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【小説】ロックバンドが止まらない(42)


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 神原がバッキングギターに続いてボーカルのレコーディングも終えたとき、時刻は夜の七時を回っていた。神原はギターとボーカルで合わせて一〇回以上のテイクを重ねたから、緊張していたこともあって疲労感は否めない。

 長丁場をやりきった感覚があるものの、まだミニアルバムに収録される五曲のうち一曲のレコーディングが終わっただけだ。あと四回は同じことを繰り返さなければならないと思うと、神原には途方もなく感じられる。

 普段、何気なく聴いていたCDに、レコーディングだけでもどれだけの手間がかかっているのかが身に染みて、そんなCDがこの世には何万も出ていることがとてつもないことに思える。

 そんな風に感じられたのも、自分たちがレコーディングを経験したからで、疲れていながらも神原は少しだけ誇らしさも感じていた。

 レコーディングが終わる数十分前に再びやってきた吉間と合流し、野津田に礼を言ってからレコーディングスタジオを出たとき、空は黒く染まっていて、吹く風は身を切るようだった。

 吉間と少し「初めてのレコーディングはどうだった?」という話をしながら歩いていると、神原たちは最寄り駅に辿り着く。中央線は全ての座席が埋まっていて、いくら疲れている神原たちと言えども、座ることはできなかった。

 吊革を掴んで、背中にギターの重みを感じながら、神原たちは数分間の乗車時間を会話をすることに捧げた。

「お疲れ様」とお互いに言い合い、今日の感想を述べる。三人からは一様に「こんなに大変だとは思っていなかった」という言葉が聞かれ、神原もそれに深く同意した。午後の時間中を費やしたレコーディングは、ただ自分の番を待っているだけでも、神原には精神的な疲労があった。

 さらに、翌日にも今度は別の曲のレコーディングが予定されているから、神原たちは「明日も頑張ろうな」とお互いを励まし合う。まだ長い道のりの途中ではあったが、三人と言葉を交わしていると、神原にはわずかにでも活力が湧いてくるようだった。

 神原たちがミニアルバムに収録される全五曲のレコーディングを終えたのは、それからさらに二週間後の日曜日のことだった。まだ学生である神原たちは土日にしか、レコーディングスタジオに入られなかったためだ。

 それでも、長い期間がかかったことには変わりなくて、全曲のレコーディングが完了してレコーディングスタジオから出たとき、神原は達成感を抱いていた。もちろん、まだマスタリング作業などCDになるまでこの後もいくつもの工程があるものの、それでも自分たちの本分であるレコーディングが終わったことによる安堵感は大きい。

 神原としては、軽く打ち上げがてら四人で食事でもしたいところだが、夜の八時を過ぎた状況では神原たちはまっすぐ家に帰るしかなかった。

 帰宅して夕食を食べて、神原は一人達成感を噛みしめる。緊張の糸が切れたこともあって、日付が変わる前には眠りに落ちていた。

 それからも、神原たちが三月の末に控えたライブに向けてバンド練習を積んだり、ミニアルバムのジャケットや歌詞カードといったアートワークについて吉間と話し合いを重ねていると、時間はあっという間に過ぎていった。少しずつ寒さも和らいでいって、春の足音もにわかに感じられる。

 神原も四月から一人暮らしを始める部屋を、達雄たちも同伴で決めた。ECNレコードの事務所の最寄り駅とは、隣の駅の近辺だ。

 契約書にサインをすると、いよいよだと神原の気持ちは高鳴った。生まれて初めての一人暮らしに感じる不安を、期待が上回っていた。

 ストーブが遠くでぼうぼうと鳴っている。でも、その熱は体育館中に行き渡ってはおらず、座りながら神原は若干肌寒さを感じてしまう。

 今、壇上では自分たちの学年を代表して女子生徒が答辞を述べている。三年間一度も同じクラスになったことがなく面識のない生徒だったから、自分たちに関わってくれた人への感謝や未来への抱負を述べていても、その答辞は神原の耳をすり抜けていくだけだった。

 自分だって、似たような思いを感じていないわけではない。ただ改まった卒業式の雰囲気は、神原の肌にはあまり肌に馴染まなかった。

 卒業式は進んでいき、各クラスの代表が卒業証書を受け取っている。神原はその様子をぼんやりと眺めていた。

 最後に校歌を歌ったときも同様だ。各学期の始めと終わりくらいしか歌う機会がなかったから、神原は自分の高校の校歌にあまり思い入れがなかった。

 それにただ立ったり座ったりを繰り返しているだけでは、自分たちが今日でこの高校を卒業するのだという実感が湧かない。

 もうこの校舎に来ることはない。そんな事実も、神原にはまださほど現実味を持って感じられなかった。

 それでも、教室に戻って担任から卒業証書と卒業アルバムを受け取ると、その手触りにいよいよ自分は卒業するのだという実感が、神原にもようやく湧いてくる。

 担任が有名な映画の一節を引用して、卒業してからも頑張れよといったことを伝えると、最後のホームルームも終わりを迎えた。

 神原はしばし教室に残って、名残を惜しむかのようにクラスメイトと話していく。卒業アルバムの中表紙にお互いの名前を書きあったり、ページを捲って書かれたアンケートの内容に笑いあったり。

 今日が終わると、このクラスメイトたちともなかなか会えなくなることを思うと、神原はすぐに教室を離れられなかった。

 園田もクラスメイトの女子と話しこんでいて、与木も隣の席の男子に声をかけられている。今この場でしか見ることができない光景に、神原は思わず目を細めていた。

 でも、いくら名残惜しいとはいえ、ずっと話していることもできなくて、神原は仲の良いクラスメイトと話し終えたところで、教室を後にしていた。

 校舎の前には、卒業生や在校生がいくつもの話の輪を作っている。その中には涙を流している生徒もいて、微笑ましい光景だなと思う。

 だけれど、部活に入っていない神原にはあまり学年内での横の繋がりも、学年間での縦の繋がりもなくて、率直に言えばこの場に話し相手はいなかった。

 強いて言えばクラスが違う久倉くらいのものだが、見渡してみた限り、久倉の姿はどこにも見えない。まだ自分のクラスでクラスメイトと話している最中なのだろうか。

 でも、神原は久倉を待とうとは思わなかった。さっそく明日、月末のライブに向けて貸しスタジオでのバンド練習が入っている。またすぐに顔を合わせるのだから、ここで無理して話していく必要もないだろう。

 神原は人の輪の間を通り抜けるようにして、帰路に就こうとする。だけれど、一歩を踏み出そうとした瞬間、自分の名前を呼ばれた。

 しばらく聴いていなかった懐かしい声に、神原は思わず振り返る。すると、そこには胸のポケットに造花をつけた、新座が立っていた。

「卒業おめでとう。なんかこうやって話すの久しぶりだな」

 神原のもとにやってきた新座は、そう言ってはにかんでいた。当たり前のことを言われたおかしさで、神原もまた表情を緩める。

「ああ、お前もな。卒業おめでとう。聞いたぞ。第一志望の大学に合格したんだって?」

「ああ、なんとかな。自分でも受かるかどうかは半々だと思ってたけど、それでも受かってよかったよ」

「じゃあ、来月になったらお前も晴れて大学生か。なんかイメージ湧かないな」

「それは俺も。でも、まあなんとかなると思ってポジティブにやってくよ」

「そうだな。大学に行っても頑張れよ」

「ああ、ありがとな。それに頑張るって言ったらお前らの方だろ。今度インディーズデビューするって聞いたけど、あれマジなのか?」

 話題を変えるように訊いてきた新座にも、神原はさほど驚かなかった。インディーズデビューのことは、親しいクラスメイトにはとっくに話している。

 新座に直接話してはいないが、もう決まってから三ヶ月ほどが経つのだ。だから、誰かから新座に話が伝わっていたとしても、何ら不自然なことではなかった。

「ああ、マジだよ。五月にデビューとなるミニアルバムが出る。悪いな。お前に伝えられてなくて」

「いや、全然いいよ。俺もつい最近聞いたばかりだし。でも、そっかぁ。まさかお前らがインディーズデビューするなんてな」

「ああ。俺も目指してはいたけど、こんなに早くインディーズデビューできるなんて思ってなかった。本当色んな人との出会いに恵まれた結果だよ」

「いやいや、それもあるけど一番はお前らの曲や演奏が良かったからだろ。三年のときの文化祭で演奏したのって、全曲オリジナル曲だったんだよな? あのときは客席も盛り上がってたし、俺も全部良い曲だなって思ったから。あのライブで披露した曲って、そのミニアルバムにも入んのか?」

「ああ、何曲かは収録されるよ」

「そっか。じゃあ買わなきゃな。また出たときには教えてくれよ」

「ああ、頼むぜ。リアルな話、このミニアルバムの売り上げが、これからの活動にめちゃくちゃ大きな影響を及ぼすからな」

「そうだな。俺も良かったら友達に勧めてみるよ」

 二人は和やかな表情で話せていて、それはしばらく顔を合わせていないとは、神原には思えないほどだった。

 こうして一緒にいると、中学のときにバンドを組んでいたことを思い出す。高校までは続かなかったが、それでもあのバンドの経験が、今の神原の礎になっていることは間違いない。

「そうそう。こんなときだから、お前に一つ言っておきたいことがあったんだけどさ」

 再び話題を変えようとする新座に、思わず「何だよ」という返事が、神原の口から出る。

 新座は真顔になっていて、それが言葉の内容を神原にもそれとなく察させた。

「高一のとき、お前に何も言わずにサッカー部に入ってごめん。お前と与木をほったらかして、自分のやりたいことを優先させちまった。本当に悪かったと思ってる」

 新座の口からこぼれた言葉は、神原の想像とは少しも違っていなかった。だから、神原は申し訳なさそうにしている新座にも、小さく笑って応えられる。

「何だよ、そんなことか。それだったらもう全然気にしてないから大丈夫だよ」

「……本当か?」

「いや、ここで嘘つく理由がないだろ。そりゃちょっとは何でサッカー部行ったんだよとは思ったりはしたぜ。でもさ、あのときはドラムも見つけられてなかったんだから、どっちにしろバンドはできなかっただろ。それにサッカー部に入部したこと、お前後悔してないんだろ?」

「ああ。最初はきつかったけど、でも練習すればするだけうまくなってる実感があって楽しかった。三年のときはレギュラーになって試合にも出れたしな。市中大会で負けちまったのは悔しかったけど、でも三年間やりきった感覚がある。後悔なんてしてねぇよ」

「そうだよな。ならもういいだろ。俺もお前もやりたいことやったんだし。それだけで十分だろ」

「そうだな。ありがと。お前にそう言ってもらえて、何の悔いもなくここを卒業できるよ。俺も大学生活頑張るから、お前らもバンド頑張れよ」

「ああ。とか言って、ろくに講義も出ず酒飲みながら麻雀するような、自堕落な大学生にはなんなよ」

「それは、気をつけるよ」

 少し歯切れの悪い口調に、神原はだらけた大学生になった新座をイメージして、また小さく笑った。新座も鏡写しかのように微笑んでいる。

 きっと今日が終わったら自分たちは滅多に会わなくなってしまうのだろう。それでも、こうして新座と話せているだけで、神原は充足感を抱いていた。

「新座先輩ー」と、神原が知らない生徒が新座の名前を呼ぶ。サッカー部の後輩なのだろう。少し迷っているような新座にも、神原は「いってやれよ」と言うことができる。

 新座はその生徒の後についていって、ひときわ大きい人の輪の中に入っていた。新座は新座で、学校に居場所を見つけていたのだ。

 神原は軽く目を細めてから、人の間を通り抜けるように歩き出す。校門で立ち止まりふと振り返ると、三年間を過ごした校舎が凛と佇んでいた。


(続く)


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