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夢はもう、夢じゃない。だから、今はどうかまだ、さめないゆめを。

「ゲーム会社に入って、何ができるんだ。ゲームでも作るのか」


嘲笑交じりの大きな声が、放課後の静まりかえった教室に響く。


ただ、理想を語った。夢を語った。しかし担任にとっては、高校2年生の夏の個人面談で、まだそんな夢物語を描いている緊張感のなさに呆れかえったのだろう。

それも、遊びでしかない「ゲーム」という単語が飛び出てきて、真面目にどこの大学を目指すのか話す予定だった担任からすると、頭を抱えるしかなかったのだと思う。


そもそも、就職希望の生徒が特進クラスにいること自体がおかしい。そんなことはわかっている。

私自身、1年生の末、クラス選択の時までは漠然と大学に行く気持ちでいた。でも、よくよく考えてみれば特別何かの勉強がしたいわけでもなく、ただの通過点として大金をはたいて大学に行くほど家が裕福なわけではなかった。

もちろん、バイトで貯めて自腹で行くという選択肢もない。だから、いよいよ進路を真剣に考え始める時期になっても根無し草のように、ふわふわとした意識しか持っていなかった。




当時、私はゲームセンターに設置されているアーケードゲームタイプの音楽ゲーム(音ゲー)にハマっていた。

その音ゲーは、今ではそう珍しくないが当時からすると珍しく公式SNSでのユーザーとの距離が近いタイプの運営で、ユーザーと交流を取りながらゲームを盛り上げていこう、という姿勢のいわゆるユーザーフレンドリーと呼ばれる運営だった。


ユーザーと触れ合いながら潜在的なニーズを引き出し、ユーザーと楽しみながら、時には悪ふざけもしつつ、和気あいあいとゲームを盛り上げようという姿勢が、当時の私には新鮮で、かつキラキラして見えたのだ。

良いものを作ろうという姿勢。ユーザーと一緒に楽しもうという姿勢。誰かに楽しんでもらえるように、全力で答えようと頑張っている姿勢。

ゲームでここまで熱くなれる大人がいるんだ、と当時の私は圧巻した。


そして、いつからか「この人たちのようになりたい」と思うようになった。


一口にゲーム業界に入ると言っても、その業務形態はまさに千差万別。文系である自分にゲームを作るのは難しいだろうから、だったら開発側とユーザー側の橋渡しをする、広報がいいんじゃないか。

文章を書くのは好き。人と交流するのは好き。インターネットが普及し始めたばかりだったあの頃、情報は今ほど出回ってはいなかったけれど、それでも先人たちが書き残した道筋を辿りながら、ぼんやりとした理想を抱いていた。




秒針の音が、やけにうるさく、無慈悲に響く。嘲笑うかのように含み笑いを浮かべた担任の顔が思い浮かび、私はうつむいたまま小さくつぶやいた。


「ゲームの広報として、ゲーム会社に就職したいんです」


情けなく震えた小さな声が、力なく空中分解されていく。

わざとらしく大きく腕を組みなおし、大きなため息を1つついてから担任は口を開いた。


「広報がどんな仕事か知っているのか?どういう資格が必要で、どういう学部に進んで、そこからどうやって就職するのかまで調べたのか?」


まくし立てるように、唾を飛ばしながら話す担任の声が、だんだんと遠くなっていく。もう、その後何を言われたのか、どうやって帰ったのかすら覚えていない。



ただ、夢を否定された。その事実が、私の夢を殺してしまった。





その夏、私は病気になった。治らない病と言われ、絶望した。

病名が告げられた時は、とりあえずの治療でこの苦しみからは解放される、という思いだった。

家族も友人も学校も最低限の配慮をするけれど、いつも通り接してくれたのが救いだったが、やはり進路の面では慎重になっているのか、あれ以降深く追求してくることはなかった。


病気を患った私の将来を憂いた両親は、私に公務員の道を提示した。

「いい子」だった私は、病気の私を受け入れてくれるところなんて行政ぐらいしかないと思っていたので、素直に聞き入れた。


担任もあれから尻を叩かなくなっていたので、実際に動き始めたのは2年生の3学期だった。

しかし、それが遅すぎると気づいたのは、専門学校で高校生向けに開催されている公務員試験対策の講座に通い始めてからだった。

周りの子たちは指定校推薦狙いでスタートダッシュがやや遅いのもあり、公務員志望の子がいなかったので波に乗り遅れてしまったというのもある。


公務員試験は、大学入試とは異なる問題形式だ。一般教養問題と呼ばれる問題は初めて見るものばかりだったし、基礎教養レベルの問題でも普段使わないから忘れてしまっているものばかりで、とにかく短期間で知識を詰め込まなければいけなかった。


友達が遊んでいる中、私は毎日テスト勉強と試験勉強に取り組んでいた。週末は公務員講座を受けに行った。勉強漬けの生活が続き、模試や第一志望ではない本試験も模試として受けた。

授業後は苦手な教科を担当している先生に、質問しに行った。公務員試験の内容でも快く教えてくれたので、時間が許す限りマンツーマンで教えてもらった。

担任や仲の良い先生、少し厳しい先生などにお願いして、面接練習にも付き合ってもらった。

「〇〇さんなら大丈夫!」何人もの先生に背中を押してもらった。


そして、いよいよ本番の時が来た。


放課の合間に、スマホで結果を確認した。耳の後ろに心臓があると錯覚するぐらい、バクバクとうるさかった。

震える指で、合格発表のページをスクロールする。



私の受験番号は、そこには記載されていなかった。



何人もの期待を背負って臨んだ試験は、叶わない結果となってしまった。

「頑張って」って言ってくれた人の期待を、私は踏みにじったまま消えるように卒業した。




当時の私は、まだ負けず嫌いというマインドがあり、公務員試験を諦めてはいなかった。

公務員試験は、筆記試験と面接試験の合計点で合否が決まる。面接が苦手な私はとりあえず筆記で満点を叩きだせば受かるのでは、という安直な考えで再度公務員試験にチャレンジすることにした。


今思うと、なんとなく公務員に、というのが見透かされていたのかもしれないけれど。


高校を卒業して、資格を取り扱う専門学校の社会人講座を受講しながらバイトをする日々が始まった。

専門学校に通えばいいのでは、と言われることもあったが、専門学校で決められた時間で通うよりも、社会人講座の方が大学のように好きにカリキュラムを組めるし、何より通院のせいで休みになるのも癪だし、勉強しに行ってるのにクラスメイトと仲良くなるのも煩わしかったからだ。


最初の方は、高校生の時のモチベーションを維持できていた。しかし、やはり周りからのプレッシャーと、自分自身がかけるプレッシャーが私の心をどんどん蝕んでいっていた。


『受からなければ終わり』


脳裏にずっと焼き付いて離れない言葉。だんだんと息がしづらくなり、身体の痛みが増えていった。


試験勉強も佳境に入った頃、私はパニック障害のような症状に見舞われた。突然の動悸と息苦しさ、ぼんやりとした頭。早く解放されたい、という気持ちから、何に対しても意欲的に取り組むことが少なくなった。

病院に行ったけれど、カウンセリングだけで大した解決にならなかった。決して多くないバイト代では、話に行くだけなのにお金を使うのは無意味だと感じ、通院はしなかった。


そして、私は他人に温もりを求めた。暇つぶしアプリで会った男の子たちに、心の隙間を埋めてもらおうとした。

誰かに必要とされていたかった。認めて欲しかった。「何者か」になりたかった。


このままいっそ壊れちゃえばいいのに。そう思いながら、何度も何度も身体を重ねた。

身体を重ねている間は、私を必要としてくれるから。私は陳腐な愛の真似事に、現実逃避をするかのように陶酔していった。




試験勉強の合間に逢瀬を重ねていたので、学力試験に影響はなかった。面接も去年よりはしっかり受け答えができた。


試験結果が発表される日、父にお願いして市役所まで連れていってもらい、直接結果を見に行った。



なぜだか、2回めの試験ということもあり、筆記試験の時も、面接試験の時も、結果を見に行く日も妙に心が落ち着いていた。謎の自信が、私の心を埋め尽くしていた。

試験結果を聞く部屋に入室し、中にいる職員に受験番号を告げる。



期待に満ちた心で、裏返しで渡された紙をめくる。

私の期待とは裏腹に、職員から手渡された紙にはまたしても私の受験番号はなかった。



心配そうに見ていた父の顔を見ながらかぶりを振る。そのまま、無言で車まで戻った。

帰りの車では、父がぽつり、ぽつりと慰めるように何かを言っていた。


調べてみると、その年は2人しか採用しなかったらしい。

狭き門だということはわかっていた。そして、単願にした私にも責任はある。


「今年は2人しか採ってないんだって!去年は5人だったのにね~!去年受かればよかったなぁ~!」


父を心配させないように、きわめて明るく後部座席から告げる。

もう、この地獄は味わいたくない。


家に帰ってから、結果がダメだったことを母にも告げる。

そして、私は車の中でまとめた自分の意見を両親に伝えた。

「もう、公務員試験にはチャレンジしない」、と。


母には何度も説得されたが、私の意思が揺らぐことはなかった。




試験結果を見に行った日から、私の燃え尽き具合は加速していた。

ぼーっとしている時間も増え、何をしたいのかもわからないまま、ただただ日々を消費していた。

父も母も、最初の方はそっとしておいてくれた。時間が経つと母はたびたび小言を言ってきたが、私の心には何も響かなかった。


身体を重ねる行為が虚しくなって、件の男の子たちとも会わなくなっており、家とバイト先の行き来しかしない日々が続いた。


さすがにそろそろ考えないと、と動き始めたのは、年の瀬が近づいてきたあたりだったと思う。ハローワークに足を運び、難病のことをオープンで就職活動を始めた。


ハローワークの職員は、親身になって就職を支援してくれた。難病のことを企業に伝えると断られるケースもあったが、唯一承諾して面接に来て欲しい、と言ってくれた企業がいた。

その会社は広告代理店で、高校生向けの企業紹介の雑誌を制作するといった仕事内容が記載されていた。


事務にしては給料が悪くなく、何より家から通いやすい。とにかく就職し、実家を出たいという気持ちがあった私は、即座に面接の予約をした。


一般企業の就活は初めてということもあり、中途採用ということもあったので、勝手がわからず四苦八苦したが、履歴書や簡単な面接対策を経て面接に挑んだ。

面接は終始和やかに進んだ。2人で面接されたが、そのうちの1人が私の直属の上司、先輩となった。面接時も出迎えてくれ、言葉に詰まった時などはフォローを入れてくれた、心優しい人だ。


結果的にこの会社に採用してもらえたのだが、実はひと悶着があった。というのも、私は最初不合格だったのだ。

年が明け、いよいよ初出勤、というタイミングで、採用した人がドタキャンしたらしい。急遽、次点で印象が良かった私に声がかかったわけである。


不合格の連絡を受けた時は、正直「まぁそんなうまくいかないよな、年明けから頑張ろう」という気持ちだったが、年明け早々思ってもいない朗報が舞い込んできたので、雇用契約書を確認してから回答を出した。



それが、人生のターニングポイントとなることを、私はまだ知らなかった。




初出勤日、昼から出社して欲しいという指示でオフィスに出勤する。

時間が時間だったのでお昼を済ませてから出社したのだが、先輩はお昼を済ませておらず、ランチのお供をしながら簡単に1日の流れを説明された。


面接の時にも説明されたが、事務で応募したけれど営業もやって欲しい、とのこと。今日はとりあえず営業に同行して欲しい、ということだった。

相場は大体決まっているが、こういう時の「人が入るまで」というのは大体ずっと自分が担当することになる。


初めての会社で、初めての営業で、ドギマギしながら必死に先輩の後をついて回った1日。初日だったのもあり、その日はどっと疲れたのを覚えている。


それから、何度か先輩に同行して先輩の技を盗みながら営業を学び、終業後も家で資料のまとめ直しをしたり自分で虎の巻を作ったりして、先輩や上司相手に営業のシミュレーションを経て独り立ちをした。


1人で初めて営業に行った日は、先輩に同行してもらいながらだった。

言葉に詰まりながら、緊張で支離滅裂になってしまう私に、代表取締役はだんだんと表情を険しくしている。その気迫に押されて更に萎縮してしまう私に先輩がフォローを出そうとした時、とっさに私の口は馬鹿正直にこう告げていた。

今日が初めての営業であること。緊張してしまって、伝わりづらい内容になってしまったこと。わかりづらい点があれば、教えてほしいこと。


険しい顔で私の言葉を聞いていた代表取締役は、だんだんと顔をほころばせていった。そして、笑いながらこう答えてくれた。


「なんだ!初めてだったのか!それにしても、よく頑張ったね!」


俯いていた顔を思わず上げると、まるで我が子を見るかのように優しい顔で、我が子にかけるような優しい声で告げられた言葉に、開いた口が塞がらなかった。


そこからはわかりづらかった部分の補足など質疑応答タイムになり、私が堪えられるところは答え、言いよどんだところは先輩がフォローしてくれる、というように進んでいった。隣でメモを取る私を、代表はにこやかに眺めていた。

また、社員でもないただのセールス営業マンの私に、いろいろと仕事のいろはまで教えてくれたのである。


いつの間にか終業時刻を過ぎていて、夕日はかなり傾いていた。わたしが馬鹿正直に口走ったことにより和やかに進んだ面会もお開きとなった。

代表が「正直に言ってくれてありがとう」と言ってくれたこと、そして別れ際に「色々大変だろうと思うけど、頑張ってね」と背中を押してくれたことが、営業の時のお守りとなっていた。


そこからは数えきれないぐらい様々な企業に足を運んだ。もちろん、円満に面会が進んだところだけではない。舐めた態度を取られたことや、怒鳴られたこともある。そのたびに会社の外で何度も泣いた。泣きながら電車に乗り、事務所に帰った日のことを忘れたことはない。

その反面、暖かく出迎えてくれた企業のことも覚えている。鼻血を出してしまった私にありったけのティッシュをくれたこと。顔を真っ赤っかにして訪れた私に、キンキンに冷えたお茶と涼む時間をくれたこと。どれも大切な業務の時間を割いて時間を作ってくれたことに、感謝する日々だった。


営業を経て、多くの学びを得た。もちろん、営業からその後の業務でも。
本当に毎日楽しく、充実した日々を送れていた。


部署が先輩を私だけだった、ということもあり、日頃の業務も和気あいあいと進めていけたのが大きかった。自分たちの裁量である程度仕事を進めることができたし、何より自由だった。


営業のフェーズが終わってからは、取材とライティング、そして校正など制作の業務に入る。もちろん、何の知識もないしなんなら「事務とは……?」という話ではあったが、やることすべてが新鮮で楽しかったのでそんなことはとっくの昔に忘れていた。


自分の足を運んで契約を取り、自分の耳で取材をし、自分の手で文章を書き上げ、自分の目で原稿をチェックする。そして、本が実際に形になった時は、先輩と手を取り合って喜んだことを覚えている。


2冊目の発行に向けては、1回目の経験もあり比較的スムーズに進んだ。仕事にも慣れ、自分たちのペースで進めていけるので、余裕も生まれていた。

意見の不一致で会長と喧嘩したこともあったし、東京本社の上司ともひと悶着あった。でも、結局最後は仲良く業務ができていたと思う。


しかし、本社の業績は傾いており、私の病魔も度重なる疲労でなりを潜めていたはずがだんだんと姿を現し始めていた。


というのも、営業活動の名目で、業務後に社外交流会に連れ出されることもあった。夜遅くまで名刺交換会という名の食事会に出向き、いつの間にか疲労がたまっていたのもある。

1日3件名古屋市内を駆け巡って、そこから交流会となると、難病の身体には過負荷だったと今になっては思う。


雑誌の2冊目が発行された後、集められた私と先輩はもうこの仕事がなくなることを告げられた。事実上のクビだ。

グループ会社に移籍するか、それとも離職するかという2択を迫られ、私と先輩はとりあえず移籍することを選んだ。


その時の私は既に病魔が回っており、会社の昼休みに点滴を受けるほどだった。

そしてその冬、私はSLEを再燃させた。長い長い入院生活だった。




退院した後は、グループ会社での勤務が始まった。

業務形態が今までとは異なる部署で、自由が効かない身体で四苦八苦しながら業務をおこなっていたが、私と先輩がやりたいことは一向に叶わないままだった。


しびれを切らした先輩が離職する、というのを聞いた時、私も離職を決意した。先輩のいない会社に居続ける意味なんてなかった。



離職を決めた時、前の会社で取材の際に同行していたカメラマンから、仕事の紹介を受けていた。

思えば、そこからが地獄の始まりだったように思える。


退職日間近、腎盂腎炎を発症した私は最終出勤日に出勤できずに気持ち悪いまま退職となってしまい、入院することになって転職先になるはずだった企業と面会できないままでいた。

そして、退院するころには転職先は蒸発。露頭に迷うことになってしまったのである。


更に自由が効かなくなった身体で、転職活動をするのは大変だった。

筋力の落ちた足、鉛のように重たい身体。痛む全身。

例のカメラマンはマルチだったし、生活費は底を尽きて生活保護にお世話になるし、どん底にいる心地だった。


なんのために生きているんだろう。そう思い、何度も枕を濡らした。

お金がないという事実と、仕事がないという事実が、私の心を蝕んでいき、以前よりもひどいパニック障害のような症状が出てきた。


震える手で、何度も履歴書を書いた。中には、諦めたはずだったゲーム会社へ履歴書を提出したこともあった。面接で「なぜ公務員を諦めたのか」ということを小1時間ぐらい問い詰められて、過去の傷がえぐられるようで辛かった。


何とか転職した次の職場では、最初こそは良かったものの、結局女子のよくわからない妬みで嫌がらせを受け、SLEが悪化して最終的に離職した。

離職までの間、傷病手当金を受けていたが、その時の会社の対応も本当にひどかった。合理的配慮なんてものはなく、通勤に1時間以上かかる県外の企業を提案されていた。腫物扱いされているんだな、とその時は酷く落ち込んだ。


苦しくて、苦しくて、自分に何ができるのか、と考えた時に、手元に残っていたのはMacbookだった。

パソコンでできる仕事といえばライティング。そういえば、私はライターとして働いていたこともあったんだった、とホコリを被ったMacbookを見て思った。


ダメ元で、クラウドソーシングサービスに登録して仕事を探してみる。最初こそは全然見つからなかったし収入にもならなかったけど、小学生のお小遣い程度だとしてもだんだんとお金をもらえるようになってきた。

傷病手当金の満期になるころ、私の決意は固まっていた。その時は彼と同棲をしていた時期でもあり、彼が背中を押してくれたのも大きかった。


ライターとして、独立しよう。フリーランスとして、生きて行こう。

そう思い、会社からの退職勧奨を受諾した。




もちろん、フリーランスになってからも修羅の道で。

案件かと思いきやマルチに騙されかけたこともあり、安定して稼げるようになるのは夢のまた夢だと感じていた。


毎月不安定な収入、家にお金を入れられない日々が続き、暮らしが傾いていく。彼ばかりに負担はかけられないと、案件を探しながら仕事をする日々が続いた。


そんなある日、SNSでゲーム関連のB型事業所の広告を見つけた。そこはe-sportsを主体とした事業所であり、選手こそはなれないが動画編集などの裏方の部分で何かできないか、と考えた始めた。


同時期に線維筋痛症も発症し、難病を抱えながら在宅で働ける場所となると、こういった福祉施設でお金を稼ぐのも1つの手段なのではないか、と思い、即座に私は問い合わせた。何より、時給換算なのが大きかった。

通常、B型事業所は労働・作業に対して工賃が支払われるが、その工賃はスズメの涙ほどでとてもじゃないけど生活できるほどではない。基本的には、障害年金を受給しているような人が、社会との繋がりや仕事という作業をおこなう場所として提供されているようなイメージだ。


それが、時給換算で工賃がもらえる。所定の時間を週5日フルで働けば、月に10万円程度は稼げるのだ。ライター一本の給料に比べると、雲泥の差である。

時給換算だから利用日数に応じて変動するものの、決まった仕事がないということはない。どう見ても好条件に間違いはなかった。


B型事業所は福祉施設なので、利用手続きにはかなりの手間と時間を要したが、問題なく利用が開始された。

形は違えど、夢であったゲーム業界に足を踏み入れることができたのだ。当時の私は有頂天であった。


普段は、ゲームの動画編集を見よう見まねでおこなった。使い慣れない動画編集ソフトに四苦八苦していたが、Youtubeを見ながら少しずつ覚えていった。

イベントへの参加も、無理のない程度に出席した。普段は足を踏み入れることがないゲーム関連のイベントで、ブースを見て回って心が躍った。

しかし、どこかからのタイミングから、様子がおかしくなってきた。


実はe-sportsカフェとしてオープンを予定していたB型事業所だったが、運営の方針が内部で変わっていたらしい。e-sportsカフェから複合体験施設へと運営方針が変わり、e-sportsチーム兼e-sportsカフェだと思っていた私は、どんどん取り残されていく気持ちになった。

以前から感じていた現場との距離感。在宅で作業している人が取り残されていく構図に警鐘を鳴らしたが、改善されることはなかった。


そして、私はB型事業所の通所を辞めた。私のやりたいことからどんどん離れていってしまったからだ。


退路を残しておいた私は、再びフリーランスのライターとして戻った。予想とは裏腹に、どのクライアントも快く仕事を再開してくれた。

しかし、日が経つにつれて、受注する案件が少なくなってきた。依頼も以前ほど来なくなった。

焦りを感じて他のクライアントと契約しても、フェードアウトしてしまう始末だ。


時代はここ数年で変わった。在宅勤務がメジャーとなり、ライターもかなり増えた。今は飽和状態なのだろう。



また、地を這うような生活がはじまった。




ぽつり、ぽつりと継続案件が来ることもあるが、基本的には仕事がなくただゲームする日が続いていた。

そうは言うものの、数多くの案件や企業に応募している。ライターとして活動している中で、最も営業活動に力を入れていたと言っても過言ではない。

ゲームをする片手間、ゲーム配信をしたり攻略記事を書いてみたりした。


そこでふと、ゲーム関連のライティングの仕事を探すのはどうか、と考え始めた。

巷にある案件は、正直言って誰にでも書けそうな題材が多い。脱毛やガジェット、住宅系など、生活に身近な題材は当然人気が高い。

だが、ゲームとなるとどうだろう。ある特定の趣味・娯楽であり、なかなかそれを書こうと思う人は少ないのではないだろうか。


Googleの検索窓に「ゲームライター 求人」と入力してみる。何件かヒットしたゲームサイトの中から、普段からわかりやすくてお世話になっているサイトを見つけ出し、ダメ元で応募してみた。


書類選考や適正テストもかなりしっかりやる会社で、書き方を忘れた職務経歴書を調べながらなんとか書く。「こんなにしっかりやる会社で書類選考が通るのだろうか」と不安を抱えながらも、震える手で応募フォームの送信ボタンを押した。


数日後、面接に移りたいという連絡が来た。正直言って驚いた。しかし、問題は面接である。

こんなにも厳粛に書類選考や適正テストをおこなう企業なら、面接もかなり厳しいのではないか。不安を抱えながらも、聞かれそうなことや向こうから聞くかもしれないから用意しておいて、と提示された項目の回答を用意し、面接の日を迎えた。


私の不安とは裏腹に、面接は終始和やかに進んだ。話を聞いていると、わくわくとした気持ちが私の心に芽生えているのを感じる。数年前、とっくに殺したはずの気持ちが、再びうずいているように。

将来的なポジションのこともお話してくださって、仕事に対して非常に前向きになれた。キャリアアップをしたい、という潜在的な意識を引き出してくれるような、そんな面接だった。

採用されるかどうかはわからなかったが、満足感の高い面接だった。もちろん、「ゲームが好き」という共通項から話が盛り上がった、というのもあるけれど。



緊張の数日間を経て、面接の結果が通達された。

メールの通知音で、心臓がぎゅん、と締め付けられる心地がした。


震える手でスマホを開き、メールを確認する。

心臓がうるさい。頭の血管をも揺らすかのような勢いで血液が循環している。


「おねがいします、おねがいします」


懇願するつぶやきが、独りでに唇から出ていた。




結果は、「ぜひ一緒にお仕事したい」とのことだった。



嬉しさのあまり、視界が白む。よかった、よかったと、スマホを胸に抱きしめながら床に座り込んだ。


その後は事前課題と研修、というステップを踏み、先日とうとうゲームタイトルに配属された。職場の環境や人間関係も、今のところは恵まれているように感じている。

今までなんとなくで続けてきたライティングも、みっちり研修を受けたことでできていなかったことや足りなかった知識を補填でき、ようやくライターとしても再スタートをきれたのではないかと思う。

今はスピード感のあるタイトルに配属されていて、休日返上で対応するなど忙しい日々を送っているが、ここが頑張り時だと思って体調と相談しながら日々業務に励んでいる。




今まで本当に苦しかった。もがいて、あがいて、みじめな気持ちでいっぱいだった。

どうしたらうまくいくのだろう、と悩んだ日々は、数えきれないほどだ。

でも、今までのことは無駄じゃなかった。あの時、あの会社でライティングをしていなければ、ゲームと繋がりのある仕事に就けなかっただろう。


もちろん、業務形態は業務委託であるわけだから、いつ切られるかわからない身分ではあるのだけれど。

少なくとも、夢はもう、夢ではなくなった。



今度こそは長く続けていきたい。

ようやく入れた夢のゲーム業界で、ライターとして生きていきたい。

諦めて殺した夢を、もう一度だけ見させて欲しい。



だから、今はどうかまだ、さめないゆめを。




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