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『「上」へ行きたい人の気持ち』を考える。

 組織にいた時間が短いせいか、「やたらと出世したい人」の気持ちが、よく分からない。

 それは、本当に切実な場合もあるから、なんとも言えない場合もあるだろうけど、生活や収入以上に、やたらと、「上へ行きたい」人がいて、その気持ちは、もっと分からないと思っていた。

 それが、少し前、ドラマを見ていて、フィクションなのだけど、その気持ちが見えたような気がしたことがあった。

「ひきこもり先生」の「校長」

 ひきこもりだった中年男性(佐藤二朗)が、非常勤の教師となり、学校に来にくくなっている生徒のためのクラスの担当となるドラマだったが、その中学の校長を演じていたのが高橋克典で、どんな手を使ってでも「上」を目指す役を演じていた。校長から、教育長になるために、とにかく「いじめゼロ」を、嘘をつかせてでも達成しようとしていた姿は嫌悪感を催すものだった。

 このドラマ自体、いろいろなことを考えさせてくれるいい作品だと思ったのだけど、それについては、すでに多くの批評などもされているだろうから、それよりも、この「校長」の「上に行きたい姿勢」について、改めて思うことがあったので、その点をお伝えしたいと思います。

「上」に行きたい

 その「校長」の野望は、結局は頓挫することになり、それは視聴者にとってはホッとすることでもあったのだけど、その過程で、この「校長」(高橋克典)の野望の理由が比較的、正直に語られる場面があった。

 とにかく「上」に行きたかったんだよ。

 それは、生活とか収入とか、もしかしたら名誉とも別な、不思議な欲望の告白のようにも思えた。それに対して、主人公である「引きこもり先生」は、「正直に話してもらって、ありがとうございました」と伝えるのだけど、その「とにかく上へ行きたい」は、言葉にすると、馬鹿馬鹿しくも響く願望だったが、実際の生活では、まず耳にできない「本音」だったのかもしれない。

 ただ、その「上に行きたい」という野望を持つきっかけになったかもしれない出来事が、昔からの「校長」を知る、教育委員会 統括指導室長(室井滋)から語られる。
 
 まだ教師になりたての頃。その「校長」の担任するクラスが、いわゆる学級崩壊のようになった。そこから、「校長」は逃げてしまう。その姿を見た「教育委員会 統括指導室長」は、教師を辞めると思っていた、と語る。

傷ついた経験

 そこまでがドラマの中で語られていたことだけど、そのエピソードによって、外側から見たら、異常にも思えるほどの「上に行きたい」人の、その理由が少し推測できた気がした。

 ここからは、完全に想像です。

 その若き日の「校長」は、学級崩壊に直面して、逃げてしまった。

 それは、自分ではどうしようもないことで、そして、その事実に向き合いたくない気持ちも強かったのかもしれない。その後、校長にまでなっているのだから、それまでの成績も優秀だった可能性もある。

 だけど、人間VS人間の現場でもある「教室」で、大きな挫折を味わった。
 それは、もしかしたら、追い詰められて、とても傷つき、死にたいと思うほどの経験だったかもしれない。一度は、気持ちが潰れてしまったと思われる。自尊心もぺちゃんこになってしまっていたはずだ。

 外から見ても、教師をやめるのでは、というような憔悴があったのだろう。

 だけど、その若き日の「校長」は戻ってきた。
 ただ、その動機は、おそらくは教師として、教室に戻って、生徒と良好なコミュニケーションをとって、もう一度、その場所を立て直す、というような気持ちではなかったのかもしれない。

 生徒と良好なコミュニケーションを築き直す、というのは、自分の傷ついた体験に向き合い、それに対しての直接的な対応だと思う。それは、本当に大変だろうけれども、自分の気持ちも大事にする方法だし、もし、それができたら教師として、健全な自尊心を取り戻し、「上」ではなく「素晴らしい」教師になれた可能性もあった。

 だけど、おそらく、それよりも「校長」にとって強かったのは、この「弱い自分」を否定したい思い。
 傷ついた経験をまとめて覆い隠せるような、大きな存在になること。
 そして、学級崩壊に対しては、支配とコントロールで解決したのか、どちらにしても、正面から向き合ったわけではないのだと思う。

「上に行きたい」理由

 そして、その潰れた自尊心を取り戻すために、もっと「上」に行くことを決めた

 「上」に行けば行くほど、「弱い自分」や「挫折した自分」をなかったことにできるかもしれない

      自分自身でも、実は、よく分からない意識に突き動かされているから、「上」に行って、何をしたいのか。そんなことはあいまいになり、「上」に行くこと自体がいつの間にか目的になっていく。

 だから、「上」に行くことの障害になるような出来事や人に対しては、暴力的でも何でも、排除するようにしてきた。もちろん表面だけは、にこやかそうに見える表情を無理に作ってでも、対処していく。

 高橋克典の演じた「校長」行動は、そんなふうに考えると、納得がいく。

 だけど、学級崩壊の時の心の傷や、ぺちゃんこになった自尊心そのものに向き合い、大事にしているわけではないから、いつまでたっても、辛さは抱えたままだ。その辛さのために、より強く「上」を目指してしまうことにつながる。

 だから、主人公の「ひきこもり先生」(佐藤二朗)に、最初に会った時から、大変そうに見えた、と言われてしまうのかもしれない。

 これは、もちろんフィクションで、それに対してさらに勝手な想像をしただけなのだけど、周囲にどれだけひどいこと(パワハラなど)をしても、やたらと「上」に行きたがる人は、何かしらで大きく傷ついた経験があるのかもしれない、と思うようになった。

 そう思うと、その振る舞いが、とても少しだけど理解でき、その人に対しての嫌悪感が、ほんの少しでも減るかもしれない。

 ただ、その人は自分自身の気持ちに対して、もう一度向き合って、大げさな言い方かもしれないけれど、「自分を救う」行為をしないと、どれだけ「上」に行っても満たされない可能性もあるから、自分を見つめ直して欲しい、とも思います。


 まだ、未熟な仮説に過ぎなくてすみませんが、ここからもっと考えを進めてくれる人がいらっしゃれば、とてもうれしいです。疑問点、ご意見などがございましたら、お伝えくださっても、ありがたいです。



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