2人の会話と3人の会話

「2人の会話と3人の会話って当然だけど性質とか密度が全然違うと思っていて。」

こんな言葉から始まった「2人の会話」
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人数が増えれば増えるほど予定調和が大きくなって薄まっていく。結果、コミュニケーションのためのコミュニケーションが増えていく。これあまり好きじゃないから、話せる人とは一対一で会うようにしていて。

要は、波長に任せてどんどん掘り下げれる。

もちろん、特定の2人の間で話せる話題の領域にはある程度制限があるけど、そういう対話をできる知り合いが何人かいるともうそれは幸せだなぁと。

数人そういう相手がいれば、おおよそ、自分の興味の範疇は満たされるし、自分1人では普段アンテナに引っかからないものにも嬉々としてアクセスしていける。

政治への参与度を上げることも似たようなものだと感じていて、自分が全ての領域の情報に精通してる必要はないと思うし、むしろその領域に明るい、信頼できる人間がいたらその人に選択をほぼ丸投げしてもいいなと思っている、もちろん自己責任で。


  友「たしかにね。。わたしも深く話せるひとは、数人だなあ。連結の力ですよね」


そういう意味で、自分という存在は広義の意味では確かにこの世界の一部なんだけど、ミクロな観点で見ればその数人によって構成されてると言っても過言ではないな、と。

またそれは同時に、生きる上での帰属感、安心感にもつながっていてセーフティネットになる。


  友「自分探しの旅。と言って、ひとりで何処かへ行って、誰とも接することなく、籠るのも、ちがうなあ。。と最近気づきました。

誰かがいて、こそ、自分を知ることができる。(さいきん知った。遅いけど。)」


去年、東南アジアに(象に乗りに行ったり)自分探しの旅に出かけたりしてた気がするけど、結局読みたい本を読んだり、それと自分の経験(その時の環境含め)を統合して考えてる自分がずっといて。

「他者」の定義にもさまざまな抽象度があるけど、その時の書籍は僕にとってやはり一種の他者で、作者と対話していたと言える。

自分という存在は誰かや何かをなしに語ることはできないのだろね。過去に思いを馳せるのも、未来を想像するのも、誰かがそこにいて何かがこにそあるからだし。

こんな「2人の会話」の方がいまは断然好み。
もちろん、それに勝るとも劣らない「3人の会話」にも期待して生きていく。

「2人の会話」を持てる相手の存在は、自分を見つめる画素数を上げてくれる。そんな他者に出会えたらそれはもう幸せだ。


あなたと私と私の周りにいてくれる人たちにとって小さくても何か有意義なものを紡ぐきっかけになれば嬉しいです。