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今まで書いた小説の中で私が一番好きなもの『彼と俺の結婚式には天井から花をたくさん吊るすの』

1
ずっとストレスが溜まってる。隣のベッドのヤツが気に食わない。ソイツはイケメンの大学生で、ソイツはしばらくずっとハイだから、すぐ俺に手を出してくる。キスされるぐらいは構わないし、胸開けられて乳首舐められるくらいも構わないし、でもさっきはパンツに手を入れられて、俺はそれは嫌だったからひとりで病室を抜け出して、食堂の隅っこの看護師に見付かりにくいとこに座ってた。巡回はさっき終わったばっかだから、1時間くらいはここに座ってられる。あの大学生、イケメンなのはいいけど、時々巨乳の気持ち悪い女子高生の彼女が見舞いに来るのがほんとに気持ち悪い。あの巨乳に触った手で俺のペニスに触られたら、と思うと、マジ吐きそうになる。目の神経が疲れてて、しょうがないんで食堂の電気を消した。俺は双極性障害で、すぐ人のハイやウツを貰っちゃうんだよな。大学生のハイが俺に乗り移って来た。目をつぶっても俺には色が見える。色が飛んで行く。たくさんの色んな色が。それとたくさんの透明な色が、頭の中を通り越して、頭蓋骨を通り抜けて、食堂を通り抜けて、外に向かって発光している。その色達を走って行って、速く捕まえて、全部ちゃんと順番に並べて、なんとかして記録する。病院に救急車が入って来る。精神科の病棟はかなり裏側にあるから、あんまり聞こえないけど、夜中だとちゃんと聞こえる。もう1台、また1台入って来る。余程大きな事故かなんかなのかな?こういう時俺はいつも、事故に会った人が大丈夫でありますように、ってどんな神様も信じてない癖に、大丈夫なようにお祈りする。精神科の看護師が数人病棟を飛び出して行く。応援に行くのかな?みんなが無事で、助かりますように。俺はまたお祈りをする。俺にはなにもできないけど。看護師が走り出た後に続いて俺は素早く病棟を抜け出す。病院のパーキングの建物。俺はずっとここの屋上に上がりたかった。ここなら、俺の頭から飛び出して行った綺麗な色達を確実に捕まえることができる。なんて綺麗な色達!全ての色が明解に世の中の謎を解き明かして行く。今まで俺が疑問に感じていた事柄が全部ここで明らかにされる。なんだ、こんな簡単なことだったんだ!どうして今までこんなことが分からなかったの?屋上のフェンスを乗り越えてそこに座る。いつ脱いだのか全然覚えてないけど、俺は全く衣服を着けていない。世界があんまり素晴らし過ぎて、俺には服は必要ない。解き明かされた謎達が色ごとの背に乗って宇宙へ飛んで行くのが見える。なんて綺麗なの!俺は立ち上がるそしてビルの屋上を一周する。ここは都会だから星はほとんど見えない。空がこんなに晴れているのに。風が吹いて来て裸だから少し寒いような気がするけど、そんなことはどうでもいいほど、世界が素晴らしい。俺は自分のペニスに触る。さっきあんなヤツに触られなくてよかった。極彩色の矢が宇宙に向かって行き、それが宇宙で輪になってゴーゴーと音を立てて回る。その素晴らしい音を聞いているうちに、朝になってしまった。さっき自分の手で一回イった俺のペニスがまた少し触られたがっている。ここから飛び上がる。俺は夢想する。そしたらきっとあの音を立てて鳴っている宇宙の渦と一体になれる。そうすればもうなにも悩むこともないし、全てのことが理解可能になる。そんな素晴らしいことはない。その瞬間、後ろから力強い腕が俺の身体を掴む。
「なにすんだよ!邪魔すんなよ!」
俺は力の限り暴れて、ソイツを蹴ったり噛んだり、思い付くことは全部してやったけど、ソイツが俺の名前を叫んで、
「優夜!こんなとこから落ちても死にゃあしないぞ!3階だから、せいぜい足折るくらいだから!落ちたかったら止めないからやってみろ!」
俺は俺の狂った頭で考えて、じゃあやってみようとして、でもよく考えたら俺は落ちようとしたんじゃない、宇宙と一体になろうとしたんだ。上に向かってジャンプする。そしたらまたソイツが俺のことを後から抱きしめる。
俺は、
「やってみろ、って言ったじゃない!」
「ほんとにやるバカがいるか!」
宮崎という名の大柄な看護師。警備員が2人後ろに立っている。宮崎は俺のことを何年も前から知ってるから、一目見て、
「お前、ハイだろ?なんで夕べ俺達にちゃんと言わなかった?」
大きなバスタオルで俺のことをグルグル巻きにして、病棟に連行する。宇宙はまだ音を立てて回り、俺のことを呼んでいる。だから他のことはどうでもいい。だから俺は黙っている。俺は宮崎に自分の部屋には絶対帰らないと、宣言する。ドクターのいる部屋に連れて行かれて、
「君、しばらく注射でゆっくり休むか?それとも俺と話しするか?」
って、聞かれたけど両方嫌だったから黙っていた。こんな早朝に病棟にいるようなドクターはどうせ新米だし、見たらほんとに若造だし、
「君、あそこへ上ったのもう3回目だっていうじゃない。抗うつ剤が効き過ぎてるんじゃない?」
急に疲れが出て、椅子に寄りかからないと座ってられない。ドクターが俺の顔を見て、
「君、ちゃんと食べてるの?」
俺は黙って下を向く。ドクターは宮崎に向かって、
「彼、ちゃんと食べてる?」
「そのはずですけど。」
宮崎は、
「優夜。お前、ちゃんと食ってんのか?」
「忘れた。」
「忘れた、って、食うのを忘れたのか?」
ドクターが、
「最後に食べたのはいつ?」
俺が、
「だから忘れた。」
こないだ抗うつ剤を増やされてから、全く食欲がなくなって、だから大分前からなにも食べてない。もともと他の人と同じ食堂でモノを食べるのすごく嫌だったし、食べないでいられるんなら、こんなにいいことはないし、だから5、6日なにも食べてない。でもこのドクターバカじゃないよな。だから俺は少しくらい敬意を表す。
「5、6日食べてないです。」
宮崎が溜息をつく。ドクターが、
「どうして食べないの?」
「お腹空かないし、食べたくないし、それにそんなことどうでもいいからです。」
「おかしいな。この抗うつ剤、普通なら食欲増すのに。」
宮崎は、
「優夜の場合、逆なことが多くて、ハイで自殺願望出るんです。」
ドクターが、
「そんなことどうでもいい、って言ったね。それ、どういうこと?」
「生きてようが死んでようが。」
俺、それ言って、今のはほんとじゃないな、って思う。
「でもほんとのこと言って、よく分かりません。」
ドクターが、
「今、死にたいと思ってるの?」
「はい。できれば。」
「でもあんな低いビルから落ちても普通は死なないでしょう?」
「あれは死のうとしたんじゃなくて。」
「どうしようとしたの?」
「俺の色と一緒に宇宙まで行って、音になって渦になって。」
「色が見えたり音が聞こえたりするの?」
「時々。」
「君、双極性障害なんだろ?夕べはほんとにハイだったんだろうか?君の自殺願望はどこから出てくるんだろう?ハイじゃないのに幻覚や幻聴があるのは統合失調症が合併してる可能性がある。抗うつ剤は減らさないで少し様子みよう。あと、食べるように。宮崎さんよく見てあげて。」
双極性障害と統合失調症が一緒になるとヤバいという話しを聞いたことがある。まあ、よくは知らないけど。病室に帰ったら、やたら寒気とクシャミが出る。隣の大学生が、
「夕べどこにいたの?」
って、話しかけて来る。
「ずっと表にいて。」
お前のせいでもあるよな、と思ったけどなにも言わなかった。彼は自分のと俺の周りのカーテンを閉めて、俺のベッドに入って来る。
「うわー。身体冷たいな。」
って、言いながら、俺の身体を温めてくれる。もう俺のパンツに手を入れてこようとはしない。
「暖かいシャワー浴びた方がいいかも。」
そう言われたけど、俺、もうすごく疲れてたんで、彼の腕の中ですっかり眠ってしまった。大学生はその日のうちに退院していまい、なんだか平和だけどつまんない。宮崎は俺がちゃんと食べているか見張っている。俺はまだ寒気がして、頭も痛い。宮崎は、
「あんなとこに一晩中裸でいたら、風邪ひくのは当たり前だ。」
俺はワザと宮崎に向かってクシャミをする。
「お前、まだ自殺願望があるのか?」
「はい。」
「どうしてお前はハイの時に自殺願望が出るんだ?普通逆だろ?」
「それは、多分、怖いモノがなくなるから。それに、あっちの世界に行きたくなるんですよ。一気にジャンプして。」
「飛び降りるのはやめろ。イケメンが台無しだ。」
「じゃあ、どうすれば?」
「知るか、そんなこと。早く風邪を治せ。一緒に食堂に行ってやるから。」
「俺、食べたくないですよ。」
「考えるな。ただ食え。」
病院の食事ってほんとにしょうもない。俺はヨーグルトを食べただけでお終いにしようとしたところ、宮崎が、アレを食えコレを食え、とうるさい。俺は溜息をつきながら少しずつ食べる。宮崎は、
「お前の家族、遠くにいるんだよな。」
「来週お姉さんが来てくれるって。」
「おお、あの美人の?」
「姉ちゃん今、彼氏いないですよ。」
「ほんとう?」
「来る日決まったら教えますから。」
姉ちゃんが俺のお絵かきセットを持って来てくれた。ナースに色鉛筆を取られた。先が硬くて尖ったモノがダメらしい。でもまだパステルやらフェルトペンやらもあるし。絵の具は食ったら死ぬかもしれないとか、アホみたいな討議の末、取られなかった。これがあれば、今度色を追いかけている時、それを記録できるからいいな、って思った。姉ちゃんは絵を描く紙も色んな種類を買って来てくれた。姉ちゃんは誰が見ても綺麗だと思う程の美人で、俺より3つ上で、原宿に行く度にモデルにスカウトされて逃げ回って、姉ちゃんは勉強が好きだから、今はよく知らないけど大学院で人工知能の研究をしている。姉ちゃんが逃げ回っているうちに俺の方がスカウトされて、大手のモデルエージェンシーに入った。昔の話しだけど。いつぐらいかな?中学に入ったくらい?俺、バカみたいに背が高いから、中学生なのに大人のショーにも出てた。昔の話し。俺まだちゃんと食べてないし、昔の美貌もどこへやら。宮崎が休みの日は絶対なんにも食べない。他のナースは俺にそんなに関心ないし、食べたの?って聞いてくれるくらい。だから食べなくても全然バレない。ドクターは俺に会う度に、自殺願望のことを聞く。聞かれて、あ、別に自殺願望ないです、とか言っても、次の瞬間に死にたくなることあるから意味ないんだよな。またあの3階しかないけどパーキングのビルに登りたいな。あそこにいると安心する。手を伸ばすと宇宙に届きそう。3階しかないけど。絵なんてしばらく描いてなかったから、なにを描けばいいのか分からない。俺、昔なに描いてたんだっけ。この同じパステルで。狂人の抽象画。そんな感じのヤツ。空を飛ぶ色。それから透明な色。それを追いかける。3階のビルから。大学生がいなくなってから、俺のゲイ的生活がなくなってしまった。それは寂しい。この病棟、結構人が入院してるんだよな。でも俺、ゲイオーラ全開にしてるけど、誰も引っ掛かって来ない。ここの精神科はダメなのかも知れない。今週新しく入って来た患者はみんな女性だった。内科とか外科とかその他諸々の病棟に行けないかな?俺のいる病室の窓からでっかいレインボーの旗かなんか立てようかな。頭変だ、って思われても、もう精神科に入院してるから、別に構わないと思うし。そういうバカなことを考えていたら、手が自然にレインボーの絵を描いている。欲求不満だな。男とセックスしたい。これが俺の切なる願望。ナースが俺に電話だ、って言ってる。俺なんかに電話くれるヤツいないはずだけどな。友達いないし。恐る恐る出てみると、昔のモデルエージェンシーの社長だった。すごく意外で、思わず、
「どうしたんですか?」
って、でっかい声を出してしまった。そこらにいるナースや患者や見舞客が振り返る。一番最後に仕事したのが3年前。それから数回お見舞いに来てくれた。優しい人。社長は、病気はどうだ、とか色々聞いてくれて、それで俺に会ってみたい、っていう人がいるけど、どうするか?って。社長は、
「できたら病院じゃないとこで会わせたいんだけど。」
「外出許可って、家族とか、職場の人が一緒じゃないと難しいです。」
「じゃあ、俺達職場の人だから。」
「そうなんですか?」
「優夜との契約、まだ切れてないし。」
「へー、知らなかった。」
「俺に会いたい、って誰ですか?」
「フォトグラファーで、うちに来て色々引っくり返して、昔の君のショーのビデオ観て。」
「あんな昔の?」
「3年前のヤツ。」
「でもちゃんと言ってくれたんですよね。病気で、前とは全然ルックス違うし。」
「優夜、今いくつ?」
「20才になりました。」
「病院ちょっと出て来れないか?」
「やってみますけど、俺、信用ないから。」
「なんで?」
「こないだビルの上から飛び降りようとして。」
「え、マジ?」
「3階建てですよ。みんな大袈裟なんですよ。」
それでドクターに聞いてみたけど、やっぱり全然ダメで、
「君の自殺願望がなくなるまでは、表には出せないよ。」
そんなこと言ったら俺、一生ここ出られないじゃん、と思ったけど、逆らうのはマズいかな、って思ってなにも言わなかった。それにこないだのは飛び降りたかったんじゃなくて、飛び上がりたかったの。なん回も言うけど。
で、俺、社長にそれ言って、俺ここから出られないから、その人来たかったらいつでも来てください、って面会時間を教えてあげた。
2
この病棟どうなってんのかよく分からないけど、小さな中庭があって、花が植えてあったりとかで、俺はそのレンガ敷きの地面に座り込んで絵を描いていた。そこに座って花に向かって絵を描いていると、誰が見ても俺が花の絵を描いてるだろうと思うだろうけど、ほんとは全然違って、アクリル絵の具で出せる色の可能性を追求してて、俺よく透明な色、って言うけどそれってアクリルでも出せるモンなの、とか真剣に考えてて、それから今度は、絵の具食ったらほんとに死ねるのかな、って考えだして、激しいピンクの色とか、蛍光色で、これってもしかしたら死ねるかも、って少し舐めてみたらやっぱり苦くてヤバい味がした。それからまた、3階から落ちて死ぬ方法を考え始めた。頭から真っ逆さまだったら、どう考えても死ねるよな。古今東西のユニークな自殺について研究してみよう。首の吊り方ひとつでも相当色んなやり方があるに違いない。拒食症、リストカット、服毒自殺。俺はね、自殺したいから考えてるんじゃなくて、こういうこと考えてると、安心するの。だから考える。湯船に氷をはって低体温自殺。ウォッカひとビン飲んでオーバードース。この中庭、ってほんとに変な造りで、精神科のあるビルは10階建てくらいある、結構大きい病院なんだけど、なんでここにだけ中庭があるの?絶対どっかに穴があって、そこに蓋がしてあって、それを開けると外に出られる。それか屋根に登る。屋根はそんなに高くない。窓はないから、屋根の向こうになにがあるのか、それは分からない。俺は地面に敷いてあるレンガを一個一個触って、動くヤツがきっとあるから、それを捜し始める。それから今度は、壁を見て、よじ登れる場所を捜し始める。俺、背が高いからなんとかなりそうな箇所も無きにしも非ずなんだけど、体力がないから無理。またしばらく食べてない。どうして世間一般の人達は普通にちゃんと食べれるの?胃が固まってしまったみたいに、全く食欲がわかない。この中庭からはどう考えても外へ出られない。壁を叩いてみる。もしかしたらなにかの物語かSFみたいに、秘密のドアがあって、そこから外に出られるのかもしれない。白い壁、ゴツゴツとした手触り。あんまり強く叩くと俺の手が痛くなる。俺は自分の手を見てみる。バカみたいに叩いてたから、少し赤くなってる。でも俺は構わずに壁を叩く。出口らしい場所はなかなか見付からない。ひとりの男が中庭に入って来る。見たことのない男。男らしい険しい顔をしている。患者でもスタッフでもないから、きっと見舞に来た人。俺はその男を無視してまだ出口を捜して壁を叩く。もっと速く、もっと激しく、もっと、もっと。男が俺を制して、
「なにしてるの?手から血が出てる!」
俺は、
「助けて!俺はここから出られない!」
男は俺の両手を掴んで、血を流している両手を俺自身に見せて、
「ほらこんなになって!」
俺は泣き叫ぶ、
「ここから出して!俺を閉じ込めないで!」
ドアからナースが数人飛び出して来て、俺を押さえつける。宮崎の声が聞こえる。
「優夜!落ち着け!大丈夫だから。」
トランキライザーを打たれたんだけど、どういう訳かよく効かなくて、俺は両目をしっかり開けながら涙を流して、宮崎は両手の手当てもしてくれようとしたんだけど、俺があんまり嫌がって暴れるので、困ってて、俺はもし両手が縛られたら外に逃げられなくなる、って喚いてて、しょうがないんで、しばらく手はそのままで、トランキライザーが効くのを待ってたらよく効かなくて、何時間も経ってから俺もやっと落ち着いてきて、涙ももう出てなくて、宮崎がやっと俺の傷に包帯を巻いてくれて、ドクターは忙しくてすぐ来てくれなかったけど、俺が取りあえず落ち着いたから、ドクターには明日会うことになった。廊下から宮崎の声がする。
「面会時間、もうすぐ終わりなんですけど、折角だから会って行かれたらどうです?もうかなり落ち着いてますし。」
知らない声が俺の名を呼んでる。
「優夜さん。」
俺は知らない声の持ち主を見ようと、起き上がろうとする。その人は、
「あ、起きなくていいから。」
「はい。」
「俺、写真撮ってて、社長に言われて君に会いに。」
「ああ、はい。聞いてます。」
「さっきあんなに血が出てて、大丈夫なの?」
「あの時の方?随分長いこと待たせてすいません。」
「これ、君のだろ?」
って、俺の絵の具やなんかをバッグから出してくれた。その人は顔はすごく男っぽいんだけど、身体はしなやかで、柔らかそう、って変だけど服の上から見て、俺はそう思った。彼は、
「俺ね、名前、生垣雅也。また来るから。」
「あの。」
「なに?」
「どうして俺なんですか?」
「それもまた話そう。」
それからドクターに怒られるし、宮崎に怒られるし、ああいう状況に陥った時には、物事を現実的に見るという訓練をしてるだろ?あんなとこに閉じ込められるわけないだろ?俺は、あんな訓練なんの役にも立たない、って思ったけど、ここで逆らうと話しが長くなると思ったから黙って大人しく聞いていた。宮崎は俺の手が使えるようになるまで、シャワー浴びるの手伝ってくれて、頭シャンプーしてくれたり色々で、俺は看護師さんってありがたいな、って思うけど、俺なんか人のことなんてどうでもいいから、絶対看護師にはなれないな、って思った。それから俺、その生垣雅也というフォトグラファーについて調べたけど、その人メチャ、アーティスティックな写真撮る人で、有名な美術大学を出て、賞とかも色々取ってて、写真はビルとか人工のモノとかそんなのばっかり。クリアーでモノトーン。光と影。こんな芸術家の人ってどうやって食ってんのかな、って思ったら、大学の教授だって。不思議なのは、その人自然とか人物とかは全然撮らない。なんで俺なのか、余計分かんなくなってきた。
3
彼はあの事件の丁度一週間目に現れた。その日はドクターに会う日で、俺には良くなろうとする気持ちがない、だの体重が増えないのはなんでだ、とかごたごた言われて腹立って、病院の中は居心地はいいかも知れないが、早く出ることを考えて努力しないと、とか言うから、こんなとこ全然居心地よくないです!早く出たい!と言って喚き、でもあまり喚くとヤバいことになるな、という知恵は働いたから、あんまり怒りは表に出さなかったけど、実は相当怒ってた。俺だって苦しい。当たり前だし病気だから。看護師とかドクターとかは、絶対俺達、患者の本当の気持ちなんて分からない。永遠に続く痛み、苦しみ、ジリジリと脳の焼けるようなつらさ。身の置き所のない恐怖心。自分のベッドに帰って、さっきのことを忘れるように努力する。それが上手くいった試しはないけど。違うことを考える。どうせあのドクター達、想像力が枯渇してるから、俺達のことを理解するのは無理。でもあのドクター若いのに頭はよさそう。俺のことタダの双極性障害じゃないかも知れない、って言ってた。そうなると辻褄が合うことが色々出てくる。ハイの時も色が見えるし、そうじゃない時も色が見える。でもウツの時は見えない。考えたいことができたからそれを考えようと努力してみる。集中力は全然ない。頭に色んな事柄があって、それが順序もお構いなしに頭の中を巡って、出て来ては消えて、また同じ考えが出て来て、そして消えて。そうだ俺にはなにか考えたいことがあったんだ。俺の色。透明な色のない色。これをどう表現すればいいの?絵の具で?パステルで?色鉛筆は全部取られてしまった。もしかしてあれがあればできたのかも知れない。今どこにあるんだろう?取り戻せるのかな?透明な色。絵の具の三原色を混ぜ合わせるとその交わった部分が黒になる。でも光の三原色を重ねるとその交わった部分が白くなる。でも俺の捜してる白はその白じゃない。もっとキラキラした弾くと音が出るような、クリスタルみたいな、でもクリスタルでもないそういう透明なモノ。それをどう表現する?ギャラリーの部屋いっぱいにクリスタルガラスを置いて、それを壁に向かって投げ付けるパフォーマンス。全部割れるまでそれは終わらない。最も原始的なパフォーミングアート。でももし、それでも自分の捜してる白が見付からなかったら?車のフロントガラス、あれを粉々にする。この病棟にあるのは紙のコップ。プラスチックでさえない。俺はいつもやるように自分のベッドの周りのカーテンをしっかり閉める。三回くらい確かめたから、多分大丈夫。ここには誰も入って来られない。でも俺が出ようとすれば、ちゃんと外にも出られる。上手くできた仕組み。しかしそのカーテンを誰かが触って、それが揺らいで、俺の世界が誰かに侵食される。俺は水の入った紙コップを投げ付ける。プラスチックでもないガラスでもないクリスタルでもないコップ。その人は、
「おい、おい。」
って、少し笑いながらカーテンに手をかけて、
「優夜君。」
って、俺の名前を呼ぶ。俺は謝らない。だって向こうが俺の世界を乱したから。
「入ってもいいかな?」
「やめてください!」
「おい、おい。」
って、また俺の超不機嫌な叫びにも動ぜず、顔を覗かせる。あれはこないだ面会に来たフォトグラファー。咄嗟に、俺には関係ない外界の物事が俺のカーテンを開けようとしている、と思う。俺は布団の下に潜る。そこも安全でないことは俺は承知してて、でも他にどうすればいいのか、少し考えないといけない。この人の撮るビルはいつも白と黒。でも俺の欲しいのはあの白じゃない。どうしてこの人はあんな白を撮るの?意味が分からない。あの白は太陽に照らされた白。モノクロの写真ではない。それはそのビルの白と黒に、なにか純粋ではない色が混じっているから。多分その混じった色があの白を、俺の考えるほんとの白の邪魔をしている。宮崎の声がする。
「優夜ちゃんといるでしょう?」
「水をかけられた。」
って、彼が笑う。
「今日暑いから丁度いいけど。」
宮崎が俺のカーテンを一気に開けて、そうすると外界の光が全て俺のベッドの周りに集まって来て、俺は息ができなくなる。宮崎が、
「優夜。人に嫌なことをすると自分に返って来る、っていつも言ってるだろう?」
俺は光が集まり過ぎて息ができなくなってるのか、それとも布団に潜っているから息ができなくなってるのか、分からなくなる。俺はすごい技を使って、他の人から見られないように布団の端からベッドの下に入り込んで、そこから必死に走り出る。この病棟に隠れる場所なんてないんだけど、とりあえずこの2人とはどうしても喋りたくないから、テレビの後ろに逃げ込む。こんなとこに入り込めるのは、俺みたいにバカな拒食症しかいない。テレビを観ていた患者のひとりが俺の居場所をばらす。俺はまた走って、廊下に出て、でも体力がないからもう走れなくなって、遂に宮崎に捕まる。
「優夜。なんで逃げる?」
俺はもう立ってられなくなって、廊下にへたり込む。宮崎の後ろに大きな四角いバッグを肩からかけた、フォトグラファーがいる。いつも知らない人は嫌なのに、この人は嫌じゃない。新しい患者が来ると、俺はその人が怖くなくなるまで大分時間がかかる。でもこの人は怖くない。怖くないけど、やはり異次元のモノは感じる。どうしてこの人俺に会いに来たの?宮崎は、
「お前、また食ってないだろ?あとで体重はかろう。」
そして血圧計を持って来て、俺の血圧をはかる。
「血圧はいつも大丈夫なんだよな。」
宮崎はそう言って、俺とその人をふたりで置いて行ってしまう。俺は廊下に座ってじっと床を見ている。誰とも会いたくないし、誰とも喋りたくないというオーラーを満開にして。その人、生垣雅也。俺の隣にドカッと腰を下ろす。俺は絶対コイツの方は見ない、って頑固に決めちゃったんで、ずっと下を向いていたらなんだか首が痛くなってきた。バカみたい。俺ってなにしてんの?いい年の男が。みんなのランチが大きなカートに乗せられて運ばれて来る。俺達ふたりはカートが行くまで足を引っ込める。彼は、
「ランチの時間なんだろう?」
って、言うけど当然俺は食べたくないから食べに行かない。いつもだとみんなが食べ終わったらまた同じ人が来て、トレイをカートに載せて戻って行く。俺が食べてようがどうだろうが、その人はいつもそうしている。そしたら雅也さんがその人に、
「この子まだ食べてないんで、余ってんのあったらいただけませんか?」
そしたらその人は何個か蓋を開けて見て、全然手をつけてないのを捜して、それを雅也さんに渡す。その拍子に、彼の耳になにかがキラって光る。ダイアモンド?ダイアモンドの透明さ。それは理屈に合う。透明な光。クリスタルガラスでは表現しきれなかった俺の透明な色。雅也さんは大きなバッグを持ってるから、俺にそのトレイを持たせて、俺は意外にも俺にしては素直にそれを受け取り、雅也さんは俺に手を差し出して俺はそれに捕まって立って、俺にしては素直に彼の手を握って、俺達は手を繋いだまま食堂に行って、席についた。食べようとしても頭に食べるという意識が入って来ない。俺は疲れているので目を閉じる、雅也さんは、笑って、
「おい、おい。食ってる時に寝るなよ。」
そう言うんで、俺は目は開けたけど、食べ物からは目をそらす。そして彼の耳のダイアモンドを焦点の合わない目で見詰める。そのピアスは右の耳だけで、俺はこの人大学教授なのに、近頃はなんでもありなんだろうな、って思う。俺も昔はしてたけど、最近はそんなことどうでもいいのと、どうせ男は寄って来るから、ほんとにどうでもよくなって外してしまった。俺がダイアモンドのピアスを見てるのに気付いて、
「これね。ほんとはもっと大きいの欲しいんだけど。」
それでも俺はそれをずっと見詰めてて、そしたら雅也さんはそれを外して俺に見せてくれて、
「そんなにグレードの高い石じゃないんだけど、なんかこれが気に入って。」
この透明感、丁度俺が探してた感じだな。もっと目に近付けて見てみる。彼は、
「ほら、ここの端っこのとこに、黒いカーボンが浮いてるだろ?こういうのはダイアモンドとしては良くないんだけど、俺はそれが気に入って。」
宮崎が食堂を覗きに来る。俺はとっさに食べている振りをする。雅也さんはそれを見て笑っている。テーブルに置いたままのダイヤモンド。俺は食べる振りをしてただけだったんだけど、なんかマジで食べ出して、そのダイアモンドがあるとなんでか知らないけど食べられる。雅也さんが、
「よっぽどダイアモンドが好きなんだね。」
「俺の捜してた色だから。」
「ダイアモンドの色。」
俺がうなずく。雅也さんは考えて、
「色のない色。」
「そう。」
「透明な色。」
「そう。」
この人には俺の考えていることが良く分かる。俺は、
「こないだこの色が飛んで行きそうになって、あとを追いかけて、それでビルの上から飛んで。」
「飛んだの?」
「飛びたかったけど。」
「よかったな、生きてて。」
「でもあれはまたやるから。」
「マジで?」
「うん。でも貴方大学の先生でしょ?」
「一応。」
「もし俺にこの色の描き方を教えてくれたら、多分もうやらない。」
「大学教授の観点から言わせてもらうと、ダイアモンドの色は描き表せない。それは心の中にだけ存在する。」
「でも俺見たから。その色が飛んで行くの。だからそれは物質として存在する。」
「それはタダの光だったんじゃないの?」
「宇宙に漂う氷の粒みたいなもの。でもそれがダイアモンドだって気が付かなかった。」
「今の顔いいな。何枚か撮らせてもらっていいかな?」
「やだよ。俺、今は笑えないよ。」
「いいよ。」
「それに俺ずっと今朝方まで泣いてて。」
「いいよ。」
俺はスマイルもポーズも全然してあげなくて、でも雅也さんは俺の顔と椅子に座ったままの全身を撮って、
「俺のスタイリストが君のスリーサイズを知りたいって。」
「知りません。そんなこと。」
「じゃあ、身長は?」
「知りません。」
「どうしたら教えてくれるの?」
「外に連れて行って。」
「それはできない、ってドクターに言われたんだろ?」
「貴方大学教授でしょ?頭いいんでしょ?俺もうここに3カ月いるんですよ!」
「それは君が最大限努力して、よくなろうと思わなければ。」
どうして俺はこの人が俺のためになにかしてくれると思ったんだろう。悔しくて涙が出て来て、でもほんとは彼の言ったことが当たってるのも知ってて、俺が思いっ切り努力してよくなろうとしなければ、俺は一生タダのバカの頭変なヤツに過ぎないんだ、って分かってて、またこの人になんか投げようと思ったけど、それはやめて、その代わりにそこら辺に置いてあったモノや冷蔵庫に入ってたモノやなんかを全部食堂のでっかいゴミ箱に捨ててやって、最後にそのゴミ箱を蹴倒してやったら、少しスッキリした。ゴミ箱を蹴った時になにかカタって音がする。ゴミ箱を逆さにして振ったら、小さなガラスの花瓶が出て来た。誰かが不用意に病棟に持ち込んで、枯れた花と一緒に捨ててしまった。俺は力がないからそれを叩き壊すのは無理だと思ったから、テーブルの上に上がって、その上から床に思いっ切り叩きつける。一番シャープなかけらを拾って、本気じゃないヤツは手首を切る、でも本気なヤツは首を切る。雅也さんは俺のことをジッと見ている。俺は彼の右耳のダイアモンドの色を見ている。透明過ぎて描き表せない色。心の中だけにある色だって。もしそれが本当で、もし俺がそれを追いかけて、捜しても見付からなくて、それでも捜して、出口が見付からなくて、それでもビルの上から飛び上がらなくても生きて行けるのかも知れない。俺は彼に一歩一歩近付いて、ダイアモンドの耳を見て、さっきこの人は俺の顔を写真に撮った。俺の顔。俺が花瓶の破片を握っていた手を広げる。あんまり強く握っていたので、俺の手の平には深い傷がえぐられていて、その手を広げて、彼にそのガラスの破片を渡す。俺はもう生きていたくない。でもこの病院からはなんとしても出たい。俺は傷付いた手で俺の顔に触る。血の匂いがする。血の味がする。俺の顔。まだ3年しか経っていないのに、かつて俺を愛してくれたデザイナーや色んな人がみんな俺の周りからいなくなってしまった。もともと疲れていたのに、バタバタ暴れてしまったから、ますます疲れてしまった。バカな狂人の日記にまたバカなエピソードが加わった。
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懲りずに雅也さんは俺に会いに来てくれて、いつもは平日に来るのにその日は日曜日で、他に見舞客がたくさんいて、俺は人に見られるのが嫌だったから、カーテンを引いてずっと自分のベッドにいた。そしたら雅也さんが俺の名前を呼んで、静かにカーテンの中に入って来た。抗不安剤を増やされてたので、一日中眠くて、その時もうつらうつらしていて、彼のことを見て、俺はできる限り微笑んで見せた。そしたら彼の後ろに恥ずかしそうに立っている若者がいて、その人のことを雅也さんは、自分のスタイリストだ、って紹介して、名前は智志だ、って言ってた。雅也さんが、
「少し外に行かない?」
って、言ってくれたけど、外ってだたの中庭のことで、俺にはそれは外、とは言えないから、俺は泣きそうになりながら、
「外に出たい。」
って、言って、そしたら雅也さんは、
「君がよくなればどこへでも行けるよ。」
って、言ってくれた。智志さんは、俺のことを見て、
「細いね。」
って、言って、それは嫌な言い方じゃなかったから、よかったけど、あんな芸術写真を撮る人が俺にどんな服着せて、どこでどんな風に撮るんだろう、って疑問がたくさんあった。でも俺は眠いから中庭の太陽の当たる場所に横になって寝てしまう。あとのふたりはそこらに腰を下ろす。一回揺り起こされて、
「写真何枚か撮るからね。」
っていう雅也さんの声がして、俺は少しうなずいた。半分寝ながら半分ふたりの会話が聞こえて、智志が、
「これだけ細かったら、女の子の服着れるよ。」
「女の子の服?」
「そう、ドレス。シンプルで可愛いの。」
「これはファッションの撮影じゃないからな。」
「分かってるけど。」
「彼こんなに背が高いし。」
「俺、知り合いのメーカーのショーに使ったモデルサイズの借りて来る。」
「まだ撮影のメドが立たないし。ドクターがもう少し安定しないとダメだって。」
「病院の中で撮影しちゃえば?」
「病院のどこで?」
「ベッドの上で。」
「ライティングは?」
「そんなのどうでもいいわよ。入院してるモデルという設定。花とかいっぱい散らして。」
「お前な、死人を撮るわけじゃないぞ。」
「死人を撮りたいって言ってたじゃない?」
「アレは止めた。」
「じゃあなにを撮りたいの?」
「分からないけど、死人じゃない。」
死人、という言葉が耳に入って来て、俺は起き上がった。智志が、手際よく俺のサイズを測っていく。靴のサイズや頭周りのサイズまで。それからまた俺はポカポカ暖かいレンガ敷きの地面で寝ちゃって、また半分彼らの会話を聞いていた。智志が、
「ねえ、俺達最近全然ヤってないじゃない。」
「お前が彼氏できたからもう俺とはヤらないって。」
「そうだけどさ、たまにならいいじゃない。」
「じゃあ、そう言ってくれればいいだろ?って、なんで今そんな話になるの?」
「なんかこの子寝てるの見てたらしたくなった。」
「この子って言うけど、お前より上だぞ。」
「そうなの?可愛いから幼く見える。」
「じゃあ、どうすんの?これから。」
「俺んちはダメ。あ、この子聞いてる。ほら、口元が笑ってるもん。」
そこで俺はゲラゲラ笑い出して、
「俺のベッドでヤれば?みんなしてるよ。」
智志が、
「ウソでしょ?」
俺が、
「ほんと。俺してあげる。あ、でも最中に寝ちゃうかも。」
可愛い智志はキスが上手で、スイートでありつつパッションも、って感じ。智志とキスしてる俺の顔を雅也が撮ってる。俺がまだ包帯の取れない手で、レンズを覆う。それでも俺はキスに夢中になるとそんなことどうでもよくなって、智志が俺のモノに服の上から触り始める、俺は、
「ダメだって、俺が先にヤるの。」
智志は、
「うーん。」
って甘えた声を出して、彼の極限まで短いジーンズを脱がして、その下の可愛いプリントの下着も脱がして、フェラし始めたら、あんまり大きな声を出すから、雅也が智志にキスして、そしたら智志は雅也とのキスに夢中になって声は出さなくなって、でもそうすると俺は面白くなかったから、智志のを献身的に興奮させてやって、そしたらまた智志の声が大きくなって、しょうがないから、3人で布団に潜ってヤって雅也は俺達ふたりのことを優しく愛撫してくれて、智志が可愛い声でイって、そしたらどうなるのかな、って思ったら、雅也がいきなり智志に挿入して、ふたりはヤり慣れてるみたいで、俺の入り込む余地はあんまりなくて、でも智志の声がうるさいから、俺がキスしてやったり、智志が俺の肩とか噛んで声出すの我慢して、でも俺それ痛いじゃんと思ってたら、今度は俺の乳首を噛み出して、そしたらそれもっと痛いじゃん、って思って、結局智志は俺のをフェラし始めて、そしたらヤツの声が少しおさまって、でも雅也の動きがあんまり激しくて、俺とかもつられて気持ちよくなって、割と早くイってしまってつまんなかったから、雅也の右耳のダイアモンドにキスして、口にもキスして、雅也の身体を抱いてみたら、筋肉の付き方がネコ科で、メチャセクシーで、これはヤバいわと思いながら乳首を舐めてたら、彼がイって、3人でしばらくベッドで寝て、俺はほんとに寝ちゃって、起きた時はもう夜で、ふたり共いなくなってた。
5
次の日にドクターに会いに行ったら、どう伝え聞いたのか、俺がベッドでセックスしてたことになってて、別に事実だからそれはいいんだけど、病室でそういうことはしてはいけない、とか言うんで、俺はみんなヤってんじゃん、って思ったけど、それについては言及せず、
「そんなことより、先生、俺、分かりました。いいセックスって精神衛生に、一番効くんじゃないかと。あの後グッスリ眠れたし、起きた時もスッキリ起きられたし、生きる希望も湧いてきました。」
「あんまり調子のいいこと言っても、どうも信用ならんな。」
「そんなことないです、って、先生。俺なんか頭狂ってるからもうセックス一生できないな、って思ってたから、自信つきました。」
「じゃああと3週間、問題行動が起きなかったら、外出許可をあげるから。」
「2週間。俺、美術大学の教授からモデルやってくれって頼まれてるんですから。その人すごく真面目な人で、問題行動なんて絶対ないし。セックスも上手いし、って関係ないけど。」
2週間経って、俺の調子がよくて、必ず誰か付き添いと一緒にいる、っていうことを条件に、病院を出してもらった。今日は1日だけで、病院の消灯時間前に帰って来ること。病院に智志が迎えに来てくれて、俺達は雅也の大学へ向かった。智志は胸の大きく開いたランニングシャツを着てて、それがやけにそそる感じで、電車の中で智志の隣に立ってたら、若い男の体臭がして、ずっとセックスのことばかり考えてた。で、大学に着いて、俺はなんとか高校は卒業したけど、その辺からは頭変だったから、進学とかは全然考えてなくて、大学、という所自体が新鮮だった。智志と俺は静かに講堂に入って行った。雅也の授業だ。生徒は意外と少ない。20人もいないくらい。俺達は部屋に入って後ろの方の席に座る。前に大きなスクリーンがあって、生徒の撮った写真について批評会みたいなのをやってる。
6
雅也「俺、先週、なに言ったっけ?全然覚えてないな。」
生徒1「先生、なにを撮っていいか迷った時は、不純な動機で行けって。」
雅也「俺、そんなこと言った?あれだよな。迷う時はある。写真撮りたくて大学に入ったのに、なにを撮っていいか分からなくなることがある。俺にもある。今でもある。そういう時、つらいよな。自分がなにを考えて生きて来たのか分かんなくなるよな。自分を越えられない、と思う時もある。昔の作品を評価されて、でも自分を越えられない。で、なんだっけ?不純な動機?思い出した。だから、そういう時は自分を信じろと。昔あんないい作品を撮った頭と目があるなら、きっとまたいい作品が撮れる。で、自分を信じろと。それがなんで不純な動機?」
生徒2「他人の言うことを気にするな、って先生言ったんでしょう?」
雅也「そうだった?まあ、いいや。そうらしいからその話しだけど、他人っていつもいるよな、頭の中に。こんな写真撮って、なんて言われるだろう?って。そこまで気にしなくとも、潜在的にいるよな、意識の底に。無意識に。観客っていうか。写真ってそもそも人に見せるためのモノなの?そこまで考えると時間足りなくなるかもしれないけど、まあ、それでもいいから、言うと、俺とかは、人に見せられない写真いっぱいある。主にセックス中のとか、公然猥褻とまでいかないけど、スレスレのヤツとか、もともと人に見せようと思って撮ってるわけじゃないから。それでね、俺いつもあんまりやらないんだけど、いつもぶっつけ本番だから、で、今日提出された写真、魔が刺して見ちゃったんだけど、さっき。そしたらいいのがあった。誰のを言ってるのか本人分かってるかな?」
大画面に映し出される写真。盗撮の写真。エスカレーターの上で女子高生のスカートの中をスマホで撮ったような、稚拙な写真。撮った本人らしき学生が、ヤダー!と叫んで机に突っ伏す。
雅也「え、マジで?君が撮ったの?女性の作品?これどうやって撮ったの?」
生徒3「後輩の女子高生に頼んで撮らせてもらいました。」
雅也「お前、駅員とか警察とかに見付かってないだろうな?」
生徒3「大丈夫だと思います。」
雅也「捕まっても俺の名前出すなよ。」
生徒3「はい。」
雅也「先週の授業の、迷ったら不純な動機で、自分を信じて、他人のことは気にするな。その先週の授業がどうしたらこうなんの?」
生徒3「だから純粋に好奇心で。」
雅也「女の子のスカート中見たいの?なんで?」
生徒3「どんなパンツ穿いてんのかな?とか。」
雅也「社会の底に蠢く暗い男達の欲望の犠牲になる若い女性達、とかそういうテーマとかはないの?」
生徒3「ないです。今、若い子達どんなパンツ穿くのかな、って。研究して今度買いに行く時の参考にしようかな、とか。」
雅也「え、いつもそんなことやってんの?」
生徒3「今のは冗談です。すいません。テーマはないんですけど、ただ、人騒がせな作品を撮りたかっただけです。」
雅也「いい。成功してる。人騒がせ。これは。こんな写真50枚くらい撮って、個展開くと、成功すると思うけど、警察の取り調べは受けるな。でもそれ含めて一種のパフォーマンスだな。俺さ、幸い女のスカートの中、全然興味ないけど、やっぱ盗撮するヤツって可愛い子のを撮るんだろ?知らないけど。だから顔写真とパンツの中を組みにして展示する。やってもいいような気がしてきた。あとで一緒に警察に行って、芸術だとか言って、許可が下りるか聞いて来るか、ってダメに決まってるよな。テーマもないしな。じゃあ、そんなわけで、俺も勉強になった。人騒がせな写真。じゃ、解散!」
7
俺が思わず手を叩く。つられて他の学生達も手を叩く。雅也が俺達の所に来る。智志が、
「雅也って、あんなしょーもない授業やってんの?授業料ぼったくりじゃん。」
俺が、
「そんなことないって。いいこといっぱい言ってたじゃない。」
智志が、
「どんなこと?例えば。」
「なにを撮っていいか分からなくなる時は、自分がなんのために生きて来たのか分からなくなる、って。」
雅也が、
「俺、そんなこと言ったっけ?まあ、でも俺いいこと言うよな。」
俺達はその場で今日の初めての撮影について話しを始める。俺は最初にどうしても聞きたい質問がある。
「どうして俺だったんですか?俺もう3年前にモデルも辞めてずっと病気で。前とは全然違うし。」
雅也が、
「動機は不純なんだよ。俺、人物撮ったことないし、でも撮りたくなって、でも今まで生きてるモノを撮ったことないから、それこそなにをどう撮っていいか分からなくて、自分がなんのために生きて来たのか分からなくなって。それで君んとこのモデルエージェンシー大手だからそこに行って、何人か実際に会ったりもしてたんだけど、ピンと来なくて、君のプロフィール写真はもう出てなくて、お宅の社長がランウェイ観ますか?って言うから、なんとなく観てて、そしたら君が出て来て、あんまり可愛くて、なん回もビデオ止めてもらって、俺、この子がいいです、って社長に言ったら、前はよく仕事してもらったけど、今、やってるかどうか分からないって、言われて、でも契約は残ってるから、連絡は取れますよ、って言ってもらって、よかったな、って。」
俺が、
「でも可愛い子だったら他にもたくさんいたでしょう?もっと若い子とか、ハーフの子とか。」
「動機は不純なんだよ。俺、君見た時、コイツ押し倒して、今すぐヤりたい、って思った。」
俺、ここって笑っていいタイミングなのかな?それともシリアスな顔すべきなのかちょっと悩んだけど、
「実際に会って、あんまり変わってたからビックリした?」
「3年前のビデオだって聞いてて、あんまり男臭くなってたら嫌だなって、そのくらいは考えてたけど、やつれてはいるけど、前よりもっと幼く見えた。だからビックリした。よかったな、って思った。俺のイメージそのままで。」
智志が、
「優夜。俺達ね、君の衣装何通りか用意して車に積んであって、でもどこで撮ればいいか。」
雅也が、
「ここのスタジオも借りてあるんだけど、俺は外で撮りたい。」
智志も、外で撮りたい、って言い始めて。外って言ったって、どこで、どういう風に?俺はかなり仕事こなしてたから、まだ身体が覚えてると思うし、俺はなんでもできるよ。誰が決めるの?俺が考えてみて、
「雅也さん、俺のこと見て押し倒して今すぐヤりたい、って思ったんなら、そういう写真にしましょう。」
智志が、
「じゃあ雅也は写真学科の教授としての立場で言って、どんな写真にしたいの?」
「そうだな。人間としてちゃんと存在している写真。」
「それだけじゃよく分からない。」
「表情はあるんだけど感情はなくて、退廃的でも虚無的でもなく、生きているでも死んでいるでもなく、ただ存在している。」
「今度は難し過ぎてよく分からない。」
で。俺が、
「普通にしてればいいってことですよね。微笑みながら。」
雅也が、
「まあ、簡単に言ってしまえば。」
智志が、
「じゃあ、俺はどうすればいいの?なに着せるの?それともなんにも着せないの?」
雅也が智志に、
「お前はどうしたいの?」
「ちゃんと存在して欲しいんなら、なにか着せましょう。」
俺は考えてたんだけど、それって俺の見える色達みたい。存在してる、でも生きても死んでもいない。ダイアモンドの色。透明だから存在してないみたいに感じるけど、本当はちゃんと存在している。3人で広めのバルコニーの付いたホテルの部屋を借りた。フロントでバルコニー付きの部屋は3階から上になりますけど、って言われて、じゃあ、3階で、って雅也に言われてしまった。3階って中途半端なんだよ。死ねない高さ。昼過ぎに抗不安剤を飲んだから、俺はまた今、すごく眠い。ベッドに倒れてしばらく目を閉じていたらほんとに寝てしまった。少し寝てたら起こされて、雅也が、
「君んとこ、消灯時間って何時?」
「9時。」
「じゃあそろそろ起きて。横になると君寝ちゃうから、立って、バルコニーでいくつか撮ってみよう。」
お天気はやや曇り。暗くはない。太陽の存在がしっかりと雲の後ろに。智志は俺に女っぽいブラウスを着せた。薄手で真っ白で、中世なら男でも、このくらいのギャザーやフリルのついたブラウスを着てた、そのくらいの感じ。雅也が大きめのスクリーンのパソコンで、今撮ったばかりの写真をチェックしている。
「もっとちゃんといてくれないと。」
とか、意味不明なことを呟いている。
「もっとちゃんと存在してくれないと。」
「俺、ってそんなに存在してませんか?」
「してない。」
雲の合間から太陽が覗く。雅也はその一瞬の間にシャッターを切る。多分10数枚撮って、また太陽は隠れてしまう。雅也は、
「表情はとてもいい。もし俺が君の存在をちゃんと撮れてないなら、それは俺の責任。」
そのあとも太陽は出たり入ったりを繰り返す。服を着替えてまた撮ってみる。今度のはマジで女の服。俺の髪は俺の普通より短いけど、それでも肩につきそうなほど。智志が俺の髪をふわふわにしてスプレーとかかけてくれる。唇にリップグロス。顔全体にキラキラ光る粉を鳥の羽みたいなパフでつけてくれる。智志は、
「このドレス、身長が175cmくらいのモデルが着てたヤツ。まだ袖が短いね。」
そのドレスは前開きで、ボタンがたくさんついてるデザインで、だから俺の裸の上にそのドレスを羽織った。裸の胸とかは見えてて、性器の部分だけ自分で前を合わせて隠してて、足は見えてる。俺の集中力がだんだん揺らいでくる。目が勝手に動き出す。顔から表情が消えて行く。雅也はどうしていいのか分からず、カメラを通さず、俺の方を直接見る。太陽の淡い光が差し込む。飛行機がホテルの近くを飛んで行く音がして、雅也がそっちの方を見た時、その瞬間に彼のダイアモンドのピアスが太陽の光を反射する。俺は、ゆっくり彼に近付いてそのピアスを外して、智志がちゃんと俺の耳にそれをつけてくれる。俺はしばらくピアスしてなかったから、その時チクって少し痛みを感じる。雅也は俺の右耳が入る方から横顔を何枚か撮る。フラッシュを使ったら、不思議な非現実感が生まれた。3人で今まで撮ったのを見ながら考える。3人の共同作業なんだな、って俺は不思議に思う。俺がモデルやってる時は、フォトグラファーの独断か、デザイナー、マガジンエディターの仕事だった。雅也は完全に混乱してる。自分の撮りたかった感じが全く現れてない、って言う。モデルの意見を聞いてくれるヤツはあんまりいなかった。俺は、
「俺がちゃんと存在してない、ってことですよね。」
雅也が、
「そう。今君はどこにいるの?ちゃんとここにいてくれないと。」
雅也にしては、感情的な言い方をする。俺はどこにいるの?ここは港に近い、都会のホテル。3階のバルコニー付きの部屋。俺は女の服を着せられて、ここに立っている。それは横になるとすぐ寝ちゃうから。パソコンのスクリーンには俺の姿が映ってる。でも俺はそこにはいない。考えてみて。雅也が初めて俺のビデオを観た時、彼は俺のこと可愛いと思ってくれて、そして今すぐ押し倒してヤりたい、って思った。俺は羽織っていたドレスを下に落とす。俺の全てが目にさらされて、なぜだか雅也が混乱が更にひどくなる。俺のこと3年前のビデオで観て、そんなに貴方にとってインパクトがあったんなら、今の俺にもそれは感じるはず。雅也は、
「少し休憩しよう。」
って、俺達に言う。俺は裸のままベッドに潜って寝てしまう。多分30分くらい寝たところで、ふたりの話しが耳に入り始める。雅也が、
「俺のやりたいのはファッションのショットじゃないし、可愛いお人形みたいに撮るんなら誰にでもできる。」
智志が、
「雅也、人物やったことないんだから。でもどうしてそこまで気にするの?モデルがなに考えてるかまで普通気にしない。雅也この子のこと見付けた時、すごい嬉しそうだったじゃない。その時の気持ち考えてみたらいいんじゃない?なんであんなにモデル探してたの?なにを探してたの?この子のどこかに他の子と違うなにかがあったんでしょう?それを思い出せばいいじゃない?似合うじゃない、この子、ドレスも、なんにも着てなくたって、綺麗じゃない。よく撮れてるじゃない!」
ドアの締まる音がした。俺が半身起き上がると、智志が、
「起きたの?雅也、自分でなにしたいか分かんなくなってる。」
「雅也は?」
「知らない。出てった。すぐ帰って来るよ。」
俺は当てもないけど、雅也のことを捜しに行こうと思った。智志があとからついて来る。当然、今日の外出許可は誰かが必ずついてること、を条件にされてるから。しばらく捜して、俺達は雅也をプールサイドで見付けた。俺は雅也の隣に座って、プールの水が光りながら動いているのを見詰めていた。智志は俺達から少し離れたデッキチェアーに座っている。雅也は、
「俺なあ、生きてるモノは葉っぱ一枚でも撮ったことないんだ。でも無性に人物が撮りたくなって。そもそもそこから変なんだ。なんで俺、いきなり人物が撮りたくなったんだろう?」
俺は、
「それは俺にも分からないけど。でも今日どうしても撮らないといけない訳じゃないし。」
「今日中に切り口くらいは掴んでおきたい。」
「それで人物を撮ろうと思って、それでどんな人を撮ろうと思ったの?」
「さっき智志にも言われて考えたけど、死んでる人間なら俺には一番分かりやすい。生きてないモノならいつも撮ってる。死んでる皮膚や骨や内臓、そんなのいくらでも撮れる。人物を撮りたい、って思ったのはタダの俺の気紛れ。理由、覚えてないくらいだから。だから考えて、可愛い若い男の子、が俺にとって一番分かりやすい被写体だって思って。で、それから探し始めて、なぜか全然見付からなくて。写真はたくさん見た。雑誌もたくさん見たし、モデルエージェンシーのプロフィールもたくさん見たし。見れば見るほど自分がなにを探しているのか分からなくなる。そしたら君んとこの社長にビデオ観せてもらって、今思えば、動画だった、ってこともあったかもしれない。もし君のことをスチール写真で観てたら、どう思っただろう?」
「それは俺には分からないけど、俺、自分の、プロフィール、写真も動画も全部保存してあって、雅也さんのパソコンからもアクセスできますよ。観てみましょうよ。そしたら雅也さん俺になにを感じたのかきっと思い出すはず。」
3人で部屋に戻って、まず雅也さんの見たことのない、俺のスチール写真から見てもらった。13才くらいからモデルを始めたけど、今そのファイルにあるのは、15才から、モデルを辞めた17才までの写真。いい写真が多い。俺は恵まれてたと思う。いいデザイナー、いいフォトグラファー、いいスタイリストといい仕事をさせてもらった。智志が、これ覚えてる、ってひとつの写真を指差す。それは40代くらいのファッション雑誌で、俺がそのくらいの40才くらいのモデルさんの厚い胸に顔を寄せて、悲しい様子をしてる、ヤバめの写真。コピーが、「もう少し一緒にいて。」っていうの。俺は智志に、
「なんでこんな雑誌見てたの?」
「ただの立読み。俺オヤジ好きだったから、その頃。ああ、これが優夜なんだ。」
「俺、だから悲しい顔とか、笑った顔とか、なんでもできますよ。得意です。」
でも雅也さんはなにも言わずに、ビデオを観始める。俺はその時もう17だったんだけど、細いし童顔だからやっぱ他のモデルさんに混じると、すごく若く見える。それは確か。今観ると歩き方が女っぽいな。腰が揺れるな。筋肉ないしな。おまけにメンズなんだからスマイルしなくていいのに、Uターンする前に半秒間スマイルしてしまう。これも癖かな。雅也さんが突然、
「やっぱり可愛い。すごく可愛い。」
智志は、
「そうかなあ、俺、この、もう少し一緒にいて、の方が断然可愛いけど。どこがそんなに他の人と違うの?」
雅也は、
「目が違う。なにかを見てる。ないはずのモノを。それがハッピーな感じ。」
俺は、
「そのビデオの頃は、俺は既に病院に通ってて、精神安定剤が身体に合わなくて、実はそのショーの時、眩暈がしてたの。下を向くとクラってするから、ずっと上向いてるでしょ。だからなの。目も、下見るとクラってくるから、目も上の方見てるでしょ。よく転ばなかったよね。プロだから。その辺は。だから雅也さん、鋭いかもしれない。そんなこと誰も気付かなかったし、俺自身今まで忘れてた。」
雅也さんは、
「なるほど。確かにずっと上見てる。」
って、言ったっきり、ひとりでまた最初から俺の資料を観始めて、他のランウェイビデオも観出して、智志と俺は暇なんで、ちょっとエッチなことをし始めて、キスしたりとか、上だけ脱いで抱き合ったりとか、すぐ側でそういうのしてんのに、雅也さんは全然関係ない世界に浸ってるみたいだった。ふたりでベッドに潜って、お互いのペニスに触ったりしてたら、雅也さんに布団めくられて、
「おい、おい、お前等なにやってんの?優夜、ちょっと立って動いてみて。」
俺のペニス半分くらいたってたけど、まあいいや、って思って、バスルームに駆けて行って腰にバスタオル巻いて、ランウェイのように部屋をふた回りくらいしてみた。雅也さんが、
「じゃあ、今、君があの時と同じ薬を飲むとまたあの顔になれるの?」
「あれはね、まだ飲んでるんだけど、あの副作用は数カ月でなくなった。」
「俺はないモノを探しているのか?」
と言ったっきり、雅也さんは黙ってしまった。俺はやっぱ芸術写真の人って違うんだな、とかノンキなことを考えてた。そのあと部屋の中で少し撮ったり、俺がベッドで寝てるとこ撮ったり、そしたら俺ほんとに寝ちゃって、起こされて、車で病院まで送ってもらって、それで撮影の一日目は終了した。
8
雅也さんからこないだ撮った写真が送られてきて、彼曰く、俺がベッドでぐっすり寝てるとこが一番いい、って。まあ、寝てると俺の可愛いつぶらな瞳は見えないけど、確かに悪くない。地球の重力に身を任せて、ちゃんと存在している。本当に寝てるから、よけい身体全部が地球の中心側に沈んでる。俺が起きてる時は逆に、飛ぶ色を探していつも上に向かって宇宙の方向へ飛んで行くから、なんだかそれも意味深い。俺、雅也さんにピアス返すの忘れちゃって、そのまましてて、もしかして結構高いヤツだったらやばいな、って思って寝てる間に盗まれたらやだし、と思って今はナースステーションに説明して保管してもらってあるんだけど、その間に2日間くらい右耳にしてたんだけど、それを目ざとくある患者さんに見られてしまった。俺は人のいるテレビのある部屋や、食堂なんかにはよっぽどのことがない限りは行かない。だから他の患者さんとの交流は、例のバイセクシャルの大学生が退院してからは、全くというほどなくて、いつも俺に、おはよう、調子どう?って声かけてくれる、感じのいいおばさんくらい。だからその男に声をかけられた時、正直言って嫌な気持ちがした。俺はここにいるけど、いたくているわけじゃないんだから、俺はここに属してはいない、だから話しかけないで、というオーラーを1日24時間発してしたから。でもその人多分戦略家で、俺がひとりでいる時じゃなくて、宮崎と一緒に食堂にいる時に声をかけて来た。宮崎はいつものようになんとか俺に食べさせようと必死で、他の患者さん達の食事はもう終わってて、俺が泣きそうでいたところに、その人が自分のトレイを持って勝手に一緒のテーブルに来て座った。それから宮崎と話したりなんだりしてて、その人は自分の苗字が二文字の和泉だって教えてくれた。宮崎が、
「お前がちゃんと食べて元気になって早く退院できるように、って俺は思ってるんだぞ。」
和泉さんは、
「まあ、そんな無理強いしなくたって。」
「コイツは見てないと、なん日もなんにも食わないんですよ。」
和泉さんという人は、なんか無精ヒゲはやしたオッサン、といってもまあギリギリ30代くらいの渋みのある人で、その人がいきなりテーブルに来たのが気に食わなかったし、その人と宮崎が世間話をしている間に俺はダッシュして逃げた。当然すぐ捕まって、またテーブルに座らされた。そしたらナースコールが鳴って、宮崎は、
「和泉さん、ちょっとコイツ見ててください。」
って、言い捨てて俺達を置いて行ってしまった。俺は知らない人と一緒にいるのも嫌だったし、喋るのも嫌だったし、でもその人からは嫌な感じは受けなくて、さっき逃げて疲れたからもう逃げるのはやめて、でもその代わりトレイを持って、全部ゴミ箱の中に放り込んでやった。トレイごと捨ててやったら気分が大分スッキリした。病室に戻ろうとしたら、その人に腕を掴まれて、俺は狂人のような叫び声を上げて、ってほんとに狂人だけど、腕を振りほどこうとしたら、病人のくせにやたら力が強くて、
「宮崎さんに、見てて、って頼まれたからさ。」
また椅子に座らされて、チラってソイツのことを睨んだら、あっちはなんかニヤニヤしながらこっちを見てた。俺はそれがなんか失礼なような気がしたから、もう一回睨んでやった。
「お前、こっから出たいんだろう?」
俺はなにも答えない。
「俺はなん度出ても、また戻って来る。」
俺はまだなにも言わない。
「アル中なんてそんなもんだ。」
アルコール依存症の人がこの病棟にいるの珍しいな。普通別の所にいるのに。あっちがいっぱいなのかも。今の世の中、依存症が流行ってるのかもしれない。こっちは俺みたいなバカで、双極性障害や統合失調症や拒食症や不安障害や強迫思考や、俺みたいなそれ全部のヤツが入院している。俺は眠くなって目を閉じる。その人が、
「薬が多過ぎるんじゃないのか?」
俺はそれまで絶対この人とは喋らない、って決めてたけど、眠くなった勢いでつい、
「自殺願望が出るから。」
「綺麗なダイアモンド。それ本物だろ?誰かいい人いるんだろ?」
「これは俺のじゃないから。」
なんとなくこの間見てた、自分のプロフィール写真を思い出してた。智志が好きだった、って言ってた、あの40代の人向けのファッション誌。俺が、なんだっけ?「もう少し一緒にいて。」とか言ってオッサンの胸に顔を寄せてるヤツ。なんで俺あんな写真プロフィールに載せたんだろう?名前の通った雑誌だったから?多分。自分で言うのもなんだけど、あの頃の俺が一番可愛い。目を閉じるとこないだ雅也と智志と3人で撮影したことを思い出す。病院の外に出るのも久し振りで、今考えるとあのことがほんとにあった出来事とは思えない。変な話、俺が寝ている時が一番存在してるように見えたって。依存症。アルコール依存症。俺にもなにか依存症ってあるかな?自殺依存症。自殺することを考えているのは楽しい。その先に希望が見える。そうじゃない時もあるけど。俺はまだじっと目を閉じている。俺っていつまでここにいないといけないの?この人の名前忘れてしまった。なんだったかな?えーっと、和泉さん。
「あの、俺もう行ってもいいですか?」
「まだ食ってないだろ?食べるまでここにいろって、宮崎さんが言ってたろ?」
食べるモノはみんなゴミ箱に捨ててしまった。俺はこないだやったみたいに冷蔵庫のモノも全部ゴミ箱に捨ててやった。フリーザーの中のモノも全部。そしたらもしかしたらこの間みたいにゴミ箱の中に、ガラスの花瓶が捨ててあるかも知れないと思って、ゴミ箱をひっくり返して中身を隅から隅まで見たけどなにも入ってない。手がドロドロに汚れてしまったけど、そんなことより花瓶を捜さないと、って思って。冷蔵庫の裏側とか、テーブルを裏側とか、いつか夢で、食堂のテーブルの裏側にナイフがテープで張り付けてある、っていうのを見た。その時はタダの夢だと思って調べなかったけど、アレはもしかしたらほんとうのことだったのかもしれない。シンクの隣にカギのかかった戸棚がある。木の戸棚で中は見えない。細長い棚で、もしかしたら俺でも蹴ったら壊れて中になにが入っているのか見えるかも知れない。思いっ切り蹴ったら壁にぶつかって、中で皿かコップかそれにフォークやナイフが音を立てているのが聞こえる。棚を力いっぱい倒したら、裏側の板が意外と薄くてその板なら多分俺が乗ったら壊れるんじゃないか、って俺は思って、やろうと思ったけど、急に自分がなにを捜していたのか分からなくなって、ナイフがあるとしたらそれはナースステーションにある。俺の色鉛筆と一緒に。俺が食堂を出ようとしたら、和泉さんが、
「こら、どこへ行く?」
「捜しモノがあるから。」
「なに?」
「俺の色鉛筆。」
俺は食堂を出て、ナースステーションに向かう。そこには人が3人くらいいて、俺のことに関心あるヤツはいないみたいで、
「あの、俺の色鉛筆返してもらいたいんですけど。」
その内の誰かが、
「先の尖ったモノはダメだって言われたでしょう?」
って、面倒くさそうに言う。
「でも俺、あれがないとすごく困るんです。」
でも俺に答えるヤツはいない。俺は一途に色鉛筆のことだけを考えてて、他にパステルや絵の具もあるから、色鉛筆がなくてもあんまり困らないんだけど、でもきっとそれは俺が先の尖ったモノを捜していたから?どうかな?よく分からない。誰も俺のことをまともに相手にしようとしなくて、まあ、俺みたいに狂人に付き合ってても埒が明かないから同情の余地もあったんだけど、俺は色鉛筆を返してもらうまでそこに居座ることに決めて、また俺みたいな拒食症みたいなヤツにしか入れないような、リネンの入ってるカートと本棚の間の隙間に座っていた。そうしたら洗い立てのリネンのいい匂いがして、そのままそこで眠ってしまった。気が付いたら自分のベッドでちゃんと寝てて、俺は食堂で暴れたりナースステーションに色鉛筆を捜しに行ったのは夢だったのかな、って思ったら、宮崎の声がして、
「もうね、和泉さん、ちゃんと見ててって言ったじゃないですか?」
「見てましたよ、俺ちゃんと。」
「そんな、落語みたいな下らないこと言わないでくださいよ。あの戸棚に入ってた皿全部割れちゃったそうですよ。」
「そんな割れるようなモノをあんなとこに置いとくのが悪いんですよ。なんのためにあそこにあったんですか?」
「ここは以前、精神科じゃなかったから。」
俺は、そうかここは以前、精神科じゃなかったんだ。俺は得意の抜けワザを使ってベッドを滑り降りて、隙を見て病室を抜け出る。食堂にはまだランチを食べている人が数人いて、でも俺に関心を示すヤツは誰もいない。戸棚は倒れたまま壁に立てかけてある。俺は後ろの薄い板を壊そうと、足で蹴り始める。それでもそこには俺に関心を払うヤツはいない。しかしそれが意外と頑丈なヤツで、俺は食堂の椅子の足でそれを壊そうとする。そしたらひとりの患者が来て、そんなことをすると椅子が壊れる、とか言い始めて、俺は戸棚は壊そうとしてたけど、それで椅子が壊れるということについて、一度も考えたことがなくて、その人の戸棚よりも椅子が大事、という発想はどこからやって来るのだろう、と俺の壊れた頭で一生懸命考えていたら、そこに宮崎と和泉さんが来て、宮崎が、
「優夜!なにしてんだ!」
俺は、
「この中に俺の色鉛筆が入ってる!」
「お前の色鉛筆はここにはないし、お前が元気になって退院する時返してやる。」
9
ドクターに会った。彼は、
「君のそのアグレッシブな面はどっから出て来るんだろう?こないだ調子よくて外出までしたのに。」
俺に聞いても分からないし、知ったこっちゃないので、黙っていた。
「君が色鉛筆捜してたって言うけど、それは尖ったモノで自分を傷付けようとしたの?それとも単純に色鉛筆が欲しかったの?」
それも俺に聞いても分からないから黙っていた。
「まだ食欲がないんだよね?宮崎さん、あとで体重はかってあげて。あとね、これ言って君がパニックにならないといいと思うんだけど、君をこれから個室に移すから。」
個室って、あのナースステーションから丸見えのガラス張りの部屋?
「あそこにいた方が君もそのうち落ち着くと思うし。」
俺は今までいた4人部屋から、個室に移った。引っ越しさせられたことについては、最初考えないようにしてたけど、部屋に移って1時間ほどしてから涙が出て来て止まらなくなって、そのまま夜になるまで泣いていて、宮崎が食堂に連れて行ってくれたけど、やっぱり泣いていて、いつものようのになにも食べられなくて、そしたら和泉さんが同じテーブルに来て、
「泣いてるねー。」
って、全く同情心もなく、どちらかというと面白がって人の顔を見て、
「なんで泣いてんの?」
宮崎が、
「今日新しい部屋に引っ越して、まだ慣れないんだよな。」
和泉さんが、
「あれ、ダイアモンドどうしたの?」
宮崎が、
「失くしたら困るから、ナースステーションに預けてある。」
「どこに引っ越したの?俺あとで遊びに行ってやるよ。」
「ナースステーションの所の。」
「隔離部屋か。」
そのままずっと会話はそのふたりで続けられ、俺はなにも喋らずなにも食わず、ずっと泣いていた。和泉さんが、
「あそこいい部屋じゃない。ひとりの方が気が楽だろ?」
俺は泣きながら、ナースステーションを通り過ぎた所に外へ出られるドアがあって、絶対今夜隙を見てあのドアから外へ出ようと思った。ナースコールがあって、宮崎は、
「和泉さん、今度は見てるだけじゃなくて、なんかしたら止めてくださいね。」
と、早口で言って、走って行った。宮崎がいなくなった瞬間に俺はまたトレイごと、夕食をゴミ箱に捨ててやった。そしたら和泉さんが、
「優夜。今日は冷蔵庫の整理はしないのか?」
って、言うので、俺はお言葉に甘えて冷蔵庫のモノを全部ゴミ箱に捨ててやった。それからゴミ箱をひっくり返そうとしたけどそれは止められた。止められたことが気に入らなかったので、俺は走って食堂を出て行った。
俺は中庭に出たかったけど、夜だからドアに鍵がかかっていた。なんとか出られないか、ドアを叩いたけど隙間はなくて、足で蹴ろうとしたらまた和泉さんに止められた。俺は、
「どうしても外に出ないと!」
って、また走ってでも疲れ切ってたから廊下に座った。和泉さんも一緒に座ってくれて、いつか雅也さんもそれと同じことしてくれたな、って思い出して、また音もなく泣き始めてほんとに泣く体力もなかったから、和泉さんが俺のことを立たせてくれて、そして俺はこれもいつか雅也さんがやってくれたことだな、って思って、そしたらもう外出許可なんて一生下りないから、もう写真も撮ってもらえないな、ってなにもかにも悲観的になって、和泉さんは俺の新しいガラス張りの独房に連れて行ってくれて、ベッドの上に寝てるとナースステーションから見えるから、俺はベッドの下に入って横になった。和泉さんは俺のベッドの上にいて、俺に、
「明日の朝、一緒に中庭に行こうな。」
って、言ってくれた。そして俺に毛布と枕を渡してくれて、彼は宮崎が来るまで一緒にいてくれた。次の朝、和泉さんはちゃんと覚えててくれて、俺の部屋まで迎えに来てくれた。俺は絵を描く道具を持って一緒に中庭に行って、いつものように花を見ながら全然花は描いてなくて、俺の頭に浮かんで飛んで行く色達を記録していた。宮崎が覗きに来たんで、和泉さんが、
「ここで朝飯食べさせてもいいんなら、持って来ますけど。」
って、言ってそしたら宮崎がふたり分持って来てくれて、俺は食べるのが嫌だったから食べなかった。そして彼となんの話しをしていいのかさっぱり分からなかったから、ずっと話しはしないで、俺は色を記録しながら、ダイアモンドのことを考えながら、自殺願望にふけっていた。それから昨日の続きで泣き始めて、和泉さんは俺のこと見て、
「君、やっぱり基本的にはウツなんだよな。よく泣くもんな。」
俺は初めて雅也さんとここで会ったことを思い出していた。あの時はこの中庭からなんとか外の世界へ出たい、って必死で、壁を叩いて、叩き過ぎて、手が痛くなって、手から血が出て、そんなことがあった。俺は赤の中でも一番赤い絵の具を自分の手に塗ると、その辺りの壁に手形をつけ始めた。そしてその手で俺の顔を触った。額から血を流しているみたいに見えるはず。それから筆にその同じ赤を取って、首の血管に沿って描いていった。そしたらまたこないだみたいにそのレンガがポカポカして気持ちがよかったので、そこに横になってマジで寝てしまった。掃除のおばちゃんに起こされて怒られた。なかなか落ちないじゃない、って一生懸命壁をこすっていた。すいません、ってなぜか和泉さんが謝っていた。俺は昨日から泣いてたんで、もういい加減頭が痛くなって、和泉さんの肩を借りて、俺の頭を彼の肩に置いて、そしたら和泉さんは、
「なあ。お前、俺と付き合わないか?」
俺はビックリしたけど、なんか恥ずかしいし、なんて返事していいか全然分かんなかったから、手っ取り早く、寝た振りをしていた。そこへ誰かが入って来て、俺は寝た振りしてて、その人が、
「優夜。」
って、俺を呼んで、そして今度は和泉さんに、
「寝てるんですか?この人?」
和泉さんは、
「さっきまでは泣いてたんだけどね。」
俺は片目を開けて、そしたら雅也が俺のとこに来て、手の平を開けさせて、
「なんだ、絵の具か。顔までこんなにつけて。」
そう言って俺の泣き腫らした顔を写真に撮る。雅也は、
「ちょっとそこのレンガの上で寝てみて。」
寝ている写真が一番よかったらしいから。ワザと変な顔してやったら雅也も笑い出して、
「今度、いつ外出許可下りるの?」
「当分無理。ゴメンね。」
和泉さんは、興味深そうに俺と雅也さんのことを見ている。和泉さん俺の喋ってるとこほとんど見てないし。
俺は、
「雅也さんのピアス、ナースステーションに預けてあるから。」
今度は俺は和泉さんの膝枕で目を閉じる。雅也がそれを撮る。雅也が自分のダイアモンドを取りに行っている間に、和泉さんが、
「あれが君の彼氏?」
「違いますよ。あの人写真家で俺がモデル。」
「そうか、じゃあこんなことしてもいいよな。」
って、彼は俺のことを壁を背に、自分の横に座らせて、カッコいいキスをしてくれた。片腕で俺の肩を抱いて。
和泉さんて32才なんだって。アル中の人って老けちゃうのかも知れない。どうしてこの病棟にいるの?って聞いたら、俺と同じ。ウツでヤバイ自殺願望があるんだって。俺は変に彼のことを警戒してて、どういう警戒かというと、どうせこの人また外の世界に戻ってしまえば俺のことなんて3日で忘れるだろうな、とか、あっちではあっちできっといい男が待ってるんだろうな、とか、一番嫌なのが、いつかの大学生みたいに、せっかく優しくしてくれても、さよならも言わずに勝手に退院してしまう、とか、その他色んな想像というか妄想というか、が次から次へとわいて来て、彼が側に来ても、俺はなかなかスマイルもできなかった。向こうはどう思ってるのかは知らない。あんな風にキスしてくれたりしたし、俺も彼のことを受け入れてくれてる、って思ってるのかも知れない。一番嫌なのは彼が俺より先に退院して、俺のことをすっかり忘れて、でも俺はまだここに閉じ込められて、それが一番嫌な想像で、彼は病院を出てもまた戻って来る、ってそう言ってたけど、そうはならないかも知れないし、そしたら俺と彼の接点はこの世では全くなくなってしまう。だから俺は付き合って、って言われたり、中庭でキスされたり、その時は夢みたいに嬉しかったけど、よく考えてみたら、彼のことなんにも知らなかったけど、それでも嬉しかったし。でもそのあとは、俺は滅茶苦茶警戒して、側に来ると震えるほど怖くて、あっちもそれ以上は俺に話しかけて来ようとはとはしなかった。和泉さんが俺と一緒にいるのは、宮崎が一緒の時だけになってて、食堂で、俺がどうしても食べなくて、ドクターが薬を調整したけどやっぱり食べられなくて、そしたら和泉さんが、
「なにだったら食べられるの?」
って、賢い質問をしてくれて、俺は長い間考えてて、和泉さんは、笑いながら、
「そんなに考えないとダメなんだ。」
「帝釈天のくずもち。」
和泉さんが、
「あ、それ渋いな。」
宮崎は、
「あんまり栄養なさそうだな。他にはなんかないのか?」
俺は、
「かき氷のメロン味。」
宮崎は、
「それも栄養なさそうだなあ。他には?」
それで俺が永久に黙ってしまったので、ふたりは勝手に話しを続けた。和泉さんが、
「くずもちとかき氷だろ?そこになにか共通点はないのか?」
宮崎は、
「両方甘くてあんまり栄養価が高くない。」
「あれじゃないか?子供の頃よく食べた、それがまた食べたい。子供の頃よく食べるモノで、栄養価の高いモノを捜せばいいんだ。」
「そうだ、明日優夜の家に電話して聞いてみますよ。子供の頃好きで、栄養価の高いモノ。」
「すごいですね、宮崎さん。看護師さんがそこまで面倒みてくれるなんて。」
「俺は早くコイツをここから出したいだけですよ。毎日モノ食わせるだけで大変。」
その会話を聞いて、申し訳ないな、とも思うんだけど、全く関係ない場所で、同時に壮大な焦燥感があって、どうせ死にたがってる人間にそこまでしてやるのは、偽善だ、と思う気持ちもあって、宮崎に関しては俺は本当はすごく信頼してたけど、俺の頭変な焦燥感が、それを偽善だ、と決めつけていて、俺はその時は自分でもよく分かったけど、急に落ち着きがなくなって、食堂を意味もなく見回したり、貧乏揺すりを始めたり、手首の血管を指でなぞったり、宮崎が、
「優夜。どうした?」
「俺は。」
「なんだ?」
「なにかしてもらいたいわけじゃないし。」
「どういう意味だ?」
「俺は、このままでいい。」
「よくなって、退院したくないのか?」
「俺は、このままがいい。」
俺はここで、このままで、ゆっくり死んでいく。だから俺は自分の小さい時好きだった食べ物とか、全然関係ないし、病気がよくなるとか、退院するとか、社会復帰して、幸せな生活を送るとか、そういうモノも、もういいし、動物にだって色んな寿命がある。ゾウとかは長生きしそうだけど、スズメとかきっと数年とかしか生きないと思うし、昆虫だったらもっと命は短い。だからきっと俺は長生きするようには生まれて来てないと思う。そんなバカのためになんかしてやろうなんて、俺、ってタダのウツ?だから人の好意が受け入れられないの?宮崎ってほんとに明日家に電話するの?俺のためにそこまでしてくれるバカがいるの?そこまで考えたら少しスッキリして、焦燥感も少し薄らいだ。それにこの人、和泉さん。なんで俺と付き合いたいの?入院中のセックスのため?俺はそれを考えるのが一番怖い。俺なんてどっちみち当分ここを出られないから、彼の方が去って行く。俺が捨てられる方。そう思って俺は和泉さんの方をチラって見た。見てから、見なきゃよかったって思った。きっと彼は俺が彼のことを考えてた、って思ったはず。俺は無表情で彼を見た。でも彼は俺のことを優しい目で見てくれた。俺は混乱する。俺の想像だか妄想だかでは、俺は彼に捨てられる。彼は絶対俺にはしつこくしたりしないで、見守ってくれてる。アルコール依存症の苦悩は俺は知ってるつもり。それは俺も頭がまともじゃないから。宮崎が言ってた。俺の場合、普通と逆の症状が出るって。俺は食べないでいると気持ちがいい。脳内から不思議な快感物質が分泌される。俺がもしまたアルコールを飲み始めたら、絶対死ぬまで飲み続ける。中学生で大人と仕事をして、お酒も飲んだし、飲まされたし、セックスもしたし、ヤられたし。でも楽しかった。クリエイティブな世界にいられた。いい男がひとりいて、その人に愛されて、それで幸せになれるなんていうことが実現可能なのだろうか?「もう少し一緒にいて。」って、頼んだらほんとに一緒にいてくれる人、っているのかな?「もう少し一緒にいて。」俺は人に頼って生きて行くのはやだし、でも頼ってもらいたい人もいるのかもしれない。俺は宮崎と和泉さんのために少しだけ食べる。ふたりは俺のことをジッと見ている。俺は見せもんじゃねえぞ、と思いながら食べモノを少量飲み込んでそして席を立って、残したモノを全部ゴミ箱に捨てて、でも今日はトレイは捨てないで、そして俺は自分の独房に帰って行こうとする。宮崎は俺を追い越して、サッサと仕事に戻る。和泉さんもとっくに食事は終わってるから、自分の部屋だかテレビのある部屋だかに行こうとする。俺は廊下で立ち止まって、和泉さんは俺を追い越して先へ行こうとする。俺は一瞬迷いながら、声を出す。
「あの。」
って、バカみたいに恥ずかしいくらい小さい声で。多分彼には、聞こえたか聞こえないかくらいの声。それで彼は振り返る。俺は彼の目を一瞬だけ見て、そして下を向いて、
「もう少し一緒にいて。」
なんか、あの雑誌の写真と全く同じことが起こって、俺は彼の胸に顔を寄せる。彼は俺の髪を撫でて、
「なにしたいの?テレビでも観る?」
「ううん。誰かいるとこは嫌なの。」
そしたら和泉さん、ちょっと考えて、
「俺の部屋に行くと君のこと襲っちゃうかもしれないから、君の部屋に遊びに行って、いいかな?」
わー、襲われてもいいよ、この際、って思ったけど、可愛らしく頷いて、俺達はナースステーションから丸見えの俺の部屋に行って、そこには宮崎もいて、なんか変な顔して俺達の方を見ていた。俺達は、ナース達に背を向けてベッドの上に腰を下ろした。俺は彼となに喋ったらいいのか、全然見当もつかなかったけど、今までの経験でいくと、相手がずっと年上の場合、こっちは聞き手に徹すると楽でいい。和泉さんは、
「やっと少し食べたね。」
俺は恥ずかしそうに、彼の顔をチラって見る。ここでは何も言わない。そうすると俺がなにか言うまであっちが喋らないといけない。しかし彼もなにも言わない。えっと、こういう場合は?彼の右手が俺の左手を握る。俺は彼の目を見る。そしてしばらく見詰める。彼は、
「俺のこと、関心ないと思ってた。」
って、ボソッと渋い感じで言う。俺はここでなにか言った方がいいかな、って思ったけど、なんて言っていいのか分からなかったから、
「なんて言っていいのか。」
「君、あんまり可愛いから、誰かいるんだな、って思ってたし。」
「なんか怖くて。」
「なに?俺のことが?」
俺はまた可愛く頷いて、ベッドに座ってる足を可愛くブラブラさせる。彼は笑って、
「俺のどこが怖いの?」
「だって。」
彼が俺の手をさらに強く握る。
「貴方がここを出たらもう会えないし、って。だから。」
「なに?」
「最初から好きになるのやめようって。」
「なんで急に気が変わったの?」
「さっき、一緒に食べてて、優しいんだな、って。」
「でもさ、もし君が先に退院したとして、君は俺に会いに来てくれる?」
「病院に来るのは嫌だから、早く退院してもらう。」
結局俺達は和泉さんのベッドに行って、そこは前の俺のとこみたいに男ばかりの4人部屋で、ふたりでまたベッドに座って、彼がカーテンを引いて、俺っていつも誰か好きな人できると、バカみたいに女の子になっちゃって、ドキドキして何も言えない。彼はなんにも言わずに俺を抱き締めてくれて、彼は俺にキスしたがってたけど、俺はそれは刺激が強すぎてヤバいことになるかもしれないから、それを避けるために俺は彼の胸にずっと顔を埋めて、彼は俺のことをしっかり受け止めてくれて、俺はこんな大人の暖かくて厚い胸に、力強い腕で抱かれたのが久し振りだったから、俺の狂った頭に飛んでいる色達もこの時だけ大人しくて、まだ飛んではいるけど、みんな順番に綺麗に並んで、天使の輪みたいに俺の頭のすぐ上をゆっくり回っている。明日の朝今のをまた中庭で絵にしようと思った。順番は?俺の色達は絶対に正式の順番には並ばない。正式の虹の順番。それは起こったことがない。赤の次が青、そして黄、黄緑、グレー、世の中にグレーという色があるのをすっかり忘れていた。どうして忘れてたの?そのグレーは緑色がかったグレー。雅也さんの写真の中にはたくさんグレーが出て来る。でもあの人のグレーは、白と黒の中間にどうしても必然的に現れるグレーで、特に意志を持ったグレーではない。明日の朝、俺は色んなグレーを描いてみよう。何種類のグレーを発見できるか。光も入れたいな。智志がこないだの撮影の時、俺の顔に鳥の羽で撫でるみたいにつけてくれたあのキラキラしたパウダーみたいな、あんな光。あのあと顔を洗った時、俺の手にたくさんのキラキラがついて、よく見たらそれは全部違った色の粉で、それは本当に綺麗で、あの綺麗さをパステルと絵の具だけでどうすれば表現することができるだろう、って考えてて、気が付いたら、和泉さんは俺に高校生みたいなロマンティックな、性的な意味合いは全くないみたいな、そういうキスをしてくれてて、俺はなんだか身体の力が抜けちゃって、その結果ベッドに倒れて、そして彼は今度は少し激しいキスをして、俺はまたあのキラキラの粒が、ひとつひとつ違う色をした、ああいう存在してないほど、軽い物質だけど存在してる綺麗なモノって世の中にどのくらいあるんだろう、って夢想して、あの時俺が3階のパーキングのビルで捕まえようとしたものその中のひとつだったのかな?って俺の狂った強迫思考でノンストップで考えてて、和泉さんには悪いけど、俺は集中力ないから、キスする相手にしたら最低で、だってずっと他のこと考えてるから、多分彼もそのことに気付いて、呆れてるのかもしれない。俺は突然ベッドから起き上がって、立ち上がって、
「明日の朝もまた中庭で朝ご飯食べよう!」
って、俺の狂った頭から出て来た狂ったことを口走って、それで俺は廊下を走って自分のガラスケースの中に戻った。
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また中庭まで宮崎がふたり分の朝ごはんを運んで来てくれて、俺はまずパンにバターを塗ってそれをチーズと一緒に食べて、ゆで卵を食べて、オレンジジュースを飲んで、フルーツも食べて、結局あったものを全部食べて、宮崎も見てたけど、和泉さんも呆れて見てて、宮崎が、
「あと1時間でドクターに会う時間だから忘れんなよ。」
と言い残して去って行った。
ドクターは、
「優夜さんの場合、俺も混乱するような症状が色々出て来るけど、単純に考えると、君は恋愛をしてると非常に調子がよくなる。」
俺はまた宮崎がなんか言ったな、と思ったけど別に腹は立たなくて、それより長い間ほとんど食べなかったのにあんなにいっぺんに色んなモノを食べたから気持ちが悪い。だからこれ早く終わんないかな、ってことを考えてた。ドクターが、
「自殺願望はまだあるの?」
俺はサッサと終わらせようと思った割には、つい、ほんとうのことを言ってしまう。
「自殺願望は小さい頃からあって、それは多分一生このままですよ。っていうか、普通どんな人にもあるけど、みんなが気が付いてないだけです。」
「じゃあ、今自殺しようと思ったら、どうやってやるの?」
「今、ですか?こないだ赤い絵の具を手に出して、それで壁とか顔とか首の血管とかに塗ったら、気持ちよくなった。」
「それ、聞いたな。お掃除の人に。今度やる時は、画用紙とかにやってください。で、どうすんの、これから?どうしたいの?」
「さっき、朝ごはんいっぺんに食べたら気持ち悪くなった。」
「そんなことはいいけどさ。俺は君はここに長くいてもよくなるタイプじゃないと思うんだよね。外の世界に出て、刺激を受けて、大人として成長して、恋をして。」
俺は、もしかしてここから出られる?と思って身を乗り出す。ドクターは、
「だけどね、問題はその自殺願望なんだよな。これ以上抗うつ剤は増やしたくない、っていうか、増やしても意味がない。そんなことより、俺、個人的には患者同士で付き合うの、いいと思うんだよね。そうじゃない、っていう人の方が多いの分かってるけど。ここで生活してれば出会うのは当たり前だし、似たような病気があれば共通の話題があるわけだし。それで君の調子がよくなるんなら、いいことだし。特に君にとってそれがプラスに働いているなら。幻聴、幻視はまだあるの?」
「ありますけど、やや大人しくしてます。」
「それはいつから?」
「夕べから。」
「夕べなにがあったの?」
「え、っと、それは。」
「ま、いいけど。様子みよう。俺は君のことここから出したい、って思ってるから、それだけ。」
共通の話題か。確かにこのドクターアホじゃないな。共通の話題?自殺願望?和泉さんの見てきたアルコール依存症の地獄と俺の見てきた狂った地獄は似てるんだろうか?今、外に出たら俺は何度でも死ぬまで一生懸命自殺すると思う。ドクターに希望をもらったその一瞬後に、気持ちが沈む。それは自殺願望について考えたから。俺は中庭には戻らず、でも和泉さんの存在する空間の近くにいたかったから、中庭に入るドアのすぐ側の廊下に座り込んでいた。そして自殺願望について考えていた。外に出たら?もしかして外に出られる。そうしたら?俺も酒を飲みたい。死ぬまで飲み続ける。失うものはなにもない。死ぬ前に雅也さんに電話して、俺の死んだ皮膚や骨や内臓の写真を撮ってもらう。ランチの時間になって、みんなのトレイを運んで来たカートが俺の前を通り過ぎようとする。この中庭のある部分だけ廊下が狭くなってるから、俺はどうしても立ち上がらないといけなくて、そしたら和泉さんが中庭から飛び出して来て、
「優夜。そんなとこにいたの?」
って、笑って、
「どのくらいそこにいたの?」
俺は暗く微笑んで、少し下を向く。
「ドクター、どうだった?」
和泉さんの側にいるだけで、俺の心が熱くなる。そして無意味に涙が出る。彼は俺の涙を指ではらって、全然余裕の笑顔で、
「ドクターになんか言われた?」
「俺が。」
って、俺は口ごもって、
「俺の自殺願望が。」
「自殺願望が治らないって?」
「でも、それさえなくなれば、外に出られるって。」
「なんだ。いいことじゃない。」
「でもそんなの無理だし。」
「これが俺が学んだことだけど。少しずつ失くせばいいんだ、って。」
そして彼は腕に残る長い傷跡を見せてくれた。もう消えかかって、よく見ないと分からないくらいだけど。彼は、
「これが俺のいくつの時だったかな?17とかそのくらい。もう消えただろ?だから今回は包丁は持ったけど、切らなかった、とか、ちょっとずつ忘れていけばいいんだって。そのうち切りたいと思ったけど、包丁は持たなかった、とかな。人のことは言えないな。俺にも自殺願望あるし。」
俺はビックリして、
「あるの?」
「だからここにいるんじゃない?」
俺は中庭で色を創り初めて、そして彼は看護師さんに呼ばれてどこかへ行ってしまった。俺の色。絶対本来の順番には並ばない。透明な色のことを考えていたら、雅也さんのダイアモンドのことを思い出した。雅也さん、俺の写真どうやって撮ろうか、ってまだ考えてるのかな?寝てる時だけ生きてるみたいな俺。俺が死んだ時、きっとその写真は完成する。雅也さんにメールをして、ドクターが俺の自殺願望さえなくなれば、病院出してもらえる、って言ってみようかな?でも意味ないな。だってそれが一番難しいことなんだし。でもやっぱり考え直して、俺は食べられるようになってきたから、多分もうすぐ退院できる、ってウソだけど、ウソついてるうちにほんとになったりするかもしれない。雅也さんからはすぐ返事がきて、いつも俺のことは考えてる、ってそれで今までの自分の方向性が全く変わってしまったから、他の写真も全く撮れなくなって困ってる、って。それからこの週末も智志と一緒に面会に来てくれるって。俺はどうしても和泉さんに完全に心を開けなくて、それは俺が心配ばかりしてるからで、俺の妄想としては俺と和泉さんがふたりで死ぬ。そして死んでほんとの幸福がやってくる。そんな妄想。和泉さんを見ると俺にその妄想がわいて来る。だから俺の顔が自然、険しくなる。彼はそんな俺を見て、なにを思っているのだろうか?それでも俺は時々和泉さんのベッドに行きたくなって、彼がいてもいなくても俺はそこに座っていたりする。彼は最初はひとりで自分のベッドに座ってる俺を見て、驚いて笑ったりしてたけど、そのうちふたりで布団に潜って、彼は情熱的に俺のことを抱き締めてくれたり、そんな時は俺は多少だけど生きてる感じがして、彼はどうなんだろう?って思ってた。俺は彼に聞いてみた。
「俺の写真撮ってる雅也さん。俺が存在してないって。生きてないって。それで寝てる時だけ存在して見えるって。それは寝てると地球の引力に完全に身を任せているから。」
俺は自分のモデル時代のポートフォリオを和泉さんに見せてあげたくなった。彼にあの、「もう少し一緒にいて。」っていう伝説の写真を見せて、彼はずっとゲラゲラ笑っていて、
「優夜、これがやってみたかったんだ。」
「そう。現実のこととして、実現したかったの。」
「よかったな、実現できて。あれは結構きたし。」
「そう、結構きた?じゃあまた誰かに試してみよう。」
と言ったら頭を叩かれた。それから例の俺のランウェイを見せた。全く予測してなかったけど、和泉さんもそのビデオはすごい、みたいに言う。
「どこがそんなにすごいの?雅也さんもあのビデオ観て俺に会いたいって、ここまで来てくれた。」
「あれはな、ただ可愛いんじゃない。目がなにか見えないモノを追ってる。」
それから雅也さんの今までの作品を見てもらった。そうすると、
「この人の作品は理にかなってる。ほら、光があるから影があるんだ。影があるということは光があるからだ。」
俺は、
「和泉さんってお仕事なにされてたんですか?」
「俺は車が好きで、車のディーラーで働いてて、その頃、一番酒飲んでる頃で、ベンツ燃やして首になった。でも俺、ほんとは車のデザインしたかった。」
光があるから影があるんだ。生きてるから死んでるんだ。上に飛ぶから下に落ちる。愛と憎しみ。対比できるものは世の中にゴマンとある。俺は、
「でも俺あのビデオと同じ顔をしようと思っても、もうできない。」
「そういう時は違うやり方でやる。それでも結果は同じになる。」
「あの時俺、抗うつ剤と精神安定剤飲み始めたばっかで下向くと眩暈がして、だからずっと上見てた。だからあれが最後の仕事だった。」
「優夜、双極性だろ?抗うつ剤効き過ぎてハイになってたかも。」
「あのあとすぐ入院した。長いこと。」
「あのビデオ観ると分かる。俺みたいに分かるヤツには分かる。だからその雅也さん、って人も感じてる。この顔はな、俺に言わせると、イく時の顔。脳内に快感物質があふれている。」
「でもそんな顔、カメラに向かってできませんよ。」
「だからその顔ができるように訓練する。」
「俺、プロだよ。どんな顔でもできる。」
「じゃあ、この顔もう一回やってみて。」
和泉さんは、俺の傑作、「もう少し一緒にいて。」を指差す。俺はやってみせる。彼は、
「なるほど。完璧だな。俺もこれには騙された。」
「騙された、とはなんですか?」
それからもそんな風に、和泉さんとちゃんと楽しく話せることもあれば、心配が先に立って笑顔ができなくなることもあって、ドクターの言ったように彼と俺は分かり合える部分がかなり重なってるから、だから和泉さんも俺に無理強いしないし、そのうち俺の細かい表情も見逃さないでくれるようになって、俺がほんとは彼と一緒にいたいけど、言い出せない、っていう時なんかも迷わず側に来てくれて、そういう時は俺も思いっ切り甘えてハッピーでいられることができる。和泉さんは、
「君はどんな表情もできるけど、このビデオの、この表情はできないんだ。」
「できない。どうやっていいか分からない。」
「雅也さん週末来るんだろ?少し練習してみようよ。彼がなにを求めていたのか?どうして君でなければならなかったのか?」
でもどうしてもできなくて、気持ちもだんだん沈んできて、俺は消灯時間にちゃんと自分の部屋に帰って、次の日起きたら、最悪の気分だった。食堂に行く途中で和泉さんと一緒になったけど、俺は息をするのも大変で、少しは食べてたけど彼の顔はちゃんと見られなくて、でも彼はなにも言わなくて、俺はすぐ自分のベッドに帰って、寝てはいなかったけど、静かに、あんまり動かないようにして横になっていた。時々宮崎が覗きに来たり、和泉さんが俺の部屋のガラスをノックして、俺が生きてるかどうかチェックしてたみたいな感じで、ドクターは週末だからいなくて、それから俺は落ち着かなくなって、部屋の中を歩き回ったり、って言っても狭いからそんなに歩き回れなくて、しばらくそれをグルグル回ってやってて、そして決心して和泉さんのベッドに行ったら彼はどこか知らないけどそこにはいなくて、具合悪いし疲れたし、丁度いいからそこで寝てしまった。彼のベッドは彼が今朝起きたそのままの感じで、彼の身体の形がそのまま残ってるみたいで、それはとても気持ちよくて、俺はそこで寝ていた。そしたら雅也さんと智志が見舞に来てくれて、でもみんなが俺か見付からないんで、捜したらしいんだけど、和泉さんと同室の人が俺のことを見ていて、それで看護師に起こされた。その看護師は、俺が他の人のベッドで寝ていたことに怒っていて、俺は起きてもまだ気持ちは沈んでいたからその看護師にはなにも言い返せなくて、雅也さんは、
「ここって誰のベッドなの?」
って、笑ってて、俺は悪いけど調子悪くて、って息も絶え絶えながら説明して、そしたら雅也さんは、
「いいよ。俺達は色んな優夜に会ってみたいし。」
雅也さんは大学教授らしく、双極性障害とか統合失調症とかそういう本を何冊か読んで、勉強してくれたんだって。それでこの前雅也さんがここに来てくれた時、中庭で撮ったのをパソコンのスクリーンで見せてもらった。雅也さんは、
「寝てるとこは、いつもいいんだよね。でも寝てるとこばっか撮るわけにもいかないし。」
それはあの時和泉さんの膝枕で寝てるのもあって、なんとなく彼どこに行っちゃったんだろうって考え始めて、そしたら丁度彼が部屋に戻って来て、
「なんだ、みんなでこんなとこにいるんだ。」
雅也さんが、
「どうも、こないだお会いしましたよね。ベッドお借りしちゃって。」
そしたら、智志が、
「優夜ずっとそこで寝てたらしいですよ。」
和泉さんは、笑いながら、
「俺、ずっと中庭で本読んでたから。少し焼けてワイルドになった方がモテるかな、って思って。」
そしたら俺、バカみたいに感情の山が堰を切ったように崩れてきて、和泉さんに抱き付いてバカみたいに声を上げて泣いてしまった。智志が、
「優夜。ほんとに具合悪いんだね。」
俺はしばらく泣いてたんだけど、疲れたからもう泣くの止めようと思って、ベッドに座ってしばらく落ち付こうと思って、息を吸ってたら結構ちゃんと落ち着けて、よかった、って思って、そしたら和泉さんが、まるで子供をあやすように、俺の涙を拭いてくれながら、
「もっと泣きたかったら泣いてもいいぞ。俺一緒にいてやるし。」
俺はせっかく雅也さんと智志も来てることだし、
「もう大丈夫。もう泣かない。」
って、言った途端にまた泣けてきて、和泉さんはずっと側にいて俺の頭を撫ででくれた。智志が、
「優夜にいつの間にこんな素敵な方が。」
そしたら、和泉さんが、
「アレをやられたんですよ。なんだっけ?もう少し一緒にいて、っていうヤツ。」
そしたら智志がゲラゲラ笑い出して、雅也さんも笑ってて、智志が、
「上手く成功したんだ。」
それで俺の気持ちも少し盛り返してきて、ちょっとずつ口もきけるようになって、みんなで中庭に出て、泣いたあとだったから、目が赤くなってて、さっきも言われたけど、雅也さん、色んな俺も撮ってみたい、っていうから、今日は全然スマイルはできなかったけど、色んなポーズはやってあげた。それで撮ったのを見ながら、今度は雅也さんと智志と俺と和泉さんの4人で討議を始めて、雅也さんは、
「まだお人形みたいになってるね。」
和泉さんが、
「泣いたあとだから。疲れてたし。」
俺が、
「俺ってやっぱりまだ存在してない。」
智志が、
「上だけ脱いでくれない?」
それで俺が脱いで、智志がこないだ使ったキラキラ色んな色の入ったパウダーを、惜しげもなく顔にも身体にもはたいてくれて、それでスイッチが入って、その瞬間からなぜか俺のプロ意識が雲間から顔を覗かせ、雅也さんの欲しがってた表情はあるけど、感情はない、っていうのをやってみて、それはいい線いってる、って雅也さんに褒められて、休憩している時に、和泉さんが、
「あのビデオ撮った時、優夜なに飲んでたの?」
「リチウム。」
「リチウムくらいでそんなひどい眩暈するんだ。」
「俺の場合は副作用の出方が普通の人と違うの。」
「そうだよな。セロクエル飲んで激やせしたって言ってたもんな。それにエフェクサーを飲んで胸が痛くて息ができないほどだった、って言ってたな。そんな副作用聞いたことないもんな。俺は医者じゃないけど、それだけ強い副作用が出るということは、優夜は薬に敏感。よく言えば薬がよく効く。なに飲んでも効かないヤツいるからな。」
智志が、
「じゃあ、優夜の病気、よくなるの?」
和泉さんが、
「薬がちゃんと効いてればよくなる。」
で、俺が急に思い出して、
「そういえば、宮崎が俺の自殺願望はハイの時に出るって。普通と反対に。じゃあ、あの時。」
そこまで言って、俺はまたしばし考える。そんなことってあり得る?
「じゃあ、あのビデオの時、俺ハイで、自殺願望があった。それがあの顔?」
和泉さんが、
「君、ハイだったんだろ?だからそれを抑えるために、精神安定剤のリチウムを出されたんだろう?でもまだ飲み始めで副作用も出てて、眩暈がして、だけどあの時まだハイの状態で、君には自殺願望があったんだよ。」
俺が、
「そうだ。今、思い出した。あの頃俺には強い自殺願望があって、それで長い間入院してた。その時は違うドクターで、俺に抗うつ剤飲ませて、余計ハイになってもっと自殺願望がひどくなった。幻覚や幻聴が出てやっとドクターも俺がウツ病じゃなくて、双極性障害だって気付いて。」
雅也が、
「じゃあ、あのビデオで優夜の見てたモノは?」
智志が、
「死?」
雅也が、
「あんなに誰よりも可愛くて、幸せそうにスマイルして、綺麗に歩いてポーズとって。」
智志が、泣き出して、
「それで死ぬこと考えてたの?」
あのファッションショーの記憶はそんなになくて、具合も悪かったし、あんまりやったことのないブランドで、スタッフの人達の印象もそんなに強くなかったし、俺が着て歩いてた服、メンズにしては薄手のシルクで上下あるスーツで、色はほとんど白に近い水色みたいな色。少しくすんでて、綺麗な色だった。ネクタイじゃなくて、長いスカーフを首元に蝶結びにして、全部が軽い素材で、俺も軽やかに歩こうとしてた。春夏のショーだったから、全体がパステルで、俺の頭の中に綺麗なパステルカラーが縦横無尽に飛び回ってて、これが俺の幻覚。俺の目がその色達を追って、空の方向に飛んで、それで俺も今すぐそっちに行くからって。3年前のこと、思い出した。どうしてかと言うと、それまでそんな経験したことがなかったから、覚えていた。幻覚、それに続く幻聴。俺があの3階しかないけどあのパーキングのビルに登った時もあの色達が飛んでいた。俺はとてもハッピーであんまりハッピーだから、その色達のあとを追って、俺も飛び上がろうとした。宇宙の回る音がして、俺を呼んでいた。そして白い色、黒い色、色んな種類のグレー、光と影、透き通った色のない色。心の中だけに存在するダイアモンドの色。そのあとを追って、俺はこんなところに来てしまった。俺はいつ置いてけぼりにされたの?俺はまだここにいる。地上の病院の精神科の退院する当てのない。俺の色鉛筆。ちゃんと削って先を尖らせて、俺はそうやって色鉛筆を使うのが好きで、もっと太い線は、パステルを使う。そしてバックは絵の具を薄めて塗る。俺の死が不幸でないということを説明してもきっと、人は分かってくれない。だから俺が死んだ時は葬式には、結婚式よりももっともっと綺麗な色の花をたくさん飾って。この壁のどこかに出口がある。こないだは最後まで捜せなかったけど、きっとある。今度はこないだ叩かなかった方から叩いてみよう。壁に耳を当てて、そして少しずつ場所を移動して、少しでも違う音のする所を捜す。
この中庭の壁の一部が太陽の陰になっている。もしかしたらそっちの方に秘密の壁があるのかもしれない。だからその影は不思議にも俺にそのドアの場所を示してくれている。俺の自殺願望は不幸なモノではないけれど、それでもそれは十分注意して失敗しないように、それは気を付けなければいけない。壁に太陽の影が落ちて、でもそこの辺りも叩いて耳で聞いてみたけど、やっぱりどこにもドアがない。結婚式の花が見たい。どんな花?意外とシンプルなのかも知れない。俺だったらバカみたいにカラフルで、天井からもたくさん花を吊るしてその下で結婚式をする。何年か前、ディオールのショーでやってたみたいなの。俺は涙もろいからきっと涙を流して、恥ずかしい思いをする。涙がほんとに出て来た。でも俺のこの涙は悲しい涙じゃないよ。結婚式の花のことを考えてて、それがなんて綺麗なんだろうって、そう思って泣いている。
和泉さんが、俺の顔を見て、
「優夜、なんで泣いてるの?」
俺はバカだからほんとのことを言う。
「俺は自分の結婚式には色んな色の花をたくさん飾って、天井からもたくさん吊るして、そしてその下で結婚式をしたらどんなに綺麗だろう、って。」
和泉さんは、
「それは君の幸せな願望なの?」
「そうじゃない。だって、そんこと起こるわけないし、俺はその綺麗な花の色を見るだけで満足して、そしたらもうそれでいいの。」
「それでいい、って、それからどうするの?」
「もうそれでいいから、俺はその花の中で死ぬ。だからその花はほんとは俺の結婚式じゃなくてお葬式の花だった。」
「それが君の自殺願望なんだよ。ハッピーだから死にたい。至上の幸福と絶望。」
「そうじゃない。絶望なんてない。だって俺は幸せの最中に死ぬんだから。死ぬっていうより、あっち側へ飛ぶの。もうひとつあるあっちの世界に。」
智志が、
「そんなことあるわけない。なんかがおかしい!」
雅也はずっと俺の写真を撮り続けていて、
「さっき優夜があのショーのビデオを同じ顔したの見た。ちゃんと写真に撮った。」
俺はさっき泣いていたのと、太陽が眩し過ぎたのが合わさって目が痛くて、中庭から出て病院に入った。頭の中も疲れているのに、色んなバカバカしい思考がグルグル回って止まらない。自分の部屋に行って、ベッドの下に潜りこんだ。シーツを上からかけて、死んだ人みたいに顔も覆った。こんな風に俺は死ぬ。結婚式の花に囲まれて。幸せな死。これでやっと俺はいつも頭の中を飛んでいる色達と一緒になれる。そして宇宙を回る氷の欠片とも一緒になれる。この部屋は首を吊れるようなものが天井になくて、色鉛筆もないし、和泉さんが使ったみたいな鋭いナイフもない。頭の中をいくつもの花が駆けて行く。なにをそんなに急いでいるの?俺は声をかける。あ、また綺麗な色の花が駆けて行く。捕まえたいけど、速過ぎて追い付けない。また、違う色が、また、どんどん色味を増して、転がって行く。どうして?俺を置いて行かないで!花や色は俺の部屋を抜けて、ナースステーションを飛び越えて、外へ出るドアの隙間から上手にすり抜けて、外に出て行ってしまう。俺はドアを蹴る。俺を置いて行かないで。ドアに体当たりをする。そしたらドアが向こうから開く。誰かが丁度入って来たんだ。俺はなにも考えないで、その人のことも見ないで走る。速く、速く、速く、走る。俺はなにを捜してる?結婚式の花達。カラフルな、ハッピーな花達。病院の花屋は俺は好きじゃない。もっと激しい色が欲しい。香りのとても強い。バラみたいに花びらのたくさんある花を散らして、床にまいてその上を歩く。結婚式だからね。たくさんの花を見て、そして確実に死にたい。飛び上がれる所。それってどこ?高さは関係ない。だって飛び下りるわけじゃないから。羽。羽がいるよね。智志の羽、俺の身体にパウダーを付ける時に使ったあの羽。俺の身体を見たら、まだたくさんあの100色もありそうな色んな色のパウダーが付いている。俺は途端にハッピーな気持ちになる。俺は実は多少の金も持ってるし、服もちゃんと着ているし、靴はスリッパだからちょっと変なんだけど、見かけとしては、狂人が病院を脱走したようには見えない。これから死ぬに当たって、思い残すことはないけど、家族には悪い事をする、って反省はする。いい家族だった。なにも言うことはない。雅也さんが今日の俺のいい写真が撮れてたらいいな。可愛い智志、幸せになって。でも智志はきっと幸せになれる。和泉さんのことを考えると泣くからやめておく。宮崎にもありがとう。なんか遺書とか書いた方がいいのかな?みんなどうもありがとう。何文字?11文字。簡単な遺書だな。でもペンと紙がないと。あそこに交番があるからあそこで借りようかな、なんてそこまでバカじゃありません。薬を持って出る余裕はなかった。2週間くらいは飲まなくても大丈夫って聞いたことある。まあ、モノにもよると思うけど。もし俺に体力があったら、今したいことは、走りたい。目的地はないけど、速い速度で空間を移動してみたい。走れないけど、とにかく歩く。もう病院からは大分遠くへ来た。生の最後の瞬間に俺はやっと自由になれた。ここでは色鉛筆を取り上げられることもないし。ガラスの部屋に閉じ込められることもないし。あのドクターいいドクターだった。もし紙と鉛筆が見付かったら、あのドクターにもありがとうを言わないと。ゴメンね。やっぱり俺の自殺願望、どうにもならなかったね。でもそれはドクターのせいじゃない。俺の狂った頭のせい。大きなデパートに入る。それは表から宝石売り場が見えたから。安い靴買った方がいいかな?スリッパだと狂人っぽい。俺はダイアモンドのピアスを見て回る。なんだかあんまり感想はない。過ぎてしまったことだから?デパートを出て、安い布製の靴を買う。遊園地に行くのはどうかな、って突然思い付く。あれなら上昇している間に飛び上がれる。人騒がせかな?自殺なんていずれにしろ人騒がせだよな。あ、花屋がある。高級そうな花屋。この花屋に今ある花全部をもし買えたらの話しだけど、買って公園の芝生の上に並べて、そこで服毒自殺?あんまりいい自殺のアイディアがないな。あんなに毎日考えてたのに。もし病院を出たらああしようとか、こうしようとか。いざ出たらこんなもんなんだな。この先に超高級ホテルがあるんだけど、今日なんか週末だし、絶対結婚式やってる。結婚式って覗いてもいいもんなのかな?とりあえず行ってみよう。俺の今日のスタイル。なんかややゲイテイストが入ってるけど、まあ、そう悪くはない。きちんとしたカッコはしている。では、ホテルに入ってみます。なんかこのホテルのユニフォーム大袈裟だな。宴会場は?ひとつ目。意外と小さいパーティー。ごく内輪って感じ。でも花は綺麗だな。俺の好きなパステルな感じ。ふたつ目。大きいパーティーみんなすっかり酔払ってる。ハッピーでいいけど。花は、白い。あんまり白いとお葬式みたい。どうせ俺の場合、結婚式のあとお葬式になるからいいんだけど。3つ目はもう終わってる。早いな。ランチの結婚式?式が終わったら花はどうなるんだろう?なんかちょこちょこテーブルの上に残ってたりするけど、俺の好きな花がなかったし、黙って持って来ていいのかどうか分かんなかったから、持って来なかった。結婚式か。みんなどうぞお幸せに。俺の結婚式ドリーム。でも相手って一体誰なの?そこまで考えてなかった。俺ってバカだよな。20才の男にしては、考えることが幼稚で。いつか幸せなゲイの結婚ができると信じてたなんて。だめだ、そういうことを考えてると泣きたくなってくる。考えないようにしようと思ってから大分経つんだけど、やっぱり和泉さんのことを考えてしまう。ひとつ目の妄想は、ふたりで死ぬほど酒を飲んで、上手いこと同時に死ぬ。ふたつ目は考えたら泣けるけど、デコレーションケーキみたいな幸せな結婚をして、ラブラブな人生を満喫する。絶対あり得ない。俺の自殺願望は絶対やまない。どんなにいい薬が発明されても、俺の生きているうちには無理。マジで泣けてきたので、ホテルのトイレにこもる。和泉さんっていい男だったな。今までの俺のアホみたいな男遍歴の中では上等だった。ファッション界の男なんて最低だった。できたら俺が彼を思いっ切り幸せにしてあげたかった。ふたりでお互いの顔見てるだけで幸せ、なんていうバカな幸せの空想をしてしまった。俺達あんまりちゃんとセックスもしてなかったし、もしまた会えたら今度はいっぱいセックスして、彼に思いっ切り気持ちいいことしてあげよう。最後に和泉さんと話したいな。ちゃんと謝って、いい人を見付けて幸せになってください。俺に付き合ってって言ってくれた時ほんとに嬉しかった。あの人にちゃんと好きだった、ありがとうって言わないうちは死ねない気分。それからゴメンね、ってなん回言っても言いきれないけど、なん回もゴメンね、って言いたい。えっと、電話はどこ?あんまりうるさいとこでかけるのが嫌だったからホテル内からかけた。最初バカなヤツが、今もう時間外だから電話の取次ぎはできません、って言うから、優夜です。和泉さんと話したい、って言ったら、看護師が出て、今どこにいるんだ?とか聞くから、俺は和泉さんとしか話さない、って頑固に言い張ったら彼を呼んでくれた。彼が出て、俺は最初から号泣してて、号泣と号泣の合間に、ゴメンね、って多分10回は言って、それで電話を切ろうとしたら、優夜、黙って聞けって、それでもし君が無事で帰って来たら、俺はどれだけでも努力して自分の病気を治して、酒も止めるし自殺も止めるし、ベンツも燃やさないし、いい仕事を探して、君と幸せになりたい、そこで俺がまた、ゴメンね、って言って切ろうとしたら、また黙って聞けって言って、それで俺は君とお花いっぱいの結婚式をして天井からも花をいっぱい吊るして、そうして幸せになろう。だから帰って来て。そう言われた。そこで俺はたまらなくなって電話を切ってしまった。俺はあんなにいい男を不幸にしてしまった。俺はあんまり泣いてたから今度はホテルの2階のトイレにこもってしばらく泣いてて、でもあんまりここにいるのも変だと思われるし、って思ったからなんとかして泣きやもうとしたけど上手くいかなくて、まあもっと外が暗くなれば、多少俺が泣いてようと人もあんまり見ないだろうし、って考えて、ホテルの外に出たら意外と人がたくさんいて、俺は裏通りを選んで歩いて色んなビルやマンションを見ながら歩いて、どうすれば俺を何年も悩ませている自殺願望とおさらばできるのか色々考えながら歩いてて、そしたらこの不景気にもかかわらず、俺も知らなかったくらいの新しいファッションビルができてて、俺はまだ少し泣きながらもエスカレーターで上の階へ上がって、そのビル、3階にテラスがあって、死にたい人はどうぞ飛んでくださいみたいな、そんな作りになってて、俺はこんなヤバいビル誰が建てたんだろう、って思いつつ、3階なら十分俺は旅立つことができるな、って思っていた。そのテラスは暗くなってもちゃんと明るいライトがついていて、俺も一番端っこの飛べそうな所のテーブルに座ってたら、ウェイターが注文を取りに来て、特に食べたいモノもなかったけど、適当に頼んで、そのテーブルからずっと下の方を見ていた。そこはやっぱりそこまでバカにはできてなくて、下には植え込みがあったり、よく見えないけど、網がはってあるような風に見える。地球の引力には勝てない。羽のない俺はやっぱり下に落ちて、網に引っかかる。自殺願望って、脳内物質のイタズラで、本当ではない、って何度も何度も聞かされたし、だから薬でも治るし、カウンセリングでもよくなるし、なんだりかんだり色々言われたけど、俺にしてみればこのふつふつとわいて来る自殺願望は、命を終わらせない限り、それとケリをつけることができない。ドクターが言ってた。自殺願望さえなくなれば、俺は退院できるって。ということは、どういうことかというと、俺は一生病院を出られない。病院のことを考えていたら、また和泉さんのことを思い出してしまった。あの人の胸に飛び込んでそして思いっ切り泣けたらいいな、って思ったらマジで泣けてきて、せっかく大分泣きやんだのに。さっきのウエイターが来て、なんだろう?って思ったら、大丈夫ですか?って聞いてくれて。俺はありがとう。失恋して。ってまあほんとだし。そう言ったら。彼もなにも言わずに行ってしまった。世の中には親切な人がいるな。俺には無理だな。誰が泣いてようが、知ったこっちゃないから。宮崎とか、ほんとに偉いよな、俺には絶対あんな仕事できない。宮崎は本当に俺の家に電話して、俺が子供の頃好きで、結構栄養価の高いモノはなんだ、って聞いてくれて、それはかつ丼だ、って言ってたって。宮崎は近所のかつ丼やってるとこに出前を頼んでくれて、さすがに俺も申し訳ないと思ったから、ひとつの丼を丸一日かけてゆっくり食べた。やっと泣いてたのもおさまってきたから、そこを出ようとしたら、さっきの親切なウェイターが、失恋なんて、3日で忘れますよ、って言ってくれた。3日か。俺、3日もこの都会を徘徊できるだろうか?3日経ったらどうすんの?失恋のことは忘れるにしても。そのファッションビルになんと画材屋さんがあって、俺は安いヤツで、あんまり色数もなかったけど、色鉛筆を買った。それはすごく嬉しかった。その辺で紙を調達して、鋭く尖った先で色を出してみた。やっぱりこのくらい細いものじゃないと表せないモノってあるな。俺は別に計画もなかったけど、適当にグレーで幾何学模様みたいなのを描いて、それはなんとなく服のテキスタイルみたいになった。それからどんどん色んな色を使って、そしたらそれが花になって、辺りを飛び始めた。色んな形の色んな色の花。さっきの高級ホテルで見た、いい感じのパステル色の花々。華やかで可愛らしかった。花嫁さんは見なかったけど、今考えたら見ておけばよかった。それで俺は花をたくさん描いて、色鉛筆だと、小さい空間にたくさんの花を描くことができる。上から吊る下がっている花。その下にいる俺と、誰?恥ずかしいけど、和泉さん。俺と和泉さんの結婚式。お花がいっぱい。また彼と話したいけど、もう大分夜も遅いから無理かな?でもまだこのビルもやってるし、消灯時間にはなってないはず。電話したいな。でもなんで?なんて言うの?ゴメン、はもう10回くらい言った。ゴメン、ってなにがゴメン、なの?宮崎が言ってたな。人に嫌なことをすると、自分に返って来る。もし俺が和泉さんの立場で、頭狂った20才の男にうっかり付き合って、って言ってしまったけど、そこまで頭変だと思ってなくて、ヤバいなって思ってたら、病院を脱走して、それで死なれても、後味悪いし、みたいなそんな感じ?今、電話しないとまた朝まで待たないといけないから、そのファッションビルの中からかけた。今度はいきなり和泉さんが出て、俺はちょっとビックリして、電話の側で待っててくれたのかな、って嬉しいよりも申し訳なく思って、またゴメンね、って言ってしまった。そしたらいいよ、電話してくれて嬉しいよ、って言ってくれて、俺も声が聞けて嬉しかった、って半分言ったところに、ビルの放送が流れて、閉店のお時間です。本日もxxにお越しいただき誠にありがとうございました。って言ってる。俺は最初気付かなかったけど、それって思いっ切りヤバいじゃん、絶対聞かれた、と思って、早口で、もう電話しない、ゴメンね。って俺の人生最後のゴメンね、を言って電話を切った。そこを走って出て、一番近い電車を捜したらそれは地下鉄で、俺は一番最初に来たヤツに乗った。あんまりバカみたいに人のいる繁華街には行きたくなかったし、あんまり人のいない寂しいところにも行きたくなかったから、昔よく言った俺のモデルエージェンシーのある表参道辺りに行こうとした。お店が閉まる時間になるとあの街は急に夜になって静かになる。この街は若い子達が多いから、みんな買い物帰りで、手にそれぞれの買い物の袋を下げて嬉しそう。俺もかつてはあの雑踏の中のひとりだった。ファッションモデルだって、チヤホヤされてた時期もあって、雑誌の専属やってた頃が一番知名度あって、ファッション業界のパーティーとかにも散々行って。って想い出にふけっていると、どっかのチャラいバカが俺に声をかけてきた。すいません、貴方どこかのエージェンシーと契約なさってます?って聞くから、俺んとこの業界大手の名前を出したら、その男、俺去年までそこで働いてたけど、貴方のことは知らない、ようなことをほざくから、俺はもう積極的には表に出てないけど、まだ契約は残ってるって、勝木さんが言ってたし、仕事もまだしてますよ、って社長の名前とか出したら信用してくれた。契約、ってあと何年残ってるんですか?って聞くから、俺はそういうことは知らない、って言ってやったらそれでもついて来て、身長なんcm?って聞くから、それ教えたらなにくれるんですか?って機嫌悪く聞いてやった。そしたら、いいです、大体分かるし、って。ソイツが、俺まだ勝木さんのとことビジネスの関係はあるから、貴方のことうちでプロモートしてもいいか、って聞きたいから、名前だけ教えてくれ、ってうるさくて、でもここまで商売熱心なのも偉いな、って思ったから、基本的にはチャラいだけで、ソイツ頭は悪そうじゃなかったし、でも俺もう死ぬことに決めてるし、そんなことしても全然意味ないよな、って思って、そしたらそんなことより、
「俺、最後にメジャーな仕事したの3年も前で、17才の時で、俺もういい年で、勝木さんのところのカタログにも名前も出てないし、なんでそんなのに、声かけるんですか?」
って、聞いてみた。そしたら、
「若く見えますね。」
って、驚いて、
「16、7かと思った。」
って、言うから俺、笑って、
「それは大袈裟でしょ。」
って、そしたら、
「そんなことないです。」
って、マジで言うんで、
「ここ暗いからじゃない?」
「じゃ、もう少し明るい所へ行きましょう。いいですね。」
いいですね、ってやっぱりこういう仕事、多少強引じゃないとダメなんだな、って感心して、その辺に表参道の俺が大好きでよく行ってたカフェがあって、そこは照明も明るくて丁度いいし、俺は、
「あそこのカフェ俺、好きだからあそこでなんか奢ってくれたら、話し聞いてもいいかも。」
それで俺達そこに入って、その店はいつも明るい雰囲気があって、俺の子供の時から、どころか親の若い時からあるらしくて、俺はそこに入るだけで、家族とここへ来た想い出がわって、よみがえってきた。そしてなんとなく涙ぐむ。その強引なスカウトの男の名前は、森詩で、席に座るととたんに勝木さんに電話を始めて、そして切って、
「優夜さんとの契約はあと2年です、って。本人の意向と話し合いによっては、うちに渡してもいい、ってことですけど。あれ、なんで泣いてるんですか?泣いてるんですよね?」
俺はそんなに泣いてる人間を見るのが珍しいのか、ってちょっとムっときて、黙って泣いてて、そしたら森詩が、
「なにがあったんですか?」
って、マジで俺がなんらかの返答をしないといけないような勢いで言うから、しょうがなくて、
「昔、ここ家族とよく来て。」
「そのあとご家族になにか?失礼ですけど。」
「いや、別にみんな元気にしてますけど。」
「よかった。」
って、ほんとによかった、っぽく言ってくれて、俺が、
「あと、さっき失恋して。」
「へー。」
って、いうその、へー、が長い、へー、でその間色々想像してるみたいで、
あっちがそうやって想像してる間に、俺また和泉さんと最後に喋って、もう電話しない、って言ったりなんだりを思い出して、マジで泣けてきて、森詩は、
「今時、失恋くらいでそんなに泣ける人いるんだー。」
って、その、だー、も意外と長い、だー、で、またきっとそこで考えてるんだな、って思ってたら、いきなり、
「俺、今彼氏いませんよ。」
って、唐突にそう言って、でも唐突だったのはそのひと言だけで、それからすぐ、本題に入った。森詩は、
「優夜さん、俺だったら今、頭の中に3つ以上はできそうな仕事ありますよ。」
「死人とか幽霊の役は嫌ですよ。」
森詩は真面目な顔で、
「うちはほとんどファッションか広告です。」
そうしたら、雅也とか智志とかとやった撮影のことを思い出して、また泣けてきて、そしたら森詩は、
「失恋は3日で忘れるそうですよ。貴方を振るようなヤツ、大したヤツじゃないですよ。」
って、言われたら和泉さんのことも全開で思い出して、花いっぱいの結婚式のことも思い出して、もうそう簡単には泣きやまない種類の泣き方になってしまって、森詩は、
「もう、こうなったら話し聞きますから、なにがあったか教えてください。」
さすがに近いとこにいる客は、俺達の方を振り向いて、俺はまだ泣きながら、
「すごく好きな人がいて。」
「はい。」
「カラフルな花でいっぱいにした結婚式しようね、って。」
「はい。」
「それで天井からもたくさん花を吊り下げて。」
「はい。」
「その下で結婚式するの。」
「はい?それで?」
「え?それだけですけど。」
「失恋なんでしょ?」
「そうですけど。」
「それのなにが失恋なんですか?」
「それを言及すると長いですけど。」
「いいですよ。そんなに泣いてちゃ、どっちみち話しにもなにもなりませんから。」
「どこまででしたっけ?」
「結婚式をする、って話しですよ。なんか、花の下で。」
「そうそう、それが俺の夢だったんですけど。」
新たな涙が頬をつたう。森詩は、
「その彼に振られた?」
「って、言うか、俺がそんな幸せが起こるわけないから、そこで俺が命を絶って、その花は俺の葬式の花になる。」
「じゃあ、全然失恋じゃないじゃない。」
「立派に失恋ですよ。だって、恋が成就しなかったんだから。」
「じゃ、彼はなんて言ってるんですか?」
「さっき電話したんですけど。」
「なんて言われたの?」
「なんかね、よく覚えてない。花の下で結婚式をして、ふたりで幸せになればいいじゃないか、って言ってた。ような。気がした。」
「じゃあ、自分の方から振ってるんじゃないですか?」
「そう?そんなつもりはないけど。」
「問題は、命を絶って、結婚式が葬式になる、っていう部分ですよね。」
「まあね。でもその部分は、俺にはどうにもならないから。」
「じゃあ、今はその部分はおいといて、これから優夜さんはどうしたいんですか?」
「さあ?」
まあ、さあ?だけ言っとくのも、こんだけ俺の下らない結婚式話しまで聞いてくれた人に悪いと思ったんで、俺のエージェンシーにも保存してない、俺のポートフォリオを見せてあげて、例の動画も見せてあげた。そうしたら、また彼もあのランウェイのビデオに反応して、
「これいい!顔もいいけど、身体が服の中で踊っている。色も。歩いてると色が混じりあう。」
「俺ね、みんなこれいい、って言うんで再現しようと今、チーム組んでやってるんだけど、上手くいかない。」
「そんなプロジェクトがあるんですか?」
「それはファッションじゃなくて、もっと芸術写真。でもそれももう解散したんですけどね。」
「どうしてですか?」
「よく分かんないけど、上手くいったらしいですよ。最終的に。俺はまだできたの見てないんですけど。あ、もしかしたらメールが来てるかも。」
俺がメールをチェックしたら、大丈夫か?どこにいるんだ?早く帰って来い!みたいなのが、ドッと出て来て、
森詩さんは、
「どうしたんですか?これらのモノは?」
「俺、家出して来たんで。今住所不定。」
「なんで家出なんか?」
「よく覚えてないんだけど、多分ね俺まだ頭が16、7なんじゃないかな?人に心配させたい、とか。」
「このメール、全然開けてないじゃないですか?見た方がいいんじゃない?」
「そう?」
上から順番に読んでみた。どこにいるか言ってくれれば迎えに行く、とか、近くの交番か病院に駆け込めば悪いようにはしないし、すぐ迎えに行くし、とか、俺の家族にも連絡取って、みんな心配してる、とか、まあありきたりなメールで、つまんないな、って思ってたら、森詩は、
「あれ、なんで今この人のだけ飛ばしたんですか?」
「ああ、あれが俺の失恋の相手。」
「だから自分が振ったんでしょ。可愛そうに。読んであげれば?」
「俺もうずっと何時間も泣いてたから、頭痛くなってきたから読みたくない。」
「もう。じゃあ、俺読みますからね。いいですね。これついさっき来たヤツだな。30分くらい前。ええと、優夜、俺が君のことを始めて見た時、こんな可愛い子が世の中にいるんだな、って感動した。何度も諦めながら君に近付いて、少しずつ俺のこと受け入れてくれて、俺は最高に幸せだった。もし君が無事に帰って来てくれたら、俺はもうなにもいらない。君と一緒に幸せになる事だけを考える。」
俺はまた頭痛いな、って思いながら号泣状態で、見たら森詩さんまで泣いてて、
「この人可哀そうですよ。優夜さんもこの人のことまだ好きなんでしょう?」
「でも俺もうこの人に電話で10回以上謝ったし。」
「でもなんでこの人達、こんなに必死に貴方のこと捜してるんですか?20過ぎた大人を?警察に駆け込めとか。」
「ああ、それは俺が病院脱走して来たから。」
「へー、ってヤバいじゃないですか、それって。」
「まあね。あそこじゃ自殺もできないし。色鉛筆まで取り上げられて。先が尖ってるからダメだって。バカみたいでしょ?それでさっき色鉛筆買って、これ描いたんだけど、どうですか?いい感じでしょ?俺の結婚式の花。葬式かもしれないけど。」
「そんなノンキなこと言って、この人、えっと、和泉さん、可哀そうですって。」
「でもね、彼は俺が死んでも分かってくれる。だって彼にも自殺願望があるから。そういえば、和泉さん、自殺願望は一度には治らない。少しずつ治すんだって。じゃあ、俺、もう行かないと。ごちそう様。楽しかった。」
「優夜さん、俺達大事な話しなんにもしてませんよ。話し始めてもいませんよ。」
「なに?大事な話しって?」
「優夜さんこれからどうするんですか?」
「さあ?あんまりお金持ってないし。今、頭痛いからあんまり考えられない、ゴメンね。」
「病院か警察に行くんですか?」
「あ、それは考えてない。」
「この和泉さんっていう人にもう一回電話してくださいよ。俺のケータイ使っていいから。少なくとも自分は無事だから、くらいは。」
「病院の電話の取次ぎは、確か9時までだから。」
「30分くらい前にメールくれてるんだから、まだそこら辺にいるでしょう。」
俺もさすがにさっきのメールの内容の深刻さが、気になったりはしたので、不安だったけど電話してみた。
「優夜。」
「メール見た。」
「無事なの?」
「大丈夫。」
「いつ帰って来るの?」
「それは分からない。」
「どうしたら帰って来てくれるの?」
「俺はもう疲れたの、死にたいって思いながら生きてるのが。」
「それは俺にもよく分かるし。」
「自殺願望って、どんどん溜まっていくでしょう?そうすると荷物の量がどんどん増えて、持って歩ける量を越えて行く。」
「だからその荷物をまた少しづつ降ろしていけばいいんだって。」
「俺ね、和泉さんのことは、本当に好きだった。最後にもう一度会いたいけどもう無理。」
そしたら森詩さんが、いきなりケータイをひったくって、
「俺、コイツのモデルエージェントで、どうすればいいですか?はい。はい。分かりました。」
それから俺に、
「押さえつけて絶対離さないで救急車呼べって。」
俺は体力がない割には暴れて、泣いて、叫んで、そしたら救急車より先に警官が走って来て、俺を店の外に出して、そしたら俺の新しい色鉛筆とそれで描いた花の絵を店の中に置いて来たのに気付いて、森詩さんに取って来てもらって、少しだけ落ち着いて、大人しく歩道に座ってる振りをして、道路を走ってる車の前に飛び込んだけど、車のブレーキの方が早くて、すぐ起き上がって対向車線に入って、そしたら丁度走って来たのが救急車で、この辺はずっと俺の遊び場だったから、色んな裏道を知ってて、警官や救急車の人に絶対見付からない方法で逃げて、大分歩いて電車に乗って、また違う街で降りた。その時はもう泣いてなくて、頭の中は暗い決意で満ちていて、この街道は首都圏の中でも大型トラックが走るので有名な所で、俺、昔、テレビで変な映画観たんだよな。母親が好きな昔の映画で、確かモノクロの主役がビビアン・リーで、彼女がバレリーナで、それで最後に大きなトラックの前に身を投げて死ぬんだけど、あれって重たいトラックに踏み潰されるから死ねるの?それとも前の部分に頭とか打つから死ねるの?でもそのトラック、そんなにスピードが出てなかった。そこまで映ってないから分からないんだけど。俺はそんなことを考えながら、ガードレールに座ってて、座ってるって言っても、通報はされないように、歩道側に座って、道路の方は時々チラって見る程度。その時多分夜中くらい。人間には耐えられる範囲、っていうのがあって、それを越えると生きていけない。俺はまだ手に色鉛筆と、それで描いた花の絵を持っている。どこか明るくて静かな所でその絵を仕上げて、病院の和泉さん宛てに送ってあげたいな。裏にまたごめんなさい、って書いて。そのごめんなさいはなに色で書く?ピンク?多分。俺の買った色鉛筆、金とか銀とかまでは入ってなくて、本当は銀とかでごめんなさいを書きたいんだけど、それはできない。銀という色はどうやって作るの?三原色では作れないの?大学教授に聞いても、またその色は心の中だけに存在する、って言われそうだな。でも、ピンクと銀の関係ってなんなの?どうして銀の代わりがピンクになるの?よくアンティークなティーカップとかにあるじゃない。銀の模様にピンクのバラが描いてある。とても可愛い。銀とピンク。ティーカップの中にも花びらが散らしてあったりする。ハラハラってカップの中に落ちて行ったみたいに。もし今度入院するんなら、違う病院に入院したい。そうしたらもう俺のこと気にしたりするヤツもいなくなるだろうし、俺も普通の狂人として人生をまっとうできる。もう男が寄って来ても相手にしないし、宮崎みたいな看護師もいないし、あんないいドクターもいないし、俺も人のことを気にせず生活ができる。色鉛筆も絵の具もみんな取り上げられても、俺の頭の中に、既に全ての色が記憶されてるから大丈夫。知らない病院で、じっとベッドに横になって、なにもせず、なにも言わず、暗闇を見詰めて、そして死にたい。そういう暗いことを想像していると、気持ちがとても落ち着く。誰も知らない、俺も誰も知らないし、向こうも俺のことは知らない。どっちがいいの?一生続く耐えがたい自殺願望と、一気に終わらせてしまうことと。どこかもっと明るい所はないのかな?太陽が昇るまでまだ6時間とかありそう。とりあえず歩き出す。条件出す、っていうのもいいかもしれないな。俺は病院に帰ります。でも同じ病院には絶対帰らないし、知ってる人にも絶対会いたくない。そうすれば俺もしばらく落ち着いてひとりで泣けるかもしれない。そしてこれから10年とか20年とか後に、いい薬が発明されて、俺の自殺願望も少しずつ減って行く。俺の幻視、俺の幻聴。この街道を走るトラックは、少し宇宙が回る音に似ている。俺の幸せと俺の死は、どう結びついてるんだろう?自分でも全く気付かないほどのハイの状態でオーバードースをやったことがある。致死量には到底及ばないくらいの量だったから救急車には乗ったけど、あの時は死ねるのが嬉しくて嬉しくて、薬を飲もうとしていた、ってこともあんまり意識してなかったな。もちろんウツで自殺未遂も何度かあった。高校生で仕事してて、もう大人の生活をしてて、ウツになって酒飲んで抗うつ剤飲んだ。自分に合った抗うつ剤が見付かったから、もうひどいウツに悩まされることはないけど、もし今度知らない病院で知らないドクターが俺の自殺願望がウツだと判断して俺に違う抗うつ剤飲ましたらどうなる?どっちみち俺の自殺願望はどうやったって消えないんだから、なに飲んでも同じかも。そのうち偶然上手くバランスが取れて俺の自殺願望が消えるかもしれない。多分俺が50才とかになった時。そして俺は初めて病院を出て、どうする?さあ?狂人の時間の感覚って、すごいな。道路に沿って歩いていたら空が明るくなってきた。コンビニがあったから入って、厚手のメモ帳みたいなのを買った。そして明るい所を探して色鉛筆でそれに絵を描こうと思った。街道沿いに古い団地があって、外階段を上って屋上に出た。何階建て?多分6階くらい。数えてなかったからよく分からない。もう大分明るかったから俺は色鉛筆でそのメモ帳の一枚一枚に綺麗な、可愛い花を描いて、その裏側にもまた表と違う花を描いて、描いてはそのメモをはがして、色鉛筆をバカにしてはいけない。色を混ぜることもできるし、こすってぼかすこともできるし、色鉛筆の芯を粉にしてそれを混ぜることもできる。でも俺は鉛筆削りを持ってなかったんで、それはあまりできなかった。俺の頭の中はいつものように色でいっぱい。今朝は夕べと同じように銀色とピンクが頭の中を回ってるけど、やっぱり銀色の作り方が分からなくて、銀色の蝶を捕まえて来て、その粉を使おうか、とも思ったけど、そんな蝶は俺の頭の中にしか存在しないし。花はバラが一番多いんだけど、マーガレットみたいなのもあるし、ラベンダーみたいのもあるし、芥子みたいのもある。俺の頭に色はたくさんあって花もたくさんあるんだけど、でも俺は色鉛筆でそれをしっかり捕まえてるから、そんなにつらくないし、幻聴もまだ少ししか聞こえてない。幻聴はやっぱりその街道を走る車に似ている。多分アスファルトの種類とかが、他の道路と違うからか、その道があんまり古いからか、それはよく分からない。花を上から吊るすのってどうやるのかな?糸みたいのに巻いて、それを天井につけるのかな。七夕みたいにできたらいいな。綺麗だろうな。ってそんなことを考えながら、まだまだたくさん花を描く。メモ帳の裏と表に描くから相当時間がかかる。でも描けば描くほどテクニックが磨かれていくから、どんどん絵としてはよくなるけど、そうするとまた最初の頃に描いた花に満足できなくなってきて、また最初に描いたのに戻って、描き足したり、描き直したり、色々やってるうちに、そうとう日も高くなってしまった。すごいスピードで描いたのにまだメモ帳は半分くらいしか使ってない。俺は自分の脳に走る色達を実際の速さくらいで捕まえて、それをメモ帳に描くことにしたけど、それはあんまり速いから、もう花の形はほとんどしてなくて、ただの色の連続になって行く。それでも色は忠実に再現しようと思うから、それは大変で、俺の頭の幻視がどんどん厚くなって、密度も濃くなって、複雑になって、俺はすっかり疲れてしまって、でも色は止まらないし、道路の音も止まらないし、俺の自殺願望は一番幸せな時に現れる。俺は今綺麗な花と花の色に囲まれて大分頂点にあるけれど、まだそれでは足りない。なんかが足りない。もう50枚くらい絵を描いた。小さいメモ帳だから、大したことはないんだけど。それをこの6階から全部飛ばして、最後に俺が舞い上がる。でも50枚くらいじゃ、中途半端だよな。俺はその屋上から降りて、また街道沿いを歩く。鉛筆削りを買おうとしたんだけど、コンビニのってなんかあんまり切れそうになかったから、カッターを買って、それで芯を削って混色しようと考えた。あと、コンビニにありそうな銀色のモノを捜そうとしたんだけど、いい具合に、安いアイシャドーの銀色が見付かって、それを試してみることにした。明るい公園とかでやろうとしたんだけど、風が出て来て無理だから、小さな公園に小さな温室があって、そこで描くことにした。その温室は夢のように花がたくさんあって、主に栽培するのが難しそうな、蘭とかそういうのがたくさんあった。蘭ってよく知らないけど、南国風の木の上に生えてるみたいで、だから俺のイメージする俺の結婚式の様子にわりかし近くて、どんどんイメージが膨らんで、そのアイシャドーも丁度いい濃さの色で、あの智志が使ってたパウダーの高級感には相当かなわないけど、それなりにピンクとの相性もいいし、俺は気に入ってた。その色鉛筆には俺の思ってるペパーミントグリーンが入ってなくて、それだけはどうしても混色しないとダメで、俺はさっき買ったカッターを取り出して、グリーンとイエローとホワイトの芯を削ってパウダーにしてその色を作る。気紛れに、銀色のアイシャドーも混ぜてみる。いいな。いい色。こんなこと病院の中ではできない。俺の座っているベンチが俺の絵で埋まっていく。それでもまだ俺の頭の中の幻視のスピードの方が速い。だんだんつらくなってきて、誰でもいいから、お願いだから、俺の思考を止めて、って願うけど、声に出してはいないからそれは誰にも聞こえない。頭がつらい。頭が重い。考えが止まらない。この公園は街道から離れているから、あの音は聞こえないはずなのに、聞こえる。だからこれは俺のいつもの幻聴だって分かる。宇宙には花はないんだよ。どうして俺のことを宇宙に誘うの?この植物園のこの花達とさようならをしないと。今すぐに。ここはあんまりにも俺の理想の結婚式に近過ぎる。だからつらくなる。植物園の温室で結婚式やるのもいいな。って、いつ?誰と?温室を出て公園を歩く。後ろを振り向くとガラスのドームが見える。透き通ったモノを描くには?それを考え始めた。もちろん、画用紙に本物そっくりにガラスのコップを描くことはできる。俺にもできる。難しいことではない。でもそれと、透明な色、とは全く違う。雅也さんが最後に撮った俺の写真、まだ見てない。上手くいったのかな?俺がハイで自殺願望がある時のヤバい顔。今はハイだけど、少しラインを越えちゃったんで、今はつらい。少し休まないと。全然薬を持って出て来なかったから、ハイを静める方法がない。じっと公園のベンチに座る。絵を描いてる振りをする。ほんとはなにもしてない。なにもしてないと、俺は3時間くらい平気でじっとしてるから、人が変に思う。だからなにかしてる振りをしないといけない。経験から学んだ。なぜか俺はあの俺の最後のファッションショーのことを考えていた。夕べ森詩さんも言ってたな、あれはすごいって。あのスーツはよくできたスーツだった。少し大げさな広めのパンツ。シルクのくすんだ水色の、そして襟元には同じ素材の、でもそのスカーフは白だった。着てると身体にまとわりついて、服が俺に着てもらいたがって、俺が歩くとその風に沿って後に流れて行く。俺が出たのが一番最初で、人々が嫌でも注目して、ショーの終わりに皆で出た時も、俺に当ったフラッシュが一番多かった。あの時、俺なに考えてた?双極性障害の躁状態って経験した人は分かるけど、かなりつらい。今の俺の状態。誰か、俺の思考を止めて!止まらない思考。あの時俺はなにを考えてた?なにを見ていた?なにを聞いてた?俺は今だったら何が起こってるか分かる。入院もしたし、病気について勉強もしたし。でもあの時、自分がどうなってるのか全く理解してなかった。ドクターに言われた。君は双極性障害だね。リチウムを飲みなさい、それだけ。自分になにが起こってるのか全く分かってなかった。ショーのあとのことは覚えてる。自殺願望があって長い入院。ショーのことも覚えてるけど、眩暈なんて初めての経験だったし、でもほんとに俺あの時自殺願望があったの?今みたいに?丁度今の状況。ハイだけどまだ薬がちゃんと効いてなくて、丁度今の状況。俺薬持ってないから今、飲んでないし。だからハイを押えるモノがない。丁度この状態。俺は今、なにを考えてる?なにを見てる?なにを聞いてる?雅也さんに電話して、そのことを言ってみようかな?今、完璧にあの3年前の状態。
11
俺はハイで、つらくて、思考が止められなくて、酒を飲むと少し落ち着いて、まだ若かったけど、もっと大人のモデルとかファッション業界の人とかに、バーとかパーティーとか連れて行かれて、ほとんど毎晩で、俺は可愛いカッコして、可愛く微笑んで、そしたら、おい、コイツ誰にでもヤらしてくれるぜ、って、それで俺、ほんとに誰にでもヤらしてて、男達がなに、コイツ薬やってんの?俺は薬なんてヤってなかったけど、男にケツに入れられてる時だけがハイがおさまる唯一の瞬間で、次の男が後ろで待ってて、ソイツが、なに、コイツに金払うの?そしたら他の男が、金なんて払わなくていいよ、払いたいなら俺にくれ、って男達がドッと笑って、俺、ヤることしか考えてなかったから、他のことはどうでもよくて、俺、若くて可愛いかったから相手はいくらでもいて、そのうち俺とヤる時は絶対コンドームっていうのが当たり前になってきて、決まったヤツができても俺はそれだけでは満足できなくて、次の晩には他の男とベッドにいて、殴られて目が腫れて、モデルエージェンシーの担当のヤツに怒鳴られて、でもソイツともヤってて。やっと目が治って、その時出たのがあの最後のファッションショーで、あの時、俺はなにを考えてた?なにを見ていた?なにを聞いてた?俺はあの中ではスターで、もっと有名なデザイナーのショーにもたくさん出てて、違う男と毎晩ヤってて、多い時はもっと何人もとヤってて、順番待ってた男が、おい、コイツいい声で泣くなって、それでも俺の狂った頭は静まらなくて、あの時ランウェイで完璧に歩きながら、俺は、お願い誰か助けて!俺の狂った思考を止めて!ああ、でも世界ってなんて綺麗なの?色がたくさん飛んで行く!俺はアレを捕まえたい!そして宇宙の音と一体になって、俺はこの世から消えて行きたい!
12
俺はあれから場所を転々と変えながら、とうとう100枚の裏と表に花の絵を描いた。これを和泉さんに渡したいんだけど、郵便とか宅急便とか、やっぱり郵便の方が安上がりだな、って思ったから、なにか手紙を入れようかな、って思ったけどゴメンはもう散々言ったし、俺が描いた花、受け取ってください、みたいな、あんまり意味のないことを書いて、郵便で送った。できればあれを結婚式の飾りにしたかった。ダメだ、それ考えるとまた泣けてくるからやめよう。花もできたし、送ったし、俺、これからどうしよう?一区切りついたのは確かだな。あの勢いで花を描いたから、大分頭の中もスッキリした。俺もさすがに年取ったからか、精神安定剤の進歩のお陰か、男とヤりたいという衝動はないな。幸いなことに。でもその代わりに、少し気分が落ちて来た。薬持ってないからヤバい。でも俺の場合ハイの時に死にたくなるから、落ち気味の時は一安心。脳の中が妙に静か。なんだか寂しい。誰かに会いたい。でも誰にも迷惑はかけたくないしな。どうしよ。メールをチェックできるとこに行って、見てみた。他の人のはどうでもよかったから、和泉さんのだけ読んだ。今回のメールは彼は心理作戦で来たみたいで、俺達の結婚式と、そのあとの生活のスイートな物語が綴られていた。なんかそそられるような内容だった。俺は、さっき郵便出したから、っていう短いメールを出した。でもこれで俺がまだ生きてることくらいは分かったはずだから、いいや、って思った。で、そう思ったらやっぱり宮崎のも読んでやろうと思ったら、宮崎は、お前が病棟に色鉛筆を持ち込んでいいように話しをつけてくれる、とか、かつ丼でも天丼でも、好きなものを好きなだけ食わしてやるし、かき氷のメロン味も、くずもちもたまには買って来てやるから、という食べモノと色鉛筆で釣る作戦みたいだった。この際全部開けて読もう、と思って読みだしたら、雅也さんからのがあって、こないだ中庭で撮ったのを送ってくれた。俺の顔、どうだろう?あの時泣いたあとだったから。少し目が赤い。俺のハイと自殺願望。逃場を捜して助けて、っと叫んで、頭の中は忙しいけど、外には現れないんだよな。でもほんとは現れてて、それを色んな人が指摘する。雅也さんにほんとのことを言おうかな?ハイで、それを静めるために100人以上の男とヤってた、って。数えたわけじゃないけどさ。それがあの顔。どうせ俺ももう長くないし、って思って、雅也さんにはそういうようなことを思い出しました。その顔があれでした。って、メールした。そしたら和泉さんから返事が来て、宮崎さんが、彼と一緒なら俺に外出許可を出すから、一緒に迎えに行くからどこにいるか言え、って。俺もう落ち気味だから自殺願望ないし。疲れちゃったから、お言葉に甘えようかな。って思わず思ったほどの誘惑だった。でも即断はよくないと思ったので、少し考えさせてください。って、返事を書いた。そしたら誰か思い出せない人からメールが来てて、読んでみたら、あの俺のために救急車を呼んでくれた森詩さんだった。貴方のためにこんな仕事もあんな仕事もあるし、今度の東京コレクションもぜひやりましょう、って書いてあった。ありがたいお話しです。こないだは逃げてすいませんでした。って書いて出した。そしたら大学教授から速攻で返事が来て、俺も本を何冊も読んだから、そういう性的逸脱があるということも知ってるが、それは君の病気のせいなんだから、気に病むことはない。とか書いてあった。俺は別に気には病んでないけど、そういう経緯で、あの顔になったと、そういうことをお知らせしたかった、って別にそんなこと言わなくてもよかったんだけど、なんか気持ちが寂しいんで返事をしておいた。それから死ぬほど寂しい気持ちになって、なんとなくこないだ行った新しいファッションビルのカフェに行ってみた。もしあの時のウエイターさんがいたら入ろうと思ったら、いたんで前と同じ席に座った。そしたらあっちも覚えててくれて、少し喋って、
「どうですか?気分は?」
って、聞いてくれたので、
「まだ3日は経ってないけど、少し気は楽になりました。」
「貴方みたいな人を振るなんて。」
「まあ、色々複雑で。」
「どうするんですか、これから?」
「考え中。」
「考え中?」
「なんか迎えに行くから一緒に帰ろう、とかメールが来て。」
「仲直り?」
「そんなような。」
「好きなんでしょう?あんなに泣いてたくらいだから。」
「俺、そんなに泣いてました?」
「泣いてた。好きなんだったら離しちゃダメですよ。」
「ええー、そんなこと言われたらそんなような気がする。」
「早く、電話でもメールでもして、迎えに来てもらったらどうです?」
「ええ-。」
そしたらその人は、他のテーブルに呼ばれて行ってしまって、俺はその間に考えていた。あんなに俺のこと好きだ、って言ってくれてるいい男を。俺ってほんとに落ちると人格変わるよな、って当たり前だけどさ。ええー。どうしよ。宮崎と一緒に来るって言ってたな。かつ丼奢ってくれるんなら帰ってもいいかも。俺ほとんどなにも食ってないし。かつ丼この前食ったから、天丼にする?あ、でもやっぱ俺、かつ丼の方がいいな。あのふたりに会ったら号泣だよな。それかあんまり恥ずかしくてなにも言えない。結構しょうもない脱走劇だったな。自殺しようとしたのは救急車来た時車に跳ねられそうになった時だけだし。でもあの時は本気だったからいいや。ということは、俺はちゃんと目的は果たせたんだ。死にはしなかったけど、真面目に死のうとして実行したんだから、そんなに自分で思うほどしょうもない脱走劇でもなかったんだ。俺はそう自信をつけて、やっぱり宮崎と和泉さんに電話をすることに決心して、そのウエイターさんにお礼をたくさん言って、またこないだの高級ホテルから電話をして、しようとしたけど、やっぱり勇気がなかなか出なかったけど、でも寂しいし疲れたし、自殺願望も綺麗に消えたし、病棟にかけたら、和泉さんが、電話が鳴る前くらいの勢いで出て、
「優夜。」
「うん。」
すごく恥ずかしい。
「どこにいるの?」
彼はとても優しく、
「ほんとに来てくれるの?」
「ほんとに行く。宮崎も一緒に。」
「でもそんなの悪くて。」
「具合が悪かったんだろ?病気なんだろ?」
「今は、大分気分はいいの。」
「よかった。どこにいるの?」
「もしどこにいるか言ったら、救急車とか、警察とか来て、俺連行されるの?」
「それはないから安心しろ。宮崎さんと俺がいれば逃がさないから。」
「あの。かつ丼。」
「は?かつ丼食いたいのか?」
「あの。もしよかったら。」
「分かった。」
和泉さんが後ろにいるらしい宮崎に向かって、
「コイツ、かつ丼食わせろ、って言ってる。」
って、言ってるのが聞こえる。
13
俺に一番似合う死。長く、永遠に続く死。もう死んでいくのに気が付かない、そのくらい長いゆっくりした、でも確実に死に向かっているような死。ネットで色々調べてるんだけど、決定打がない。薬と薬の組み合わせ。酒と薬の組み合わせ。練炭でも生き残ることがあり得る。人を巻き添えにはしたくない。鉄道の青い光。あれを病棟中につけたらどうだろう?あれって結構お金かかるのかな?こういう風にゆるく、毎日、一日中死ぬことを考えている。俺のドクターは賢いから、俺の言うことは信じてない。君にはまだ自殺願望がある。俺のパソコンが取り上げられてしまった。よからぬことを検索しているのがバレたらしい。メールできないし、ケータイも取り上げられたから、外の人と連絡を取るには電話をしないといけない。俺は落ちると、電話ができなくなる。電話を受け取ることもできなくなる。それは子供の頃からで、理由はよく分からない。電話の向こうに誰かがいて、俺に用があって電話をしてきたという事実が恐怖だ。こっちからかけるのも絶対無理で、でも電話がかけられたリ受け取ったりできるようになると、ウツがよくなった、って分かってそれは絶対便利。和泉さんと宮崎でかつ丼を食べに行って、俺はしばらく一生懸命食べて、ほとんど完食して、約3秒くらい和泉さんの目を見て微笑んで、そしたらどん底まで気分が落ちてしまった。ここまで落ちると口もきけない。泣くこともできない。宮崎は、
「優夜はウツの時が一番安心なんですよ。自殺願望がほとんどなくなるから。」
でも俺はとりあえずまだ死ぬことは考えていて、さっき和泉さんに会った時くれた小さな花束に鼻を突っ込んでいたら、結婚式のことを思い出して、やっぱり泣いてしまった。和泉さんは俺が泣いている時にいつもやるみたいに、子供に話しかけるみたいに、
「優夜俺に郵便送ったって、なに送ってくれたの?」
俺はなにも言わずにまばたきをする。そうすると涙の落ちる速度が少し遅くなる。宮崎が、
「お前、しばらく薬飲んでなかっただろ?今、これとこれを飲め。」
って、言っていくつかのカプセルと錠剤をくれる。それを飲むとすごく眠くなるのが分かってるから、俺はまたそれを飲まずに逃走することを考え始める。俺の横には宮崎がいて、俺の向かいには和泉さんがいる。店のドアは宮崎に近い側にあるから、状況的には逃走は難しい。俺はその薬を見ながら考える。患者がよくやるのは、飲んだ振りをして、舌の下に隠してあとで吐き出す。でもこんな電気がこうこうとついてて、ふたりの男に見張られてるんじゃ、それはかなりのワザが必要になる。宮崎が、
「飲め、ほら。」
って、俺の鼻先にそれを持って来る。俺は薬の色って考えてみたことないけど、結構綺麗だな。よくできた配色。オレンジと黄色、グリーンとアイボリー、この配色、今度花を描く時に使ってみよう。そこにめしべとおしべが中心に入るから華やかな感じに仕上がると思う。俺、またあの病院に戻るの?そしてまたあの中庭に戻るの?どうしても出口の見付からないあの中庭。誰に聞けば教えてくれるの?あそこには本物の花が植えてある。背の低い花で、なんだかあんまりフレンドリーじゃない花。そこにいて咲いてるだけ。面白味はない。だからあの花に聞いてみる気は起こらない。他には?鳥はあんまり飛んで来ない。エサになりそうなものがないから?以前入院してた年配の女性が、ハトにエサをやっていて、フンが散らかるとか言って、お掃除の人が文句を言って、それはできなくなってしまった。その年配の人にとって、ハトと話す時だけが人生の楽しみだったかもしれないのに。その人はもうずいぶん前に退院してしまったけど、家でもそういうことをしてるんだろうか?そうだったらいいな。俺がトイレに立つと、宮崎がついて来る。信用されてない。トイレ付近には裏口がない。きっとキッチンの内部のどこかにある。キッチンの方を見たら中で働いている人と目が合った。宮崎は俺がキョロキョロ周りを見渡しているのに気がついてる、彼は、
「優夜、お前、そろそろ真剣によくなることを考えないと。」
俺はよくなろうということは全く考えていない。俺はこの瞬間に感じてる焦燥感から脱出したいだけ。宮崎は、
「落ち付かないんなら、これだけでもいいから飲め。」
って、オレンジ色の抗不安剤を俺の目の前に置く。俺はそのオレンジ色を見て、それから和泉さんを見た。彼はなんか、第三者的な立場にいるように見えて、俺にどうしろとは言わない。俺はこんな薬を飲んだら寝てしまう、って思ったから、半分に割って半分飲んだ。そしてなんとかスキを見てここから逃げる。でも難しい。逃げるくらいならどうしてふたりを呼んだの?そういうことは分からない。気持ちが落ちてるから。そうだ、さっきの親切なウエイターさんが、言ってくれたから。そんなに好きな人がいるなら、って。大泣きしてたから。また和泉さんの顔を見る。もっとドラマティックな再会をしたかったんだけど、その一瞬先に落ちてしまった。宮崎は、
「優夜がウツになること滅多にないから。」
って、俺の顔を面白そうに眺める。和泉さんも、
「へえ、そうなんですか?」
って、一緒に俺の顔を眺める。見世物だよな、これじゃあ。俺は貧乏ゆすりを始めて、変な話し、ハエが手をこすり合わせるみたいに手をこすり合わせる。そしてそれを始めたらしばらくやめられない。そもそも無意識にやってるから、ってこともあるし。俺はウツの時はハイの時みたいに大胆な自殺計画は立てないけど、やっぱり考えてる。ふたりいるから逃げられない、どっちかひとりがいなくなればいいんだけど。そう思ったら、宮崎が、じゃあもう帰るぞ、って言って席を立ってお勘定を始める。その一瞬俺は宮崎の視界から消える。俺はドアに向かってダッシュする。ドアは引き戸で少し重たい木でできてる。和泉さんが後ろから俺を抱き止めて、俺は床に激しく倒れて、彼は俺の腰辺りを相当強い力で押さえつける。俺は叫ぶ、
「助けて!捕まったら、殺される!」
俺は今度こそ失敗しない。あの道路に飛び出して、何台もの車に投げ飛ばされて、そして大きなトラックに轢かれて死ぬ。俺は和泉さんの身体を蹴って、それでも彼は俺のことは絶対離さないで、俺は自分の手で彼の頭を叩いて爪で顔を引っかいて、それでも彼は同じ力で俺を押えて、そして宮崎が俺のことを店の外に連れて行って、
「大人しくしろ!」
って、俺のことをすごい力で押さえつけて、トランキライザーを打った。薬が効いて来るまで俺は人通りの多い歩道の真ん中に寝ていて、警察が来て、宮崎が身分証を見せて、俺はこの間みたいになぜかそんな強いトランキライザーが効かなくて、身体はほとんど動かせなくて、でもゆっくりなら多分、なにかに捕まりながらなら歩けそうなくらいで、目はずっと開けてて、ちゃんと周りの状況は分かってて、なんとか立ち上がろうとしたけど、宮崎に止められて、和泉さんは、人々が俺のこと踏みつけて行かないように、見ててくれて、病院の車が迎えに来て、俺は少しずつ起き上がって、車に乗る振りをして、道路の走っている車に身を投げた。丁度あの映画みたいに。美しいバレリーナのビビアン・リー。自分では上手くやったつもりだった。
14
俺は1週間隔離病棟に入れられて、俺のドクターの怒りは深くて、俺達がみんなで君がよくなるように努力してるのに、逃げ出すとは何事だ、って。和泉さんと宮崎は毎日俺に会いに来てくれて、宮崎の怒りも深くて、当分かつ丼はとってくれないらしい。俺はいつも和泉さんに抱き付いて、
「ゴメンね。蹴って。それから引っかいて。あと残るかな?」
「治るだろ?」
「あれから俺、色々思い出したことがあって。」
そして俺の性的逸脱だの、でも自分が病気だって知らなかっただの、そういうことも話して、そしたら和泉さんは、
「俺だって、酒飲んで色んなバカなことやったし。俺なんか酔って女とヤったことあるぞ。」
「え、マジ?やだ!俺、そんな不潔な人とはセックスできません!」
とほざき、しばらくセックスしなかった、っていうか、俺達セックスしたことなくて、まあ病院内だから、ってのもあるけど、別に他の人もしてるし、って思って、遂に俺達もこっそりエッチしちゃって、俺の気持ちも安定してきて、外出許可も出るようになって、和泉さんと一緒に雅也さんの撮影に行ったり、それがだんだん上手くいきだして、雅也さんも彼がビデオで観た俺を表現できるようになって、それを森詩さんに送って、俺も久々に、年ごまかして東京コレクションに出演し、俺も和泉さんも退院することが決まって、俺達一緒に住むことにしてて、お互いをちゃんと見てれば大丈夫じゃない?って、彼は割と楽天的で、いい仕事も見付かって、俺は去年出たばかりの新しい抗精神病薬が効き始めて、幻聴、幻覚は減ってきて、でもそれって寂しい面もあって、今まで綺麗な色がコロコロ俺の頭の中を転がってるのを捕まえて絵にしてたのに、そういうことがあんまりなくなってきた。それでビルの上から飛び上がる欲求もなくなるからいいんだけど。でも寂しい。秋が終わって冬になって、クリスマスになって、俺はショックでしばらく固まったけど、彼は俺にプロポーズしてくれて、七夕に結婚式しようよ、って言ってくれて、それでその時はどこかの植物園で花がたくさん咲いてる時に、天井からも花をたくさん吊るして、俺が彼に送った100枚の花の絵を短冊みたいにして七夕の飾りにして、それでそのたくさんの花の下で誓いの言葉を言うの。
15
実際の結婚式は、俺の想像してたより豪華な感じで、花もカラフルで信じられないくらい、いい香りがして、俺の優しい両親や姉も来てくれて、病院の人とか、雅也さんとか智志とかも来てくれて、和泉さんはすごくフォーマルにバリっと決めてて、俺はソフトな感じのスーツで、ネクタイはしてたけど、なんと花柄のプリントで、よく似合うってみんなが褒めてくれて、なんだか自分がその温室中の花に溶け込んで行くみたいな、そんな感じがした。


初出 2018年


小説の書き方 130、頭が変でないと優れた小説は書けない?

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