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【長文御免】だから、自己紹介するのは苦手なのだ!

子供の頃、極度のあがり症だった。

とにかく大勢の人が注目する場で発言するのが苦手。

苦手というよりは、もはや恐怖で、頭の中が真っ白になってしまい、言葉が何も出てこなくなるのだった。

だった、と過去のように言うが、50歳の今もやっぱり人前で話しをするのは苦手で、これが自分の本質だと諦めている。

話す声が小さく「何を言っているのか全然わからない」とよく言われ、萎縮して益々声が小さくなって行った。

扁桃腺が通常の人よりも大きくて、耳鼻咽喉科の先生は初見でどの先生も驚いていた。

喉の気道が狭くて声が出しづらいのだ。

加えて、万年の鼻炎にも悩まされて鼻腔も狭く、点鼻薬は手離せない体質。

子供の頃から声を発しづらいのが、大きなコンプレックスになっていた。

非常におとなしい子供として過ごしたわけだが、おとなしい上に運動も苦手だった。

50m走では簡単に女子に負けてしまい、何年生になってもクラスの中では下から数えた方が早かった。

瞬発力も持久力もない。

何より元気がなかった。

運動に加えて、更には勉強はもっと苦手だった。

そんなボクを心配して、親は学習塾や英会話教室、そろばん等、色々な習い事をさせてくれたが、身になるものは何ひとつ無かった。

全てを無駄にしてきたのだった。

まるで…

のび太のようだ。

社交不安障害の「のび太」

のび太は情けないところも多いが、社交的ではあり、下手ながらもジャイアンたちと草野球に参加したりする。

だけど、社交不安障害の「のび太」は、友達と遊ぶこともなく、のび太以上に取り柄の無い人間のように感じる。

このまま大人になったら、どんな情けない大人になるのだろうという漠とした不安に苛まれながら過ごした幼少期だった。

中学になって、それでも仲が良い友達はできた。

ある日、友達の前で歌を歌って聴かせるというようなことがあった。

中学入学と同時に洋楽にのめり込んで、wham!の歌を適当な英語で歌っていたように思う。

鼻歌のような歌を歌い、友達は静かにじっと聴いてくれて、手放しで褒めてくれた。

自分は人と比べて歌は上手い。

劣等感しか無かった自分にとって、唯一誇れるものが見つかった気がした。

才能とは何も努力しないでも他者より秀でているもの

タレントの林先生が言っていたけど、そんな感じだった。

高校に入ってすぐ、軽音楽部に入ってバンドを組んだ。

なんと、あがり症のボクが、ボーカルを務めることになったのだ。

社交不安障害のボクが、である。

ボクにとっては大きな転機となった。

人前で話すことができない人間でも、不思議と人前で歌うことはできた。

自分を表現する唯一の方法が、ボクにとっては歌うことだったのだ。

歌の他にボクの自尊心をくすぐったものがある。

高校2年のとき。

相変わらず勉強は苦手だったし、まったく興味も持てなかったから、成績はいつも進級できるギリギリだった。

当然、夏休みの宿題などやるはずが無かった。

いつも通り未提出で済まして教室を出ようとすると、担任の先生に呼び止められた。

彼女は国語の先生で、夏休みの課題の読書感想文が未提出なのを許してはくれず、放課後に図書室に居残って書き上げなさいと指導された。

一から本を読んでいては、いつ帰れるのやらわからない。

そのとき、咄嗟の機転が働いて、先生の知らない架空の小説を設定して、その小説に対して感想文を書くことを思いついた。

ならば1時間以内に書けそうだ。

予定通り1時間で書き上げて、恐る恐る先生に提出した。

先生はその場で、険しい顔をしながら目を通し…

しばらくしてから、予想外にも爆笑したのだった。

「あなたには文才がある。こんな成績なのが信じられない」

きっとこの瞬間、はじめて勉強をして褒められたように思う。

後日、先生から数冊の文庫本をいただき、これを読みなさいと言われた。

そのときにいただいた本は、今もボクの書棚にある。

すごく嬉しかったのだと思う。

高校3年の夏。

大学受験のための全国模試を受けてみると、偏差値38だった。

今の基準はよくわからないが、偏差値38といえば、競争が激しい団塊ジュニア世代にとっては、どんなFランク大学も合格できない学力だった。

結局、バンド活動が忙しいのを言い訳にして、高校3年のときに大学受験はしなかった。

例え受験していたとしても、どこにも入れなかっただろうが。

高校を卒業してしばらく、バイトしながらぶらぶらとしていた。

フリーターという新しいライフスタイルが流行り、日本の企業戦士、猛烈社員がいかに疲弊するかに社会が気づきはじめた時代。

毎日、くたびれ切った顔で満員電車に揺られる彼らを見ては、

自分は死んでも同じにはなりたくない!と思っていた。

フリーターというのは、自然な流れだったように思う。

それでも6月頃になって、やっぱり大学に行きたいと思うようになった。

偏差値38のボクが、である。

何の根拠も無かったが、自分はやれそうな気がしていたのは、いつか先生に褒められた一言が、今に思い返せば大きかったのではないかと思う。

まさに恩師だ。

1年浪人する形となったが、無事大学に進学することができた。

大学に入っていよいよブンガクするぞ!と意気込んでいたが、なんと、うちの大学には文芸部がなかった。

このとき、こう思った。

無いものは自分たちで作ればいい

かくして、文芸サークルを同志5人で立ち上げることになったのだった。

サークル名を「創作文藝会」として、ボクが初代会長を務めた。

同人誌を年間4回ほど発行したり読書会を開いたり、文学に明け暮れた時間を過ごした。

バンド活動は高校3年間で区切りをつけ、どんどん文学にのめり込むようになっていった。

どうしようもなく下手だったけれど、夢中になってやりたいことを爆発させていた頃。

そのうち、同人誌に記事を投稿するため、海外放浪の旅をはじめた。

大学2年の夏、生まれてはじめての海外旅行で中国へ。

2週間の行程で上海〜北京〜南京を歩いて、南京港から3日かけて神戸港へと帰った。

その年の冬にはオーストラリアで1ヶ月のホームステイを体験。

翌年にはインド、ネパールをあてもなく40日間放浪。

インド帰りの空港検疫で、法定伝染の赤痢が発覚して、そのまま強制的に神戸の隔離病棟に放り込まれ、2週間監禁された。

当時、インド帰りの大学生から赤痢菌発見!と全国紙に掲載されるほどの大事件になった。

寿司屋を営んでいた親父からは当然、大目玉を食らった。

従業員は青ざめたという。

馬鹿野郎!風評被害が一番こわいのだと。

家族や従業員に大変な迷惑をかけて、ひとり落ち込んでいたあの夏。

それでも、隔離病棟の中で、次なる旅のプランを練ったのだった。

翌年、大学を休学して半年間アルバイトをして資金を作り、3カ月間の欧州放浪へ旅立った。

90日間、スペイン~フランス~イタリアを回った。

航空チケットを含めて、かかった費用の全ては約80万。

今の物価からすると破格の安さだった。

日本がまだ豊かだった時代。

その恩恵を受けていた。

その後、4年間通った大学を中退してしまうなど、紆余曲折あって現在に至る。

下手に世界を知ってしまったばかりに、ブラックすぎる会社員としての生活を受け入れるのには、本当に苦労した。

妻子ができなければ、今頃は根無し草になっていたのではないか?

家族の存在が、自分をなんとか真っ当な人間に押しとどめたといってもいい。

アッパーからディスカウントまで、様々な業態のスーパーマーケット店長を15年勤めてから、食品バイヤーになって3年。

今に至る。

京都、金沢、札幌と転勤で各地を転々として、全てが順風満帆というわけではなかったが、それなりに確かな歩みをしてきたつもりだ。

想い出したくもない、情けない子供時代を経て、コミュ障だったボクがバンドのボーカルを務めたり、サークルを立ち上げたり、一人で海外放浪したり。

コミュ障だったボクが、対面で接客をする店舗スタッフになり、そのうち店長を任され、そしてバイヤーになった。

頑張ってきたんだなあ・・というような実感は何もないが、振り返ってみれば色んなことがあったなあと懐かしく思う。

人前で話ができない自分も、ステージでシャウトする自分も。

出不精の自分も、辺境を放浪している自分も。

孤独が好きな自分と、仲間とひとつになりたい自分もいる。

同じひとつの自分として、今は全てを受け入れられる。

これら全てが、誇るべきボクの本質なのだ。



・・ついつい、長文になってしまって申し訳ない。

だから自己紹介は苦手なんだ。

ここまで読んでいただいて本当にありがとう👍


あっ、忘れてた。

〜ボクのHNの由来〜

頼人(らいど)
頼られる人と頼る人。人と人は助け合って、支え合って、生きてゆく世の中こそが素晴らしいという想いを込めて、僭越ながら名乗らせていただいています。

全ての人へ、全ての生命に、幸あれ


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