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真夏の飛梅

私は彼から逃げだした。
その瞬間までまだ彼を愛しているのだと思っていた。台風の翌朝、よく晴れた空。これなら間違いなく私はここから出ていけるのだ、とベランダから見る最後の景色を見て飼い猫をバスケットにいれた。

私たちはおよそ13年半、一緒に暮らした。正式に夫婦になったのは一昨年の12月半ばの寒い夜だった。
「オレ、指環が買えない」苦しそうに言った一言。
「そんなもの、いらないから」
互いの仕事が終わり、時間外に婚姻届けを出したクリスマスの少し前の夜。

果てしないDV、何回も繰り返した110番通報。それでも私は彼と一緒にいたかった。

私はなんてバカな女なんだろう。この人は昔の女と連絡を取り合いその女性の心配なんてしているではないか。
私にも乳ガンの疑いがあるのに、てめえの女房が泣いているのに。

愛猫のガン闘病がきっかけで寝室を別にしてからひどいすれ違いが続いた。
そして、猫を見送り私の中にぽっかり穴が空いてしまった。
隣に誰もいないダブルベッド。一人きりの混沌の中、早朝眠りに就く毎日。

私は生まれてはじめて土下座をした。
「お願い、話をしてください」
ヘッドフォンをして笑いながらテレビを観ている彼は知らん顔をしている。
泣いてテレビとデッキのコンセントを一気に引き抜いた私に
「おまえ!えらいことしてくれたな?ええ?」
私よりもテレビが大切なのか、と絶句した。彼に何通も手紙を書いた。それはことごとくカウンターの隅に放置されていた。
彼は「出ていけ」「部屋に入るな」「邪魔するな」「だからおまえはバツがつくんじゃあ!」決定的な一言。それでもまだ彼を諦めきれなかった。
お願い、話をして!と泣いてすがる私の指はドアに挟まれて爪が割れてしまった。

私は睡眠薬を常用している。地獄が続く日の中で疲労で真夜中全裸でキッチンに倒れて朝を迎えた。寒い、体が痛い、と目を開けたら彼は隣で知らん顔して煙草を喫っている。こちらを見ようともしない。
「やっぱり出ていこう」
決心した朝だった。この人と一緒にいてはいけないのだ、互いのためにならない。そして私の心にはもう1つの愛が生まれつつ、それも捨てる気でいた。全部リセットして人生をやり直ししてやる、そう思っていた。

少しずつサイズの合わなくなった洋服などを処分していらないものの整理を始めた。私はお金がなかった。行く宛もない。真夜中、ネットで一人で暮らせる猫の飼えるアパートを探した。纏まったお金などはないから引越業者を頼めなかった。捨てる段ボール箱などに荷物を詰めて、足らない箱はホームセンターで少しずつ買い足した。
職場に「今月いっぱいで辞めます」と告げ、全く知らない町を選び、彼に悟られないように何回かに分けて荷物を送った。

左手薬指には昔彼に買ってもらったポージーリングをつけたままマンションの鍵を下駄箱の上において猫の入ったバスケットを下げて。
置き手紙を残して忽然と私は消えた。
彼が買ってくれたパーカーを丸めて空港のゴミ箱に泣きながらそれを押し込んだ。

飛行機は台風一過の空、1時間遅れて離陸した。

さよなら・・九州。それからあなた。

もう、ここには帰らないのだ、最後に見る故郷なのだと空からの懐かしい海を眺めて唇を噛み締めて必死で嗚咽をこらえた。サングラスの中で涙が溢れて懐かしい愛しい人たちの顔が次々に浮かんでは消え、一緒に飛行機に搭乗した茶トラの愛猫が気になりただでさえ不安定な私の心にピシピシひびが入った。

赤いスーツケース、猫を入れたバスケット。
前だけを向いて羽田に降り立った私はもう振り向いてはいけないのだ、と。前に進むしかないのだ、と。

・・・。あれは真夏のこと。

もうすぐクリスマスがやってくる。あの人の誕生日がやってくる。

出奔先で騙され、現在の恋人の「うちにおいで、帰ってきなさい、貴女は危ない。猫ちゃんも一緒に」の優しい一言でたった一晩で、一夜で飛梅の如く故郷に舞い戻ってしまった私にもいつか「忘れる」ってクリスマスプレゼントが届くのかしら、とかじかんだ指先を見つめてあの嵐の夏の日を思い出している。

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