短編小説:枝豆、ビール、綺麗な月(上)
「月、綺麗でしたね」
女性は私の右隣に座るなりそう言った。
面食らう私をよそに、厨房へ「生ひとつ、枝豆、お願いします」と声をかけると、再び私の方を向いて
「11月はビーバームーンって言うんですって。私、あのあと調べたんですから」
と続けた。突然のことに、私は「はぁ」とかいう曖昧な返事しかできない。
「それ、何ですか?」
「え?」
「その青いお皿の」
「あ、ああ、サワラの西京焼きです」
「美味しそう」
店員から生ビールを受け取った彼女は「すみません、サワラも」と追加の注文をし、私にジョッキを向けた。
「お疲れ様です」
「お、お疲れ様です」
戸惑いつつも、飲みかけのジョッキをぶつける。キン、と音がした。
彼女は、誰だ。
OL風の格好、控えめな化粧。大学生の娘よりは歳上だろうが、それでも私の半分くらいの歳ではなかろうか。なぜそんな若い女性が私の隣に?
「本当に、いましたね」
「え?」
「言ってたじゃないですか。普段は金曜にいるって。ほら、こないだの月曜日。月が綺麗だった日に」
両手でジョッキを持ち、彼女は笑った。
「なんとかムーン、って、言ってたでしょ」
そして再び「あのあと調べたんですから」と言った。そうだ、思い出した。
週末によく訪れる、この居酒屋。月曜日に飲むことはほとんどないのだが、今週はなんだかいろいろ上手くいかなくて、疲れて、来てしまった。月曜日だというのに思いの外混んでおり、たまたま空いていたカウンター席の右隣にいたのが、彼女だったのだ。
そこそこ酔っていたので鮮明ではないものの、言葉を交わした記憶がある。
「今日は月が綺麗ですよ」
とか…。
「なんとかムーン、って名前がついてるらしいよ」
とか…。そんな話を、した気がする。
もしかしたら嫌な絡み方をして、不快な思いをさせていなかったかと心配になったのだが、親しげに話しかけてくる彼女の様子から、そんなことはないと信じたい。
「約束通り、来たんですね」
いつの間にか彼女の前には枝豆があった。
「約束なんてしましたっけ」
「んー?まあ、あなたが『僕は金曜の常連です』って言ってたから、勝手に約束だと解釈しましたけど」
だめでした?と彼女は首をかしげた。
「…いえ」
「なら、良かったです。ほら、ほら、飲みましょう」
あっという間にジョッキをあけた彼女は、ハイボールを注文した。
「この前のはビーバームーン。ちなみに、12月はコールドムーン、ですって」
「詳しいですね」
「調べましたから、あのあと」
3回目のせりふのあと、彼女はくすりと笑った。
「月曜はずいぶん飲まれてましたけど、次の日は大丈夫だったんですか」
「ああ、もちろん。君こそ、大丈夫だったの」
「私はよく月曜に飲んでますんで。週明けから飲まなきゃ、やってられないですよ」
「大変なんだね」
「あなたこそ、いろいろ大変そうですけど」
それから彼女と、他愛もない話をした。
歳の差も感じずに、まるで、古くからの知り合いであるかのように。奇妙な気分だった。
日付が変わる前に、どちらからともなく店を出る。
「近いの?送っていきますよ」
声をかけると、彼女は「真っ直ぐ行ったところにあるアパートです。歩いてすぐ」と進行方向を指さした。
「あなたは?」
「僕もここから少し歩いたところのアパート」
「じゃあ、一緒に歩きましょう」
タクシーを呼ぼうかと思っていたが、彼女はもう歩き出していた。彼女の左に並んで歩く。
「アパート暮らしなんですね」
ぽつりと、彼女が言った。
「ひとり暮らしですから」
「おひとり、なんですか?」
彼女は歩みを止め、私を見上げた。私は無意識に…、いや、わざと、左手をコートのポケットに滑り込ませた。
「はい、ひとり、です」
ひとり、は、嘘ではない。単身赴任でアパートにひとり暮らしをしていることは本当だ。彼女が「ひとり」をどう解釈するかは別として…。
彼女は奥二重の瞳で私をじっと見つめたのち、力を抜くように、ふっと笑った。
「へぇ」
そして、歩き出す。
私たちは黙ったまま、並んで歩いた。
「来週も、行きますか?」
不意に、彼女が尋ねた。
「あの、居酒屋に?」
「そうです。金曜日に」
「どうしようかな…」
「私は行きますけど」
あ、このアパートです、と、彼女は立ち止まった。
「じゃ、また来週」
私が何か言う前に、彼女はそう言ってひらひらと手を振り、去ってしまった。
恐る恐る右手で振り返した後、左手をポケットに突っ込んだままだということを思い出した。そろそろと出すと、外したことのない指輪が鈍く光っている。
名も知らぬ若い女性と、妙な約束をするなんて、私は何をしているのだろう。
そう思いながらも、右手の親指と人差し指は銀色の指輪をつまんでいる。
指輪は呆気ないほど、簡単に外れたのだった。
※フィクションです。
今宵はビーバームーン。
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