見出し画像

「もう無理なので、1日も早くオリンピック中止を決定してくれませんか。そして、コロナ対策に集中して、これからの犠牲者を一人でも減らすようにしてください」。(後編)

 もし、よろしかったら、前編↓から、読んでいただけると、ありがたいです。

 基本的には、お伝えたいしたいことは、後編でも同じですが、少し長くなります。私のような社会の隅に生きている何もできない人間には、決定権があるであろう「権力を持つ人」へ、お願いするしかありません。


 今は、もう無理です。東京オリンピック・パラリンピックの中止を1日も早く決めてください。そして、コロナ対策に全力を注入してください。一人でも死亡する人が少なくするために、努力してください。お願いします。
 コロナ対策も順調とは言えず、ワクチン接種も遅れている、この状況で、オリンピック開催を強行することは、コロナによる犠牲者を増やす可能性も高く、さらには、市民とアスリートとの分断さえ招き、それが、今後も続くことさえありえます。     

 東京オリンピック・パラリンピックは中止し、そして、代表選考に勝ち残ったアスリートに対しては、そのこと自体に価値があるので、公開の場で賞賛することで、少しでも報いるべきだとも思っています。

アスリートに共通する印象

 前編でも、この「ナンバー」の特集を読ませてもらったことが、この記事を書くきっかけになりました。

 この「特集」は、50人のアスリートや、オリンピック関係者への意インタビューだった。
 それは、貴重なものだったし、個人的には、50人に共通することとして、主に2つの要素があったと感じていた。

 一つは、その発言の当事者自身が、コロナ感染により重症化したり、死亡するのではないか、という恐れが感じられなかったこと。

 もう一つは、そのプレーによって、応援してくれる人も含めて、一つになれるようなスポーツの力を信じていることだった。

 それは、素直に肯けることでもあった。
 肉体的に特別に強い人達であれば、感染に対しての恐怖感が薄くて当然だったし、スポーツの力や、人の応援を信じられなければ、自分を追い込むような日常を過ごすことは難しいと思う。

様々な思い

 そして、同時に、その50人は、人によって、様々な思いの濃度が違ったり、熱の入れ方に差があったり、表現の違いが見受けられた。

 例えば、とても正直で、納得できる言葉もある。
 それは、今回、アスリートとして出場するのであれば、誰もがそう思っているかもしれない、という言葉だった。

 そして、自分が感染しても重症化しないような人であり、周囲にも、健康で丈夫で若い人ばかりであれば、新型コロナウイルスも、それほど恐れることではないかもしれないと、改めて思った。そして、競技のことに集中し続ける毎日で、初めてトップアスリートであることができるのかもしれない、と改めて感じさせられた。(引用は「ナンバー」1025より)

 石井彗 (柔道男子 北京五輪金メダル 総合格闘家)
 開催されたら、昨今のコロナ禍の影響で参加しない国も出てくるでしょう。ヨーロッパからも不参加を表明する国は出てきそう。そうなれば、日本は金メダルのラッシュですよ。競技者だったら、対戦相手が誰であっても金メダルを獲ったらバンバンザイ。そのために生きているわけですからね。 
 ヨーロッパと日本ではコロナに対する認識が大きく異なります。前者では「抗体を持つために、一回かかっておこう」という意見を持つ人も多い。昨年10月、クロアチアで僕はコロナに感染しました。ちょっと味覚を失ったし、風邪のような症状が出た。当時僕が住んでいるマンションでは結構感染者が出ていたので、それが原因だと思う。「いまかかっておいた方が安心」と言う思いの方が強かったですね。


 ただ、もちろん、アスリートにも葛藤はある。そして、そのアスリートの環境や、個性によって、その表現が変わってくるのだろうけれど、その迷いも含めて言葉にしてくれているアスリートも少なくない。

水谷隼 (卓球)  
ある意味、オリンピックの金メダルって人生の最終目標だと思うんです。それ以上の夢なんて見つからないだろうし、人生を賭けるだけの重みがある。

 それは、前提として、でも、同じ選手から、こんな言葉も出ている。

 選手としては是非とも開催してもらいたいけど、一国民の立場からすれば「開催はムリじゃないか」という気持ちは理解できる。


 現役アスリートではなく、指導者の立場になると、選手達のことまで目を配っているから、競技のことだけでなく、その周囲の社会情勢なども含めて、考えないといけなくなる、ということかもしれない。これまでに経験のないような状況の中で、スポーツそのものへの考え自体も再考しているようだった。

 高倉麻子 (サッカー日本女子代表監督)
 自分の時間をすべてと言っていいほどサッカーに費やしてきました。いわば私の人生そのもの。しかし人々が平和で健康じゃない限りは必要ないものなんじゃないかって強く思わされました。自分は意味のない存在なのではないかと考えると、呆然としてしまいます。ただ、この気持ちはきっと選手たちも持っていて、同じように苦しんでいるだろうと想像できました。 
 今の社会に「五輪を開催すべきじゃない」という声があることは認識していますし、医療従事者の方をはじめご苦労されている方が多いことも重々承知しています。選手たちももちろん分かっています。ただ、選手の気持ちを無視するような強い言葉を聞いてしまうと、とても悲しくなります。コロナ禍で選手たちも心を痛めてきましたし、悩んでもきました。どの競技もそうだと思います。 

 当然だけど、オリンピック開催が1年延長され、今もあいまいな状況が続いている中で、これまでにない苦しさを、アスリートも関係者も、経験しているのだと思う。

分断の可能性

 この1年以上の、感染対策も、ワクチン接種も、どう見てもうまくいかなかったから、現在の感染拡大の状況が続いていると思う。

 だから、1年延長したとしても、オリンピックの開催が感染拡大につながる可能性が高く、そして、オリンピック開催のために医療者も含めて医療資源が優先して使われ、もし、一般の国民の犠牲者が増えた場合には、筋違いは分かっていたとしても、国民とアスリートとの心理的な対立を招く可能性まである。

 さらには、五輪組織委員会の情報発信も十分でないことが、そこに拍車をかけているかもしれない。元々は、一般市民も、アスリートも、コロナ禍によって、今までにない苦しさの中にいるのは同じなのに、分断が起こってしまう可能性もある。

 オリンピック開催期間中に、奇跡的に感染者数が減ったとしても(本当に正確な数が発表されるのか、という不安もあるが)、その後、例えば、今年の冬になってから、不運にも昨年を上回る感染拡大が起こったとしたら、筋違いとしても、オリンピックそのものへの憎しみみたいなものが根付く可能性まである。それで傷つくのは、市民だけではなく、アスリートも同様だと思う。

 今の状況で、オリンピック開催に踏み切ることは、コロナによる犠牲者が増えること。スポーツと国民との分断が起こること。その二つの取り返しのつかない出来事が起きる可能性もある。

 だから、オリンピックは、中止するべきだと思う。


 ワクチン接種に関して、アスリートに優先的に行われる、というニュースが流れた。

 同じ時期に、一般国民へのワクチン接種に関しては、各地で、混乱が起こっているというニュースもあった。

 私は東京大田区に住んでいるが、当初の予定より遅れて、高齢者へのワクチンの接種が、5月下旬に始まるらしい。60歳以下に関しては、検討中という文字があった。

 ワクチン接種の予約のために、一日電話をするしかなく、疲れ、アスリートへの優先的な接種、という事実を思い出した時、自分自身の気持ちの中に、アスリートへの反感が絶対に起こらない、という自信はない。

オリンピックを中止にした場合のアスリートへの対応

 ただ、中止した場合に、アスリートをただ放置するように扱うというのも、その後に禍根も残すし、人を大事に扱う、という原則から外れてしまうのだから、避けたいことになる。

 戦前にオリンピック中止はあったが、もう少し近い歴史で言えば、突然、オリンピック出場がなくなったことが過去に1度ある。それは1980年のモスクワオリンピック参加を、政治的な理由で日本代表がボイコットした時だった。

 その時のことは、時間だけでは解決されていないことを、今回の「ナンバー」(1025号)のおかげで、改めて分かった。この事実は、今回、中止にした場合には、前もって考えていくべきことだと思う。

太田章  (レスリング男子、ロス、ソウル銀メダル)
モスクワの代表は一瞬で五輪を失った。出たくても、もう終わってしまっていた。それに比べれば延期はまだ救いがあると、今の選手たちを慰めるわけです。
 当時の大平首相は選手団に何も言ってくれなかった。私たちがもらったのは銀のバッヂと選手団名簿と代表の認定証だけです。アメリカのカーター大統領は全選手をホワイトハウスに招いて、各競技団体と会談し、握手と記念撮影をして、リーバイスがつくったユニホームを全員に渡した。ソ連を許してはいけない。これはアメリカの自由のための戦いなんだ、だからボイコットするんだという自国のプライドを選手は大統領からもらったわけです。そういうものが私たちにもあれば、もう少し傷は浅かったのかなと感じます。もう虚しくて……

 アメリカのやり方をそのまま踏襲する必要もないとは思うが、今回、中止にした場合は、何かしらの「儀式」は必要になると思う。

 この1年の、目標の定まらない、あいまいな日々の中で、代表に選ばれるようなパフォーマンスを可能にしたアスリートは、それ自体が賞賛に値することだと思うからだ。

 例えば、「ナンバー」(1025)の冒頭の記事で取り上げられていた池江璃花子選手も、病から復活し、ここまでの成果を出したこと自体に、正当な評価と称賛が得られるようにできないのだろうか。

 そういうことを含めて、公開の場で、首相が讃えるべきだろう。今の状況だと「密」を作れないとしても、代表になったアスリート全員に対して、そうした場所を提供した方がいいし、もし、可能であれば、同時ではなくてもいいので、改めて、モスクワ五輪の代表にも、同様な賞賛をする機会を作ることを検討した方がいい。

 そうなれば、今回のことが、より良い未来につながる。

批判すべきこと

 アスリートがオリンピックに命を賭けているのは事実だとしても、このまま強行し、コロナ感染が拡大したら、国威発揚ではなく、その逆になってしまう可能性が高い。

 スポーツと国民が分断したり、アスリートへ憎しみが向かう状況が既に始まっているとすれば、それは、ここまでのオリンピックに関するマネージメントが失敗している、と考えられるから、まずは、そこを問題視するのが先だと思う。

 さらには、政策面を見れば、コロナ対策にもミスがないとは言えないし、ワクチン接種も遅れている。これらが、もっと順調であれば、分断が起きる可能性は、もっと少なかったはずだ。

 批判すべきこと、批判すべき相手を、間違えてはいけないと思う。

オリンピック中止後に考えること

 「ナンバー」(1025号)の中では、中止した場合であっても、その後のことまでの提案までしているのが有森裕子氏だった。(有森氏のページに、「オリンピック開催を斬る!」というタイトルがあるのは、この発言の価値を下げていると思ったけれど)。

 もし開催されなかったとしても、スポーツは閉ざされた村ではなくしっかり社会の感覚にコミットしている姿勢があること、未来を前向きに考えた結果としての決断であることが伝われば、スポーツは見直されると思います。スポーツへの見方が変わって、価値も高まり、その先につながっていくはずです。開催されなければゼロになってしまうかのような発信は避けながら、先をも見据えて進んでほしいと思っています。 


 こうした発想を参考にさせてもらえば、4年に1度のオリンピックだけが、「特別な場所」として、価値が偏重していることの見直しにも、いい機会かもしれない。

 アスリートのピークは、一般的には長くなく、オリンピックで活躍できることが、生まれた年に左右される部分もあるのだから、それを考え直す必要も出てくるだろうし、オリンピックの継続そのものに対しても、改めて検討する時期に来ているということかもしれない。

 それには、まずは、アスリートが積極的に発言し、オープンに議論していくことを始める必要性につながるのだろう。

 先の有森氏の発言には、こうした部分もあった。

 海外の選手は意見をはっきりと表明しますから、対照的ですね。発言したらどう受け取られるか、『頑張ります』と言ったら自分のことしか考えてないだろ、と批判されるんじゃないかと心配なのか……。でもそこで、周囲を見て感じていることを無骨ながら伝える努力をするのが大切です。なぜなら、日本では『スポーツの人は何も考えていない』というように、スポーツの価値がまだどこかしら低く捉えられているからです。それを覆してスポーツやアスリートの価値や社会的意義を高めるためには、現場にいる人たちが発信することの意味は大きいと思います。

 こうした有森氏の言葉を具現化している1人が、大坂なおみだと思う。


「ナンバー」編集後記への軽い失望

「ナンバー」が発刊された頃は、毎回買うのが楽しみだった。
 スポーツ関連の雑誌では、突出して格好いいと思っていた。
「ここで書きたい」という気持ちもあって、スポーツマスコミの世界で働くようにもなった。
 そして、随分と昔、少しだけ、書かせてもらったこともあった。
 個人的には、とても輝かしい雑誌だった。


 それから、随分と年月がたって、久しぶりに購入した。この1025号の「特集」を読んで、今回の、前編と後編にわたる、この記事も書けたので、とても感謝をしています。「ナンバー」編集部には、改めてありがたいと思っています。ありがとうございました。

 ただ、生意気かもしれませんが、その「編集後記」の冒頭部分を読んで、がっかりしました。

 編集後記
 こんなに逆風にさらされる五輪がかつてあったでしょうか。白髪の紳士に「TOKYO!」と告げられ、首相や知事らが有頂天になったあの日から、思い出そうとするだけでうんざりするほど様々な凶事に見舞われてきました。

 「逆風」という表現は、東京オリンピックに関することが、すべて正しい場合だけに使われる言葉だと思う。

 さらには、様々な凶事、とは、どのことを指すのかはっきりとは分からない。もちろん、コロナ禍は凶事だとしても、他には、どの出来事が「凶事」だと考えているのだろうか。

 招致に関する金銭的な疑惑は、凶事だろうか。
 シンボルマークに関するトラブルは「逆風」だろうか。
 元組織委員長の「男女差別」としか思えない発言は、「凶事」なのだろうか。ありえないと思うが、その発言に対しての非難を「逆風」と考えるのであれば、それは、あまりにも的外れだと思う。
 そして、コロナ禍で、開催するかどうかに対しての不十分な情報発信への非難は「凶事」だろうか。
 感染拡大の中で、ベルリンオリンピックから始まったに過ぎないと言われている聖火リレーを強行することへの批判を「逆風」と思っていることは、あり得るのだろうか。

スポーツジャーナリズムについて

 わたしのような情報に強いと言えない人間にとっても、今回は、IOCという組織も含めて、「オリンピック」そのものが、自壊しているか、おかしくなっていることが、明らかになってきたように見えている。

「ナンバー」が、本当にスポーツジャーナリズムであり、スポーツ自体を、アスリートを、尊重する思いがあるのであれば、東京オリンピックそのものの様々な問題点自体を問えれば素晴らしかったのに、とは思う。(もし、既にそうした特集があったのでしたら、すみません)。


 無意味な仮定かもしれないが、介護を始めて自分も病気になったりなど、様々な事情が重ならず、自分自身が、今もライターをしていて、かなり確率は低そうだけど、「ナンバー」に執筆していたとしたら、いま「編集後記」に対しての異議を書くようなことはしなかったかもしれない。

 アスリートの言葉を伝えることに全力を尽くし、本気で何があっても、オリンピックを開くべきだ、と思っている「スポーツ業界」の人だった可能性もある。

 
 だけど、「ナンバー」は、創刊時は、これまでにないものを目指していたはずで、写真だけでなく、文章量も多く、その伝えようとしていることが新鮮だったから、それがかっこよかった。


 今、このコロナ禍の状況で、聖火ランナーを走らせているおかしさもきちんと伝え、正しく批判し、このまま無理に開催をするとアスリートが、オリンピックそのものが、国民と対立し、場合によっては恨まれる可能性まであることを考察し、さらには、中止になった場合にアスリートの尊厳をどうすれば守れるかを、モスクワ五輪のボイコットにも遡って考えるような、そんな特集を組むような雑誌だったら、今でも心から尊敬できる、とてもかっこいい雑誌のままだったのに、と残念だった。

(ここ↓で指摘されているようなことも、スポーツジャーナリズムがするべきことだったと思う)。


違約金への対応

 東京オリンピック・パラリンピック中止の話題になった時、「もし、中止したら、IOCやスポンサーなどへの違約金が大変だから、とにかく開催した方がいい」といった言葉は、特定の誰か、といったようなことを言わなくても、かなり広く聞かれるようになっている。

 ただ、このパンデミックの状況で、人類の命のために中止したとして、違約金を要求するスポンサーが存在したとして、逆に、違約金を請求する団体への批判の方がされないだろうか。そして、IOCにも、莫大な違約金が発生する、といった噂を、私でさえ目にしてことがあるが、それこそ、交渉でなんとかなるのではないだろうか。

 IOCが強引だったら、国際世論に訴えることも可能だし、それこそが政治の役割だろうし、何を優先するかを考えたら、違約金がもったいない、とか、これまで予算を使ったから、といった発想は、とても愚かなことではないだろうか。

都市博中止の記憶

 こうした国際的なイベントの中止について語られるたびに、思い出すのが、「都市博」のことだ。

 正式名称は「世界都市博」で、1996年から開幕の予定だった。様々な国の参加も決定していたが、その前年に、都市博中止を公約として掲げて都知事に当選した青島幸男知事が、1995年の5月のギリギリに中止を決定した。

 その頃、違約金として、とんでもない金額が要求される、というような脅しのような言説を、あちこちで目にしたのは覚えているのだけど、実際には、都知事という、選挙で選ばれた人間の決定は尊重されたと言われていた。

 1996年4月22日、東京都から最終財政影響額が発表された。これによれば、青島都知事に事務局側が「中止した場合、東京都に982億円(誤差は50億円)程度の損失が出る」と伝えていたのに対し、実際の損失額は610億円にとどまった。開催されていた場合に予定されていた支出である約830億円よりも220億円も下回ったこととなる。

 今回のオリンピック中止は、この「都市博中止」よりも、中止の理由に関しては、はるかに国際世論の同意を得やすいはずだから、さらに違約金などがかからない可能性もある。

 この「都市博中止」の時の記憶があるから、いま声高に言われている「高額の違約金」といった表現は、申し訳ないのだけど、どこか脅しのようにも聞こえてきて、実際に中止になった時とは、大きく違ってくるのではないか、と思っている。

「とにかく開催する」と主張する人たち

 この人↑の発言が怖いと思うのは、これが失言ではなく、本当に思っている、という意味での「本音」ではないか、ということと、実は現在の権力の中枢にいる人たちの発想を、代表しているのではないか、と感じてしまうからだった。

 以前も書いた、「コロナをただの風邪と主張する人たち」と近い発想の人たちが、もしも政策を動かせる場所に多くいたとすれば、とにかくオリンピックを開催する、という発想との整合性はある。

 持病もなく、健康で若ければ、実質的な印象としては、コロナはただの風邪、に近くなるかもしれない。
 さらに、家族や身内に高齢者がいなければ、コロナ感染への恐怖心は、かなり薄くなる可能性がある。それは自然なことだとも思う。


 さらには、高齢者であっても、感染した場合に、自宅待機などではなく、スムーズに適切な治療を受けられるような「立場」の人であれば、コロナ感染は、それほど怖いものでないのかもしれない。

 もしも、そんな人たちが、オリンピック開催を、とにかく推進しようとしているのだとすれば、その人たちのいう「安心安全」は、そんなに信用もできないし、アメリカなどの、世界の中でも、不幸にも多数である犠牲者数を基準にして、そこまで行かなければ大丈夫などと考えているとすれば、(さざ波、という表現は、そういうことだと思う)やはり怖い。

「悪夢」の継続の可能性

 2021年、5月上旬現在、オリンピック開催「中止」が、半数以上というアンケート結果もある。

 ただ、気になるのは、開催賛成が39%あることだ。

 その考えを否定することもできないが、自分にとっての、さらなる「悪夢」の継続の想定をすれば、オリンピック開催によって感染拡大し、その後も、死亡者数が増えたとしても、自分自身や周囲の人が感染しなかったり、重症化することがないとすれば、それを「さざ波」などと思ってしまうような人たちが、オリンピック開催を支持している場合である。

 そうであれば、「とにかく開催してしまえば、熱狂して支持率も上がる」ということが本当になってしまい、引き続き、現在の政権のような姿勢が支持され、今のような、命を大事にしない時代が、長く、続いていくことは、やはり恐い。


 だから、繰り返しになりますが、結論は、こういうことです。
 私のような何の力もない人間には、決定権のある人に、お願いすることしかできません。


 東京オリンピック・パラリンピックの中止を1日も早く決めてください。そして、コロナ対策に全力を注入してください。一人でも死亡する人が少なくするために、努力してください。お願いします。
 コロナ対策もワクチン接種も遅れている、この状況で、オリンピック開催を強行することは、コロナによる犠牲者を増やす可能性も高く、さらには、国民とアスリートとの分断さえ招き、それが、今後も続くことさえありえます。                        

 東京オリンピック・パラリンピックは中止し、そして、代表選考に勝ち残ったアスリートに対しては、そのこと自体に価値があるので、公開の場で賞賛することで、少しでも報いることをすべきだと思っています。



他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでいただければ、うれしいです)。


#オリンピック   #オリンピック中止   #ナンバー   #スポーツ

#東京オリンピック中止   #コロナ禍   #感染拡大   #重症化

#アスリート   #オリンピアン   #選ばれた人たち   #毎日投稿  

#違約金 #最近の学び #都市博中止




この記事が参加している募集

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。