興味に沿って様々な本を買ったり借りたりしていると、どうしても難解で読み進められない内容に出会う。 そんな時の方策としては: 1. 目次で全体の流れにもう一度目を通したり、パラっと少し先に目をやって、果たしてその自分にとって苦しい状態がどのぐらい続くのか、おおよその目安をつける。 2. 乗り切れそう? Yes→ 2. 1 短時間で集中して何とか読み進めて次の章を目指す。 そうすればまた快適な読書状態に戻ってくることができる。 No→ 2.2 a) その章節の内容を
「2人の会話と3人の会話って当然だけど性質とか密度が全然違うと思っていて。」 こんな言葉から始まった「2人の会話」 ---------- 人数が増えれば増えるほど予定調和が大きくなって薄まっていく。結果、コミュニケーションのためのコミュニケーションが増えていく。これあまり好きじゃないから、話せる人とは一対一で会うようにしていて。 要は、波長に任せてどんどん掘り下げれる。 もちろん、特定の2人の間で話せる話題の領域にはある程度制限があるけど、そういう対話をできる知り合い
「ライブ配信って配信することが前提だから、どうしてもそれを意識して話すことになって性質が変わってしまう気がするんよね、、、」 「マイクを向けられる」と構えてしまう2人の会話から。 「自然に記録する」ことはとても難しい。むしろそこを突破できれば本当に面白そうなものが出てきそうだけども。 聞き手を意識して面白くしようとすると自分らしさがなくなって面白くなくなるという矛盾。 アーティストは自分の世界にある意味没頭し過ぎていて周りの世界が見えなくなってるからこそ、その人らしい
外部参照が頻繁に必要な本を、私たちの多くは読み進めることができないが、それは同時に自分の現行の立ち位置を知る手がかりにもなる。5年前に興味としても、理解力としても追いつかなかった書籍に思いがけず感銘を受けるということはよくある気がする。
友人と話していて、世論(というか私)がどうしても社会主義(昨今では特に中国)の一党国家に対して極めて強いステレオタイプを以て判断しがちだ、という話になった。 今の世の中では民主主義、多民族主義、平等主義が絶対的な善として扱われることが既に定型化しているが、そうした主義主張が始まったのもそんな昔の話ではないし、それを以て反対側にある社会主義や単民族主義、エリート主義をわけもなく否定するのは、それこそステレオタイプ化された状態で思想的には非常に危ない。 ある特定の主義主張がア
https://this.kiji.is/638318805716960353?c=113147194022725109 9月入学にすることの是非として留学生を呼び込めるとか逆に日本の学生が留学に行きたくなるとか言ってるけど、本当にそれで状況が変わったりするだろうか。 大学には英語で専門を語れる専任教員が圧倒的に足りてないから非常勤講師を雇って英語での学位プログラムをなんとか成立させているところも多いと聞く。また学生側にもその準備はないため、学部レベルではもちろん、「共通
香港のスターバックスで店員さんがやけにアグレッシブ(毅然とした態度)だった時の話。 近くのチョンキンマンション(まさに安価な移民労働力が集団生活をしている場所)で移民を対象にしたフィールドワークを行っている文化人類学者を待っている間、とりあえずは何も頼まずに座っていると、店員さんがテーブルの傍までやって来る。少し訝しく思ってそちらに目をやると 「飲食をしていない間はマスクを着用してください」 遠慮のない淡々とした口調だった。かれこれ4年目に入る香港生活でこうした直接的な
先日、本にしおりを挟み忘れていたようで、それがどこなのか考えることになった。すると、なんだかデジャブ感が出てくる。内容を覚えている訳ではないけどなんとなく親近感を感じるのだ。 そう、その章の内容は既に読んだことのある内容だったのだが、結局もう一度しっかり読むことになり、しかも以前よりも楽しめた、より深く理解できた感覚があった。 (栞のような)物理的マーカーが与える区切りは必ずしも認知的区切りと一致しない。 なんだか読んだ覚えがあるけど栞はそれよりも後ろにある、という
ふと家のトイレにかかっているカレンダーを見る。 5月の写真は福井県にある永平寺だが、そこには英語での表記もあり”Eiheiji temple”とある。 “ji”と“temple”が意味上重複していて違和感のある表現だが、すると中学校の英語の教科書に再三(?)出てきていた富士山もいつかは“Mt. Fujisan”になるのだろうか?うーん、しっくりこない。 でもこういう表現はけっこうある気がする。 最近見たものだと「近畿大学」の英語表記はKindai University,
あちこちで、「アート思考」や、「名画を楽しむ素養」など、芸術に関わる学びの必要性が声高に叫ばれている。 前者のような抽象化された方法論はにはそこまで違和感を感じない。それらはあくまでツールだから対象は多岐に渡り、私たちの思考の幅を広めるという意味で人生を豊かにしてくれる可能性のあるものだと思うから。 ただ後者については強い違和感を感じる。こうした書籍のほとんどで言われる「名画」は基本的に西洋絵画を指している。そして、誤解を恐れず端的に言うなら、それらの前提はキリスト教世界
相手の方が、子どもを産むことについて、身体面でいろいろ抵抗があるという。 「体の線が崩れる。体調を悪くする。」 私はとっさの機転(だとおろかにも思っていた)で 「僕が産むよ、遺伝子をちょうだい」 と言った。でもすぐに、本当の意味では深く考えられていなかったことに気づく。 けさ見た中国語の記事では、授乳に関わる胸の激しい痛みについて取り上げていたし、僕の姉も出産で腰をだいぶ悪くし整体に通うようになった。 「体調をこれ以上崩さないならやっぱり産みたいけど、悪化するなら
昨日、2度目の検査でA型インフルエンザを発症していたことが発覚。でもそれを幸せに感じる私がそこにはいた。 先生も「悲しいんだか嬉しいんだかですね」 中国の友人は“不幸中的万幸(不幸中の幸い中の幸い”だねと。 そう、今回のインフルエンザの陽性反応は同時にコロナ肺炎の陰性反応という結論を私にもたらした。もちろん、インフルエンザじゃないからといって同時にコロナ肺炎を発症していないというのはロジック的には穴だらけだけど、それでも私はだいぶ救われた気持ちになった。
八郎さん きみこには自分以上の才能があると周りにも話すほど認めている きみこのお母さん 保守的な夫の存在にも関わらず娘を応援 きみこ 幼なじみ新作の前で泣いてしまう→八郎さんの前では泣けない=八郎さんにとって脅威となる強い存在 八郎は弟子で自分に好意を持つみつにも「きみこといるとしんどい」と漏らす。きみこの才能を認めながらも、内心、きみこに負けていると感じており、「しんどい」と言うことで、自らの問題として受け入れるのではなく相手(きみこ)に責任を転嫁している
ゴルフのFarmers insurance openを見ていると、「バスケのKobe Bryantがヘリコプター事故でなくなった」というニュースが耳に入って来た。 私「コービが亡くなったって」 母「バスケの?昔カード集めたり、(レプリカ)ユニフォーム買ってたあの人だっけ」 父「あぁ、NBAの選手な」 ここで母と父 ーーー 一般的に「父と母」という言い方がデフォルトであるため違和感を感じるだろうが、私にとってはこれがそもそもデフォルト。アイデンティティという観点から、前者が