本当に身につけるべきは日本画の読み方


あちこちで、「アート思考」や、「名画を楽しむ素養」など、芸術に関わる学びの必要性が声高に叫ばれている。

前者のような抽象化された方法論はにはそこまで違和感を感じない。それらはあくまでツールだから対象は多岐に渡り、私たちの思考の幅を広めるという意味で人生を豊かにしてくれる可能性のあるものだと思うから。

ただ後者については強い違和感を感じる。こうした書籍のほとんどで言われる「名画」は基本的に西洋絵画を指している。そして、誤解を恐れず端的に言うなら、それらの前提はキリスト教世界である。


「そうした知識を入れることで欧米のビジネスパーソンと対等に話をすることができる!」


文化を理解しようとする態度は否定しないが、そこに文化上の優劣意識があり、その劣等感を払拭し、(表面的に)肩を並べるのが目的であれば、これほど虚しいことはないと感じる。

まずは相手の土俵で肩を並べてから、その上で自文化に目を向けよう。それも向上心があっていいかもしれないが、順序としては逆な気もする。


えば、独立した男女(男男、女女でも良いが)個人の意識なしに良好なパートナーシップが築かれないように、確立した自己なしに成熟した関係は成立しない。異文化間においては、それは特に顕著であろう。

もし本当の意味でお互いを尊重しあえる関係を築きたいと願うならば、まずは己がどのように形成されているのかに目を配るべきだと思う。

それは自己の背景にある広義の文化(民族、芸術、歴史、etc)の理解であり、自己を形作ってきた経験的要素(育った環境、交友関係、触れてきた考え)とも向き合い続けることで少しずつではあるが理解を深めていくことができる。

その過程で興味の湧いたものや人から派生する諸民族、諸外国、諸文化、諸価値観などにも思いを巡らせていけば、さらに深い洞察と感銘を得られることだろう。結果、起点に戻って、自己への理解と自己への尊厳が深まるだろう。



自分を尊重できない人間が他者を尊重できないのと同じ道理がここにはある。


界がボーダレス化し、混沌を増していく中で、自分という存在を定義することはますます難しくなっていく。その中で、この観点はますます求められるようになるだろう。

環境が混沌化していけばいくほど、自分の立ち位置が大事になる。
そこで必要なのは、自己肯定感ではなく自尊心(自己尊厳)だろう。



「自己肯定感は環境依存的で瞬間的。尊厳、dignity は自己完結的。」
宮台真司さんがこんなことを言っていた。



人に与えられた尊厳は他人に求めるしかない。その繰り返しではいつまでたっても自立することなんてできない。他人の世界を生きることしかできない。冒頭で述べた西洋世界に間借りしている状態も同様だろう。

自らの生命を生きようと願うなら、しんどくても方法は一つしかない。
まずは自分とその文脈と徹底的に向き合い心を通わせること。正の面も負の面も、まずは見つめることから。



自己を紐解き、
世界と関係を紡いでいく。



簡単ではないが、そうすることによってしか本当の生きがい(幸福)は得られない、そう思うのだ。


「相対的幸福論」については以下にも。
https://note.com/2460/n/n37e2eedf4762

あなたと私と私の周りにいてくれる人たちにとって小さくても何か有意義なものを紡ぐきっかけになれば嬉しいです。