A型インフルエンザでhappy ー相対的幸福論への誘い

昨日、2度目の検査でA型インフルエンザを発症していたことが発覚。でもそれを幸せに感じる私がそこにはいた。

先生も「悲しいんだか嬉しいんだかですね」

中国の友人は“不幸中的万幸(不幸中の幸い中の幸い”だねと。

そう、今回のインフルエンザの陽性反応は同時にコロナ肺炎の陰性反応という結論を私にもたらした。もちろん、インフルエンザじゃないからといって同時にコロナ肺炎を発症していないというのはロジック的には穴だらけだけど、それでも私はだいぶ救われた気持ちになった。

幸福は相対的なものだ。絶対的な幸せなんてない。状況が変われば不幸な出来事も幸福な出来事として捉えられる。幸福を認識するためにはむしろ不幸の感覚が必要になる。

「どん底を知った戦後復興に携わった世代にはもう上るしかない」的なものにも共通する部分があるだろうか。あの世代はある意味幸福だと言われる。何もない時代に生まれたことで、努力の方向が常に明確にあり、何かがあることの幸せを存分に享受できた、という意味でだ。

今の若者(私もそうだが)は、ある程度物質的に満たされた環境に生まれたために「ない」ことの不幸を知らない人が多い。結果的に、何をもって幸福なのかも感じづらく、日々幸せとは何かを考えてしまう。そういう意味では、不幸がないことで、幸福を得られなくなるというパラドックスに陥っていると言える。

「苦労は買ってでもしろ」とは良く言ったものだが、苦労が美しいからとか、経験になるとかそう言った類のものではないと思う。自分を絶望させる、とまでは行かないが、大変な思いをすることで、何気ない日常が尊さを帯びてくるのだ。

自分の中で「大きな苦労」だと思っていることに身を投じてみるとその感覚が少しわかる。例えば何か新しい未知の領域にチャレンジするのもいいだろう。そうすることで新たな視界が開け、自分にはまだまだたくさんできることがあるのだと気づく。

昨今、こうしたマインドが推奨されるのは「変化の速いリスクの高い」世の中だからではなく、皆がそもそも幸福を感じにくくなっているからではないだろうか。好きなことで生きていくには相応の覚悟がいる。なぜなら、自分がやっていて楽しいと感じることの多くは娯楽的で、自己満足的で、他人に価値を見出してもらうのが難しいからだ。

それでも、その中で自分なりのリスクをとっていくことで、満たされる、幸福を感じられるのではないだろうか。思えば前田裕二さんなど(他にもいっぱいいる印象だが今は思い出せない)、新進気鋭の起業家たちには往々にして幼少期に圧倒的な辛酸を舐めている人が多いと、兼ねてから思っていた。彼らはその「不幸感」、「不安定感」を有していたという経験が故に、それを補うための当たり前のこととして、新しいことにチャレンジするマインドが強いのではないだろうか。

「そんな苦労わざわざ自分からしなくても」と思うかもしれない。苦労は幸福を感じるために欠かせないものなんだ、だから私たちは挑戦し、考え続け、時に疲弊するべきなんだ。そんな相対的幸福論。

あなたと私と私の周りにいてくれる人たちにとって小さくても何か有意義なものを紡ぐきっかけになれば嬉しいです。