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箱の中身

とある方のnoteを読んで

私の心の中には、26歳の私と、5歳くらいの私がいて、大抵は子供の私が大泣きしたり大暴れしたり甘えたがったりしているのだけど、大人の私はそれを見ないフリして、楽しくないのに笑ったり、「こうあるべき」に釘付けになって無理したり、周囲にSOSを出せずにいたりする。誤解のないように先に言うが、人格が複数あるという話ではない。思考の精神年齢とも少し違う。感じ方の話だ。朝起きて、仕事になんか行かずにまだ寝ていたいなあと思うだろう。布団から出たくないなあと。これが子供の自分。だけどまさかそのまま仕事を休む人はあまりいない。眠くてもだるくてもなんとか支度をして職場へ向かう。これが大人の自分。本能と理性。私はたぶん、「子供の自分」が人よりも大きく育ちすぎている。あらゆる感情で暴れているから、面倒見るのが大変だ。それを「大人の自分」が強く抑えつける。暴れもんを抑えつけたら、当然その分強く抵抗してくる。強く反発してくる。そうするともう「大人の自分」には手がつけられない。完全に「子供の自分」だけが顔を出して、実際の私も泣いたり、怒ったりする。なんでわかってくれないの、と。

子供のうちに「子供の自分」とたっぷり向き合ってあげられなかった結果なのだと思う。「子供の自分」がわがまま言いたくても、「大人の自分」や、「まわりにいる大人」が、それを許さない場面は少なくなかった。
恥ずかしいけど喜ばせようと思って初めてプレゼント用意したのに、なんで全然喜ばずに困っているの。少し怒っているの。私はなにか間違えた?苦手って知っているはずなのに、なんで見て見ぬふりするの。助けてくれないの。友達と離れたくないのに、ついていかなきゃいけない。また転校。なにか言っても仕方ない。どうにもならない。ついて行くしかない。お母さんの子供会の用事でお邪魔したお宅が、りっぱで素敵なおうちだったから、すごいね!と喜んだら、強く手を握られて睨まれた。共感してもらえなかった。こわい。わからないけど、なにか言ってはいけないことを私は言ってしまった。今後はしないように気をつけないと。新しい場所でせっかく友達ができたのに、みんなは行かない私立の中学に行けって、なんで?なんでそこに行くことが素晴らしいの?私は絶対に行かない! 友達の家のお泊まり会、私だけが行けなかった。仕方ない。交渉の余地もない。うちはそういうのダメだから。でも本当は行きたい。 高校を卒業したらみんな地元を離れるから、小学校からの友達もばらばらになってしまう。春休み、最後に集合して遊んだ。昼から出かけていたが夕飯も一緒に食べようとなった。やった!嬉しい!夕方、私は親の許可をとりに一度家に戻ったが、許さないと怒られた。次いつみんなで集まれるかわからないのに。夜ご飯食べるのもダメなの。なんでわかってくれないの!勝手にしなさいって言うなら勝手にする!帰省した時、友達の車で地元の工場夜景や海を見に行って、長い間好きになれなかった地元を初めて少しだけ好きになれた気がした。とても特別な夜だった。帰って思いの丈を話したら、地元の夜の海なんて二度と行くなと怒られた。また踏みにじられた。
「わかってもらえなかった」思い出が少しずつ積み上がって、「子供の自分」はどんどん肥大してしまった。なのに、実際の年齢は大人としてどんどん歳をとる。年齢相応のあり方、求められる姿に引っ張られて、「大人の自分」も頑なに律する姿勢を崩さない。バランスがとても悪い。うまく立っていられない。
言ってみれば逆コナンみたいなものかもしれない。見た目は26歳なのに、中身は5歳。本当は子供なのに、一生懸命ばれないように大人として振る舞って、うまいことやろうとして、本当は泣き叫びたいのに本心を無視して、しんどい、みたいな。限界まで行くと大人のふりしていられなくなる、みたいな。だって中身はまだ子供なんだもの。順当に行けばもう少し釣り合うはずの内外のバランスが、実際に子供だった時に自分と向き合ってあげられなかったことが多いから、いつまでも子供が子供のままで、実年齢との均衡がとれない、みたいな。

私はいわゆる恋愛体質だ。彼氏もすぐにできる。だけど本当は恋人が欲しいわけじゃなくて、恋愛がしたいわけじゃなくて、欲しいのはきっといつも「私にとっての良い親」だ。私が欲していたかたちの愛情をくれるひとの下で、子供時代をやり直そうとしている。この間まで付き合っていた人にも、よく「子供みたい」と笑われていたけど、本当にそうだったんだと思う。「子供の自分」を受け入れてもらいたくて、甘やかしてほしくて、その自分ばかり外に現れていたんだと思う。ここでなら「子供の自分」でいてもいいんだ、と安心できる場所がほしい。安心安全な心の拠り所がどこにもないまま大人になってしまったのだ。友達は大好きだけど、一生大事にしたいって思っているけど、そこまで寄りかかってはいけない気がしてしまう。そこまで「子供の自分」全開にできない。開けない。だからどんなに親しい友達との旅行でも、楽しさと同じくらい疲れるのはいつものことだし(それでも行きたいから行く)、彼氏と行く旅行ではあまり疲れないのにも納得がいく。

私が無意識でも相手に「良い親」を求める限りは上手くいかないのだろうなあと最近になって思う。相手は私を育てたくて一緒にいるわけじゃない。でも、これは考え方の問題じゃない。こういう考えはやめよう、こういう方向性でいこう、みたいに、意思でどうにか操縦できるものでは全くないのだ。本能に近い。愛されたいという本能。少しずつでいいから、「大人の自分」を育てたい。そのためには、肥大した「子供の自分」を癒してあげたい。自分が苦しくならないためにも、この先一緒に生きるかもしれない人とうまくやるためにも、なんとかちょっとでも、上手に生きたい。

大学時代、就活でいっぱいいっぱいになっていた時、お世話になったキャリアカウンセラーの方が言ってくれた。「〇〇さんは今21歳の自分でいなくちゃと頑張っているけど、たまには5歳の〇〇さんの声も聞いてあげないと、壊れてしまうよ」。当時は今ほど噛み砕けていなかったけど、今日まで忘れなかった。絶対に忘れたくない、忘れてはいけない言葉だと思っている。

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