「魂を3分の1切り取られた感覚」を実感したとき、「艱難辛苦汝を玉にす」が分かった気がした。
若い時の苦労は買ってでもしろ。
その言葉は好きではなかった。
若い時は、薄々、苦労をしてない人が、そんなことを言っているような気がしていたし、自分が若くなくなった時は、苦労の重さによっては、人を歪めるほどのことだから、出来たらしない方がいいと思うようになった。
魂が3分の1くらい切り取られた感覚
そんなことを考えるようになった頃、家族の介護をするようになった。いろいろな要因が重なって、心臓の発作を起こして「過労死一歩手前」と言われたこともあり、仕事もやめて、介護に専念するようになった。
何年か、水の中で息を潜めるように生きていたようだった。
自分自身が弱いだけかもしれないが、その頃は、介護が終わったら死ねばいいや、などと思っていた。
それが、何年か過ぎて、死ぬことをあまり考えなくなった頃、ふと思ったことがあった。
本当にただの感覚なのだけど、ここ何年かのことで「自分の魂が3分の1切り取られていた」実感があった。そして、その傷口が少し膨らむように新しくなっていて、その部分は、とても新しい。
そんなイメージが浮かんだ。
「艱難辛苦汝を玉にす」のイメージ
「かんなんしんくなんじをたまにす」。
ひらがなで書くと呪文のような、この言葉というか、ことわざのような文章を、いつの間にか覚えていた。
簡単に言えば、「困難が人を成長させる」みたいな意味だと思っている。
「玉」が立派さみたいなものを象徴しているらしいのだけど、この「玉」のイメージに引っ張られて、その「艱難辛苦」のことも、どちらかといえば、紙やすりのように感じていた。
それも、かなり目の粗い、こすったらとても痛いそうなもので、ゴリゴリと削られるようにして、それで、例えば魂のようなものが丸くピカピカに磨き上げられて、それで立派な魂になる。
そんな風に勝手に思っていた。
魂が切り取られるほどの困難
自分が立派になったということではなく、個人的には、とても困難な時期を、何とか少し乗り切ったと感じていた頃、自分は魂を3分の1くらい切り取られていた、と思った。
それは、考えたら、致命傷にもなりかねないダメージで、場合によっては生き残れない感じもあったのだけど、それを幸運にも乗り切れたから、それまでの自分が大したことがないので、お恥ずかしいのだけど、以前よりは、明らかに成長したような気がした。
その時、その人を立派にするような「艱難辛苦」は、魂を磨くのではなくて、魂を切り取るような、場合によっては真っ二つに切り裂くような、言ってみれば「刀」のようなもので、だから、多くの場合は乗り切ることができないのではないか、と思った。
私は3分の1程度(あくまで自分の感覚ですが)切り取られ、それは本人にとっては、とんでもないダメージではあったのだけど、3分の1以上、切り取られたとしたら、乗り切れたかどうかは分からない。
それでも結果として、成長したような気がするから、真っ二つになるようなダメージを乗り切った人がいたとすれば、それは立派になるのも当然だろう、というようなことを実感した。
魂の成長
これは「若いうちの苦労は買ってでもしろ」というのと、関連するような言動だったのかもしれない。
だけど、そうした言葉を説教として発する人たちは、その苦労が命を奪う可能性すらある、という前提を理解していたのだろうか、というような疑念はまだある。
魂の、かなりの部分を切り取られるような負荷があり、それを乗り越え、同時に、その魂の傷がいえた部分が、新しくなり、場合によっては、以前よりも、魂を大きくする人もいるかもしれない。
だから、本当に厳しい道を通らないと、魂の成長は難しいのではないか、と思う。
ただ、それは、通らざるを得ない、といったような状況なのだろうし、それでも無理をする必要はないと改めて思うのは、場合によっては、命を落としかねないからだ。
孫悟空とミルトン・エリクソン
そんなことを考えると、思い出したのが、フィクションでは「ドラゴンボール」の孫悟空だった。
全部を知らないので、最後の方の、一度本当に死んでいるあたりのストーリーは分からないのだけど、孫悟空が成長していく過程では、本当に死ぬ一歩手前まで戦った後に、それまでより強くなっていく。
そのことに、何だか前よりも納得できるようになった。
ノンフィクションの存在では、天才的なセラピストと言われるミルトン・エリクソンのことを思い出した。
こうした言い方は、失礼で傲慢な見方でもあるのだけど、エリクソンは、自身の抱えた大変さがあってこそ、それを優れたセラピストの力に変えられる人だったと思う。
さらに、安直な表現で申し訳ないのだけど、優しさがあってこそ、自分の苦労を、人をサポートする力に変えられたのだとも感じている。
ただ、そういう言い方をするのは、エリクソン自身が、その大変さを自ら望んでいたわけではないのだろうから、失礼だとは思うけれど、それでも、セラピストや心理療法に、少しでも関心がある方なら、知っておくべき存在にも思える。
すごい人は、やはり、凄い経験をしているのかもしれない。
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