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夢をなぞって|#2

すっかり暗くなった空を背負い、自宅に帰る。
あんなことがあった後だ。なんだか家に入るのにひどく緊張してしまった。

なんども玄関のドアノブに手を伸ばし、ためらい、手を下ろすという動作を繰り返した末、ようやくドアを開けることができた。


暖かい空気とともに、「おねーちゃんおかえり!!!」という大きな声と柔らかい衝撃がわたしのおなかを襲う。

小さな弟がわたしの腰に腕を巻きつけ、まるでお猿さんのようにくっついてきた。


まっすぐにわたしを見上げる弟が可愛くて、そっと頭を撫でた。
その様子を見て、キッチンから顔を覗かせた母も柔らかく微笑む。


「おかえり、寒かったでしょう。今日はカレーだよ」


エプロンで手を拭いながら、そう母が声をかける。
なんだか母の顔を見るのが気まずくて、ぎこちなく返事をした。


夕食は、父抜きの3人で済ます。繁忙期とやらで、終電ギリギリで帰ってくる日々が続いていた。
弟は、小学校であったことやゲームの話を延々と語り続け、母はやさしく相槌を打ちながら、弟の話に耳を傾けていた。

いつもどおりの夕食の光景だが、わたしの気持ちはなんだか落ち着かなかった。


夕飯を終え、自室に戻る前にふと、母の書斎を盗み見る。
きっと納期が近いのだろう。デスクはとっ散らかり、床はさまざまな書類によって覆い尽くされていた。


しばし逡巡したのち、くるりと踵を返してキッチンに戻ると、母が少し疲れた顔をして洗い物を始めようとしていた。


「お母さん、洗い物はわたしがやるよ」


母はわたしの顔を見て、少し驚いた様子が滲んだが、すぐに嬉しそうな顔をして、「じゃあお願いしようかな」と言い残し、書斎に戻っていった。


今日は父の帰りが遅い。弟のお風呂も入れてあげなくちゃ。
ゲームに夢中な弟を一瞥し、洗い物に取り掛かった。


洗い物をしていると、ついつい考え事が捗る。

こうなったのも、あれこれ考えすぎていた部分があるからだろう。


小説家を目指すわたしは、うまいこと受賞することができず、佳作にもひっかからないことから、少々思いつめていた。

いつか本を出して、母をびっくりさせたい。イラストレーターの母を見てきたから、クリエイターとして食べていくのは難しいことだと知っていた。
それでも、わたしは創作をして生きていたかった。

しかしそれも、限界点まで達した。何かに取り憑かれるように、ふらふらと家を出た数時間前のことが、ひどく昔のことのように思えた。


洗い物を終え、弟と一緒にお風呂に入り、書斎の母に声をかける。
「冷めちゃうから早めに入ってね」と言うと、「ありがとう」としっかりとこちらに向き直って返事をしてくれた。

忙しいながらも、人と話すときは一度手を止めてこちらに向き直る姿や、合間を縫って食事の用意や家事をしてくれる姿は、娘から見ても尊敬できるものだった。

母は、いつだってわたしたちに真剣だ。


***


お風呂からあがり、自室に戻る。
死に損なったわたしは、今後どうしていこうかを悩むことにした。
どうしたって、現状を打開できる策などないから、ああやって死を選んでしまったのだけど。


どうしたら、作家になれるだろうか。


母が、SNSで新米の小説家たちと一緒に、本のようなものを作っているのは知っていた。
だから、母に頼めば、装丁を施した小説を世に出すことはできるのだ。


でも、わたしはあえて母には頼んでいなかった。
だって、びっくりさせたかったから。それも、叶いそうにはないけれど。


お蔵入りになった原稿は、いくつも埃をかぶっている。
供養の意味でも、SNSにアップさせておこうかな。

そんなことをしたって、何にもならないかもしれないが、とりあえずノートパソコンに向き直る。


その夜、最後に電灯が消えたのは、わたしの部屋だった。


***


まったく起きてこない娘が心配になり、そっと部屋のドアをノックする。
返事がない。あまり気が進まなかったけれど、ドアを開けることにした。


電気をつけっぱなしでデスクに突っ伏して眠りこけている我が娘は、私の若い頃にそっくりだった。

思わず苦笑いしながら、娘の肩をそっと肌掛けで覆おうとする。
パソコンをあまり見ないように、と思ったが、つい目がとまってしまった。
画面には、私も使用しているSNSの投稿画面が表示されている。いいねの数はかなりついていた。


なんだ、この子もやってたのか。
内容が気になってしまい、表示されている画面だけを少し読むと、どうやら小説のようだった。


いいことを思いついた。
口元が緩むのを感じながら、娘を起こさないように静かに部屋を出る。


娘もここ最近、だいぶ思いつめているように感じていた。
昨日、薄着のまま家を出たことには気づいていた。無事に帰ってきて、心底ほっとしたのはここだけの話だ。

納期が迫って忙しいことを言い訳に、娘からのヘルプに気づけなかった自分をひどく憎んだ。
納期には間に合った。罪滅ぼしのつもりに、面白いこと、しかけちゃおうかな。


リビングに戻ると、弟が「おねーちゃんは?!」とゲーム機から顔をあげながら聞いてくるので、そっとたしなめた。

このことを聞いたら、娘はどんな顔をするのだろうか。
カップに残ったコーヒーを流し込み、娘の未来に思いを馳せる。


そして、洗い物をしながら、起きてくる娘を今か今かと待ち構えることにした。



※アイキャッチ画像は素敵なイラストをお借りしています。ありがとうございます。

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