【小説】ロックバンドが止まらない(93)
レコーディングが終わってから初めてのバンド練習の日。神原たちは、四人で無事に顔を合わせることができていた。まだ一〇連勤のただ中にある園田も平気そうな顔をしていて、実情はどうであれ神原は少し安堵する。
スタジオに入っても四人ともが澱みのない演奏をしていて、アルバイトなどそれぞれの事情がありながらも、ちゃんと全員が自主練習を積んできたことが神原には分かる。おかげで神原の歌やギターにも調子が出てきて、それは三人にも波及し、より鮮明な演奏ができる好循環を生んでいた。
もちろん慢心は禁物だが、この調子なら次のライブも何とかはなるだろうと神原には思える。それは地道な練習を積み重ねて神原たちが手にした、確かな自信だった。
そうして練習を重ねて迎えたライブ当日。トップバッターである神原たちは、午前中にライブハウスの最寄り駅に集合していた。日は出ていても歯ぎしりしたくなるほど寒い中、神原たちはライブハウスへと向かう。
今日のライブハウスを訪れるのは神原たちは初めだ。同じ東京でも見知らぬ街を歩いていると、神原は今から緊張していくようだった。
ライブハウスは、駅から一〇分ほど歩いたところにあるビルの地下一階にあった。ドアをくぐって、今まで訪れたどのライブハウスよりもこぢんまりとしたフロアに、神原たちは足を踏み入れる。
このライブハウスは、一〇〇人ほどの観客しか入れない。それでも、今日出演するのは自分たち以外にも他に三組いるから、きっと満員に近い観客が入るのだろう。そう考えると、神原には悪いことばかりではないと思える。
オーナーやスタッフに挨拶をして、神原たちはさっそくリハーサルのためにステージに立った。ステージもやはり若干手狭だったが、それはよりお互いの音を聴きやすいということを意味する。
リハーサルで曲の一番部分を演奏したことで、神原たちも多少なりとも今日のステージの感触を掴むことができた。肝心の演奏にもこれといった問題は見られず、リハーサルを終えたときには、神原は少しだけれど落ち着くことができていた。
それでも、ライブが始まる直前になると、神原の緊張は再び大きくなってしまう。舞台袖にいてもフロアを埋め尽くすほどの観客が来ているのだろうと、なんとなくの雰囲気で分かる。
キャパシティが小さくても、ほとんど満員のライブハウスで演奏することは神原たちには初めてだったから、神原は今までとはまた違ったドキドキを味わう。
でも、自分たちを一番の目当てに来た観客もきっといるはずだ。そのことが神原たちに前向きな矢印を与えていた。
開演時間ちょうどになって、フロアの照明は落とされ、神原たちの登場SEが流れ出す。かすかに上がった歓声は神原たちに対するものなのか、それとも今日のライブイベントが始まったことに対するものなのか。いずれにせよ、神原たちはステージに向かう。
登場SEがサビに差しかかったタイミングで、神原たちは久倉を先頭にステージへと登場した。園田、与木と続いて、最後に神原が観客の前に姿を現す。ワンマンライブのような歓声とはいかずとも、神原たちが登場したことに観客の反応ははっきりとあって、神原は緊張と興奮の両方を感じる。
予感していた通り、フロアは最後方まで観客で埋まっていて、一目見ただけでは空いているスペースを探すのが困難なほどの入りようだった。キャパシティは小さくても初めて見る光景に、神原は演奏する前から感慨を覚える。もちろん緊張はするが、活動を始めた頃からすると、ようやくここまで来たと感じる。毎回のライブがこうだったらいいのにと思う。
そんななかでギターを構えると、神原は与木たちとアイコンタクトを交わして一斉に最初の一音を鳴らし出した。いよいよ始まったライブに、観客の熱量も引き上げられる。そして、神原たちは前を向くと、そのまま一曲目の演奏を始めた。
ギターを弾きながらマイクに向かって歌い出す神原。今までにないライブができそうな予感がした。
ライブが終わってステージを後にしたとき、神原は達成感とモヤモヤした思いを抱えていた。
結論から言うと、神原たちのライブはまったくの無反応ではなかったものの、それでも大いに盛り上がったとは言い難かった。神原たちとしてはミスなくまとまった演奏ができて、どの曲でも練習の成果は発揮できていたと思える。
しかし、フロアの反応は神原たちが期待していたほどにはなかった。やはりライブが始まってすぐは、エンジンがかかり始めた状態だ。そこで一気に熱量を上げるようなライブは神原たちにはできていなくて、フロアの空気を掴む前にライブが終わってしまったというのが正しい。演奏を始めたときに神原が感じた予感は、予感のままで終わっていた。
練習以上の演奏ができなかった自分たちにも、もちろん問題はある。だけれど、神原は自分たちを知らない観客が多かったことが、盛り上がりに欠けた一因だと感じずにはいられない。自分たちにはもっともっとやるべきことがあると、改めて思い知らされた気分だ。
次はこの規模のライブハウスなら、ワンマンライブで、自分たち目当ての観客だけで満員にしたい。神原たちには、また新たな目標が生まれていた。
ライブが終わった後も、神原たちがバンド練習とアルバイトの両方に精を出していると、あっという間に日々は過ぎて、神原が気づいた頃には、新しい年を迎えていた。その瞬間を神原は実家で過ごす。両親と一緒の穏やかな年末年始。
そんななかでも神原は、ギターの練習を一日たりとも欠かさなかった。練習を一日休めば自分が分かるとはよく言ったもので、ギターを弾くことはとっくの昔に神原の習慣と化していて、弾かない日があれば落ち着かない。
だから、大晦日も元日も神原は、実家にギターを持ちこんで練習に取り組む。二月に発売されるフルアルバムの先に発売が予定されている、シングル用の曲も作ってみたりする。
そんな神原を両親は咎めることもなく、温かい目で見守ってくれていた。
新年を迎えて数日が経った頃、神原たちは年が明けて最初のバンド練習を行った。顔を合わせた園田たちと「あけましておめでとう」といった言葉を交わす。それだけで神原の心には、爽やかな風が吹き抜けるようだ。
練習も滞りなく進む。年末年始とはいえ、誰もが真摯に練習を積んできた様子が、神原には再び窺える。
それはアルバイトで忙しかっただろう園田でさえ、例外ではない。歯切れのいいベースは確かに神原たちの演奏を支えていて、神原も余計なことを考えず自らの演奏ができていた。
神原たちは、二時間ほどの練習時間を大過なく終える。
楽器をしまって帰ろうかというときに、園田が「三人とももう少しいい?」と声を出していた。神原たちも頷く。次のバンドが練習を開始するまでには、まだ少し時間があった。
「別にいいけど、どうしたんだよ?」
「あのさ、ちょっと私三人に言っておきたいことがあって」
「言っておきたいこと?」
そう訊き返した久倉にも、園田は鷹揚に頷いている。表情から悪い話ではなさそうだったが、それでも神原は園田の「言っておきたいこと」の内容を、少し危惧してしまう。
「私さ、バイト辞めることにしたんだ」
園田の「言っておきたいこと」がバンドのことではなくて、神原は一瞬安堵する。でも、スタジオには声にならない驚きが広まった。
「バイト辞めるって大丈夫なのかよ。お前んとこのバイト先、ただでさえ人手不足じゃなかったのか?」
驚いたように口にした久倉に、神原も同感だった。園田のバイト先は短い期間に二人が抜けて、一時期は一〇連勤をしなければならない状況だったというのに。
「ああ、それなら大丈夫。去年の暮れにまた一人新しい人が入ったから。それに今すぐ辞めるってわけじゃないよ。バイトは一月が終わるまで続けて、それから辞めるから」
園田の説明は明快だった。心残りなんて一つもないかのように。
それでも、園田が決めたこととはいえ、神原は心配せずにはいられない。本当にそれでいいのかという思いが、口を開かせる。
「いや、だとしてもさ、大丈夫なのかよ。俺たちまだ、音楽一本で食っていけるようなバンドじゃねぇのに」
「それは大丈夫。去年までの連勤でちょっとお金も溜まったしね。少しずつ節約していけば、しばらくは持つと思う。それにもしお金がヤバくなったら、また別のバイトを探せばいいだけの話だし」
「確かにそれはそうだけどさ……」
「そうでしょ。でもさ、本当は私はもうバイトなんてしたくないんだ」
園田ははっきりと言った。断固とした表情に、神原は自分の本音さえも重ねてしまう。
「皆も知ってると思うけど、去年の最後の方は私バイト漬けで本当にヤバくてさ。正直言うとかなり疲れてたんだ。レコーディングのときもどうにか乗りきれたけれど、みんなにたくさん心配をかけちゃったし、私もあんな思いは二度としたくないと思った。どうせ疲れるんなら、私はバンドの活動で疲れたい。ただ生活するお金を稼ぐためのバイトで、疲れてなんかいられないなって思ったんだ」
あけすけに語る園田に、晴明も同意以外の感情は抱かなかった。レコーディングのときの、園田のかなり疲れていた表情は、今も鮮明に思い出せる。あんな音楽以外のことで苦しめられている園田の姿は、神原としても再び見たいものではない。
「だから、今度のフルアルバムは何としてでも売れたい。今まで以上のセールスを記録して、音楽だけで食べていけるだけの収入がほしい。ちょっと下世話な話かもしれないけど、これが今の私の本音。でもって、私たちのメジャーファーストフルアルバム『D』なら、それができるって私は信じてるから」
そう言った園田にも、「いや、全然下世話じゃねぇよ。俺たちも早く音楽だけで食っていけるようになりたいって願ってるし」とフォローした久倉にも、神原は深く頷く気分だった。自分だって、心からやりたいわけではないアルバイトからは早く解放されたい。
音楽だけで食べていくことは、神原たち全員の本望だった。
「そうだな。一日でも早くそうなるように、これからの練習とかプロモーションとか頑張ってこうぜ。『D』を売るために、できることはなんでもやろう」
話をまとめるようにして口にした神原に、三人も頷いている。アルバムを売るためには、プロモーション活動は欠かせない。それは自分たちのような、メジャーデビューしてまだ一年も経っていないバンドならなおさらだ。
神原は気を引き締めた。これから予定されているどの活動も一つも疎かにはできないと、改めて思った。
(続く)
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