから聞こえてくるのか、はっきりしないけれど、リリリリリリ、リ、といった澄んだ声が響いてきた。

 それは、あっちから、もしくは、こっちからも聞こえてくる。

 明らかに秋の虫だった。

 確か、昨日までは夜になっても気温が下がらないせいもあって、セミの声が聞こえてきていたはずだった。今日も気温自体は、そんなに変わらない印象だけど、急に、秋の虫に変わっていた。

 この15年くらい、本当に個人的な感覚に過ぎないけれど、この「境目」が、はっきりしていると思ってきた。その前日までは、セミが鳴いていて、秋の虫の声は、ほとんどしないのに、ある日を境に、夜になると、秋の虫が主流になり、あれだけ夜も鳴いていたセミは、昼間だけになる。

 その変化が、行ったり来たりするのではなく、いったん始まったら、もう夜は、秋の虫のものになる。そして、昼間も、いつのまにか、セミの声が聞こえなくなっていく。

 そんな印象だから、夜の秋の虫の声は、夏の終わりを告げる声に聞こえる。

 このことを、周囲の人に言っても、それほど同意された記憶もないので、もしかしたら、そんな風に劇的な変化があったほうがいいと望んでいる、自分の耳の感覚のゆがみのせいかもしれないけれど、だけど、個人的には、今年は、今日が「境目」で、夏の終わりの始まりだと、思っている。



(他にもいろいろと書いています↓。クリックして読んでいただけたら、うれしいです)。


「セミの定点観測 220分」

3年越しの返却

「思い出に関する、いろいろなこと」

読書感想 『持続可能な魂の利用』  松田青子   『「おじさん」消滅の正統性』

「コロナ禍日記 ー 身のまわりの気持ち」① 2020年3月



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