神様だって環境依存的
香港のスターバックスで店員さんがやけにアグレッシブ(毅然とした態度)だった時の話。
近くのチョンキンマンション(まさに安価な移民労働力が集団生活をしている場所)で移民を対象にしたフィールドワークを行っている文化人類学者を待っている間、とりあえずは何も頼まずに座っていると、店員さんがテーブルの傍までやって来る。少し訝しく思ってそちらに目をやると
「飲食をしていない間はマスクを着用してください」
遠慮のない淡々とした口調だった。かれこれ4年目に入る香港生活でこうした直接的な物言いには慣れていたし、今ではそのほうが清々しくて楽だと思っているが、日本だとどうなるだろうか、と思いを巡らせてみた。
お客さんがすごい剣幕で怒りだす、或いは明らかに不機嫌さを前面に出すような状況が目に浮かんだ。みんながそうではないが、不機嫌さを露骨に出す人が結構いるのじゃないかと思った。
それは日本で
「客 > 店」
という力関係があからさまだからではないだろうか。
国内の日本礼讃テレビ番組でよく取り上げられるように、よく言えばホスピタリティ意識が高くサービスが良いとも言えるけど、逆に言えば店が卑屈になり過ぎる、あるいは客側が自分は王様だと言わんばかりにふんぞりかえっている現れとも取れる。
*以前に全国ネットのテレビ局のディレクター2人と話したときに「今日本では『日本のここが素晴らしい!』系の番組が確実に数字取れるんですよ」と言っていた。
さて、三波春夫さんの有名なことばに「お客様は神様です」があるが、日本人と香港人(あくまで一例であり、そうでない人ももちろんいる。自由の国アメリカにも超保守的な人がいるのと同じ)のマインドの違いはこの言葉の捉え方にあるのではないかと思っている。
この言葉は「お客様(相手)を神様のように尊重しよう」という文脈で言われたものだが、なぜ今の世の中においてはそれがうまく機能せず、むしろ我が物顔のクレーマーを増やす事態になっていないだろうか。
もともと「お客様は神様」の主体は店側で、店側のおもてなしの心遣いを表したスローガン(?)だった。ところがこの表現が浸透していくにつれて、もてなす側の店だけでなく、もてなされる側の客もが同じ言葉を口にし出した。
「お客様(=私)は神様です」
そう言い放つ人の前では、もともと相手から主体的に発せられた好意は一瞬のうちに商品化された義務に姿を変える。どんなに尊い、気遣いに溢れた好意も、そのもてなしを受ける側が感謝することを忘れた瞬間に本来の意味を失ってしまうのだ。
どうも日本のサービス現場はこんな違和感に溢れている気がしてならない。真のホスピタリティの現場は、誰かが一方的に作るものではなく、そこに参与する複数人が一緒に作り上げるものだろう。
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言い換えれば、誰しも「神さま」になれるとも言える。
見る者のスタンス次第で、相手は神にも仏にも悪魔にもなる。
「お友達のいいところを見つけましょうね」あれと同じだ。
宗教観の対立に目をやるならば、つまるところ、自分にとっての神が神なのだ。他人にとっての神が何かなんて干渉しようがない。それはエゴというものだろう。あまりにも統一的な価値観の怖さはここにある。
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閑話休題。あまり過度な一般化はできないが、香港や中国の、特に地元の(行列店でもない普通の)お店で食事をしていると、むしろ「店の方が上なのでは?」と感じることもあるが、個人的にはむしろ、そうした価値を提供してくれる作り手の方が享受する側の消費者より上にいてちょうどいい、と思っている。
汗を流して何かを生み出す(作り上げる)行為は尊い。この意味でも、子育てしながら家事をこなし見えない価値を日々あふれんばかりに生み出している世の母親の偉大さには頭が上がらない。
何かが品切れしているからと言って店側が必要以上に悪びれることもないし、かといって偉そうでもない。用がないときは店員もしっかり寛ぐ。この営みは、そこにある限られた資源をごく自然に共に享受しているとも言えないだろうか。
こうした店に行くと、命に限りがあるように、資源にも、富にも、そして人の気遣いにだって限りがある、という知足の意識を感じるのだ。
市場主義が成熟した都市部に行けば行くほど、その自然な営みは崩れて、商品経済が跋扈している。香港、東京、上海、ニューヨーク、パリ、いわゆる大都市に行くとその町の表情が見えてこないのも同じ道理だろうか。
「場」はお互いの存在によって成り立っている。
コミュニケーションは、仕手と受け手との相互作用によって成り立っている。
そこに上下関係はなく、相補的な持ちつ持たれつの関係がそこにはある。これを食事の場に置き換えて考えると、(対価の発生に関わらず)客側が店のお陰で食事にありつくことができるという事実があり、また同時に客の存在によって店が提供するという行為を達成できるという事実がある。
そこに貴賎の差はないだろう。ボランティアだってそう、提供される行為は確かに尊いが、同時にその行為は、例えば被災者という受け手の存在によって初めて成り立つものでもある。
誰一人として、一人では回っていない。生き物は良くも悪くも環境依存的だ。
あなたと私と私の周りにいてくれる人たちにとって小さくても何か有意義なものを紡ぐきっかけになれば嬉しいです。