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「干支での龍の存在について」。

 歴史の中で、思った以上に、しぶとく残っているのが「血液型性格判断」と、「十二支」だと、個人的には思っている。

 「血液型性格判断」については、能見正比古、俊賢の親子が提唱していて、それが「科学」ではないと言われているのだけど、そういう冷静な検討とは別に、人の気持ちに訴える何かがあるから、今も生き残っているように思う。(個人的には、血液型性格判断は、信じていませんが)。

(こうした指摘↓は、数限りなくされてきたと思う)。

 

 さらに「十二支」という古くからの基準についても、昭和が終わる頃には使われなくなり、知られなくなるかもしれないと思っていたが、平成から令和になった今では、おそらくは年賀状がある限りは、ずっと続くのでは、と思うようになった。

辰年

 十二支の中では、辰年は、ちょっと特別感がある。
 特に男性の名前で、龍や辰が入っている人を見ると、辰年生まれなんだ、と反射的に思ってしまう。
 そして、実際にはおそらくは、思ったより多いのではないだろうか。

 (村上龍の名前は、すぐに浮かぶ。1952年、辰年生まれ。本名は龍之介だという)

 

 さらにというのは、東洋の伝統的な架空の生き物で、「登竜門」ということわざがあり、鯉が滝を登って龍になる、というような言葉にもなっているから、 それだけ、偉大な存在の象徴でもあり、権力にも関係があるようだった。

 だから、これまで、女性よりも男性の名前として一字を使われていることが多いのだと、なんとなく納得ができた。

十二支

 当時の中国で年を数える時に使われていたのが木星の動き。人々は木星の位置で年を数えていて、木星の公転周期が12年であるために天を12等分しました。この時に誕生したのが十二支の起源。実は子から亥の12個の漢字は、中国で数を表すものです。
 この十二支を浸透させようと、王充(おういつ)という人物が動物の名前に変更。つまり、動物の意味は後から付け足されたものです。

 どうやら十二支は、かなり昔からあり、さらには、その由来が完全に分かっているわけでもなくて、そして、その中で、龍だけが架空の存在であることが、どこかで気になっているのだけど、中国の古来からある、ということだけで、勝手に仮説を作っていた。

秦の始皇帝

 兵馬俑の存在を知った時(映像などで、チラッと見ただけだが)、秦の始皇帝の存在は、桁違いに巨大な権力者だと改めて感じ、この皇帝の生まれた年に、唯一の架空で、どこか偉大な存在である龍を当てはめたのではないか、と思ってしまい、その思いつきが、すでに正解のような気がしていた。

 家族など、近い人には、その仮説を語ってしまい、どこか得意げになっていた。

検証

 今は、サイトだけで、ある程度のことは分かる。

 まず、秦の始皇帝を調べてみる。

 始皇帝の生まれ年は、わかっているようだった。

 実は、ここで、すでに自分の誤算があった。紀元前の人だから、巨大な権力者になった後の死亡した年は別としても、生まれた歳はわかっていないのではないか。だから、そこに辰年を当てはめたのではないか、といったことを勝手に考えていたことに気がつく。

 そして、今は、始皇帝の生まれ年である紀元前259年の干支も、分かる。

 どうやら、寅年らしい。

 ここで、自分の仮説である「始皇帝の生まれ年が辰年」というのは、間違いなのも判明する。その時、ちょっと得意げだったことも含めて、なんだか恥ずかしくなる。

現実的

 ただ、架空の生き物ではなく、十二支の中で、現実の動物の中で最強と思われる寅年である方が、現実の政治の中に生きる人間としては、リアリティがあるとは思った。

 だから、「始皇帝が辰年」の仮説は、何の根拠もなく、自分が立てたものだけど、なんだか愚かに思えてきて、そして、考えをつめていくことについての、自分の甘さのようなものを改めて思い知らされたから、さらに、恥ずかしさがあるのかもしれなかった。

 ということで、十二支の中で、どうして辰年だけが、架空の生き物なのか、という納得のいく理由は、自分の中では、また分からなくなってしまった。




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