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【小説】ロックバンドが止まらない(41)


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 神原たちが自分と保護者の署名を書いた契約書を郵送すると、さっそく次の日に吉間は連絡をしてきた。契約書を確かに受け取ったとの連絡に、神原は背筋が伸びる感覚がする。

 とはいえ、いつデビューするかの詳細はまだ聞かされず、決まるまで神原たちは宙に浮いた時間を過ごす。

 相変わらず二週に一度は貸しスタジオに集まってバンド練習をしているものの、差し迫った目標がない今、神原たちは文化祭やライブの前のようなモチベーションを保てずにいた。演奏にもどこか気の緩みが見られる。神原たちはお互いにそれを注意しあったものの、目に見える改善はなされなかった。まるで既に何かを成し遂げたかのような。

 神原は内心で首を横に振って、自らを戒めた。自分たちはまだスタートラインにすら立っていないのだと、気を引き締めようとした。

 様々なことが決まったのは、年が明けてからだった。

 まずデビューが、五月の中旬に決まった。それが全五曲を収録したミニアルバムになることも、同時に決まる。さらにレコーディングが二月に、次のライブも三月の末に決まった。

 明確な指針ができたことで、神原たちの演奏にも再び熱が入っていく。神原と与木も新曲を一曲ずつ作った。新曲を合わせながら、神原は確かな手ごたえを得る。ライブで披露する日が待ち遠しく感じられた。

 神原たちはまずはレコーディングに向けて、自分たちの演奏技術を磨くことに集中した。でも、ギターを弾きながらも、神原はどこか奇妙な心地を感じてしまう。

 神原たちはバンドに集中するため、大学に行かないことを決めている。だけれど、今頃は多くのクラスメイトが受験勉強の真っ最中だ。

 実際、神原もテレビでセンター試験のニュースを見ている。防寒着に身を包んだ自分と同い年の受験生が入試会場に入っていくのを見ると、どこかこそばゆい感覚があった。

 本来なら、自分もセンター試験を受ける予定だった。なのに今自分は家にいて、ギターを練習している。そう考えると、神原は言葉にできない不思議な感情を抱いてしまっていた。

 最初のレコーディングの日である土曜日は、ちょうど神原が受験する予定だった大学の試験実施日だった。つい二ヶ月ほど前までは受験のために大学のキャンパスに行く予定だったのだが、それでも与木たちと一緒にその大学がある方向とは逆の中央線に乗っているのが、神原には今でも若干信じられない。

 レコーディングスタジオとECNレコードの事務所は、最寄り駅が同じだった。それでも、北口と南口で神原たちが向かう方角は異なる。

 神原たちは駅の南口で吉間と落ち合った。少し言葉を交わしてから、五人はレコーディングスタジオに向けて出発する。風が身を切るように冷たく、路肩には昨日降った雪がわずかに残っていた。

 レコーディングスタジオは、周辺の建物よりも背が低い、二階建てのビルの中にあった。一階の事務所で受付を済ませた神原たちは、階段を下って地下一階に向かっていく。

 ドアを開けると明るい茶色の壁紙の部屋に、ミキシングテーブルやいくつものスピーカーが置かれているのが、神原の目に入った。その向こう側、ガラス窓の中には想像していたよりも広い録音ブースがあり、テレビドラマで以前見たことがあるレコーディングスタジオそのものだと、神原に思わせる。

 そして、ミキシングテーブルの前には一人の男性が座っていて、神原たちを見るなり立ち上がっていた。この男性こそが、今回のレコーディングエンジニアなのだろうと、神原は確信する。

「野津田(のつだ)さん、おはようございます。今日はよろしくお願いします」

 そう言って男性に小さく頭を下げていた吉間に、神原たちも「よろしくお願いします」と続く。「うん、よろしく」と野津田は答えていて、神原はこのとき初めて、事前に聞かされていた野津田の名前と顔が一致した。

「彼ら、レコーディングは今日が初めてなので、色々不慣れな部分もあると思いますが、その際はご指導のほどをよろしくお願いします」

「うん、分かってるよ。じゃあ、まずは楽器の準備から始めようか」

 神原たちも頷いて、まずは楽器のセッティングから今日一日をスタートさせた。ギターをアンプに繋いで、音を確認する。

 神原たちのセッティング、およびサウンドチェックが終わると、ブース内は最初にレコーディングする久倉のドラムの準備に入る。神原たちも協力してドラムのセッティングを行い、入念に音を確認する。

 その間に、吉間は「終わる頃にまた来るから」と、レコーディングスタジオを去っていった。今日のレコーディングは一曲の録音にざっと八時間を予定している。それは神原たちが不慣れだからだが、他の仕事もあるとはいえ、吉間が側にいてくれないのが、神原には心細く感じられた。

「じゃあ、久倉君。とりあえず三回通して録ってみようか」

 ドラムのサウンドチェックも終わり、いよいよ本番だとブースに入っていった久倉に、野津田がマイクを通して声をかける。久倉も頷き、スタジオ内には緊張感が流れ出す。

 野津田がスイッチを押すと、ブース内にある赤いランプが点灯した。録音が始まったという合図に、久倉も演奏を始める。

 神原たちは、今まで久倉のドラムだけを単体で聴いたことはあまりない。いつもバンドという形で聴いていた。

 だからドラムだけの演奏は、神原の耳にはどこか不思議な感覚を持って聴こえる。久倉も慣れていないのだろう。最初のテイクは細かいミスを何回かしてしまっていて、神原は我が身を思う。いざ自分があのブースに入ったときに、最初からミスのない演奏ができるかどうか、自信がなかった。

「というわけで、最初の三テイクが終わったけど、どうだった? 久倉君。手ごたえはある?」

 三テイク目を録り終わってブースから出てきた久倉に、野津田は軽い調子で話しかけていた。でも、久倉は「ま、まあ」としか答えられておらず、その煮え切らない表情に、神原は久倉の心中を察する。いきなり誰でも最初からうまくレコーディングができるわけがないのだ。

 でも、野津田はそのことが分かっているように「そっか」と声をかける。短い言葉に少しの温かみを、神原は見ていた。

「じゃあ、ひとまず三つのテイクを聴いてみようか。それでよかったところを組み合わせて、OKテイクにするから」

 野津田はミキシングテーブルの前に神原たちを集め、まずは最初に録音したテイクを再生した。どこかぎこちなさを感じるドラムが、スタジオ内に流れる。リズムキープがうまくいっていないと神原にも分かってしまうほどだ。

 でも、久倉のドラムはテイクを重ねる度に、うまくいかなかったところを改善できている。神原は耳を澄ませた。

「で、どうする? 皆はどのテイクを使いたい?」

 野津田に問われて、神原たちは顔を見合わせる。でも、四人の目は自然と久倉に向いていた。

 少し考える様子を見せてから、久倉は答える。

「あの、一番のBメロと間奏は二テイク目を、二番のAメロとアウトロは三テイク目を使ってもらえますか。あとはまた録り直したいです」

 おずおずというように言った久倉にも、野津田は真剣な表情を崩さなかった。神原たちもどのテイクを採用すべきか軽く意見を求められたけれど、神原としても久倉の選択に異存はなかったし、担当である久倉の意思をなるべく優先させようとも思った。

 園田や与木も特に意見は挟んでおらず、四テイク目を録るために久倉は再びブースに戻っていく。

 再びドラムを叩く久倉を、神原は祈るような思いで見つめる。既に四人がレコーディングスタジオに入ってからは軽く一時間以上が経っていて、今日のうちに一曲を録り終わらなければならないと考えると、なるべく少ないテイク数で決めてほしいと、神原は思わずにはいられなかった。

 久倉はそれからも、さらに二テイクを録っていた。神原たちは再び全員で、久倉が叩いたドラムを確認する。やはり慣れてきたのか、少しずつ自然な、貸しスタジオでの通りの演奏ができているように神原には思われる。それは久倉も同じだったのか、先ほどの三テイクでは満足できなかった分も、この二つのテイクを組み合わせることで良しとしていた。

 久倉の要望通りに野津田がミックスしたOKテイクを、神原たちは今一度全員で聴く。神原としてもミスは感じられず、それは他の三人も同じだったのか、「これでお願いします」と言うことができた。

 まだドラムが終わっただけで、ベースにギターが二人分、それにボーカルのレコーディングが残っている。

 だけれど、ドラムのレコーディングだけで優に一時間は要していたから、このペースで行くと何時間かかるのだろうと、神原は途方もない思いさえ抱いていた。

 ドラムの次は、園田のベースや与木のリードギターのレコーディングだ。テイク数を重ね、ある程度のテイクが溜まったら全員で聴き返し、良いと思ったテイクを選び出していく。それでもまだ気に入らない部分があれば、さらにテイク数を重ねる。

 そんなことを繰り返しているうちに、気がつけばさらに三時間が経過していた。レコーディングスタジオに入ってからはもう四時間以上が経っていて、自分の出番はまだなのに、神原は少しずつ疲れを感じ始めてしまう。

 OKテイクを選ぶのに耳を澄ませていたこともあるし、なかなか訪れない自分の出番に、緊張はレコーディングが始まったときから続きっぱなしだ。

 だから、自分のレコーディングを終えて少し気が楽そうにしている久倉や園田を見ると、神原はやましい思いを感じてしまう。早く自分もあのブースの中に入ってレコーディングを始めたいと、ソワソワしていた。

 与木のリードギターのレコーディングが終わったとき、神原の腕時計は午後の四時三〇分を指していた。正午にレコーディングスタジオに入ってから早四時間半。ようやく自分の出番が訪れたことに、神原はウズウズした思いを抑えながら立ち上がる。

 ブースに入ったとき、しんと静まった雰囲気に、神原は軽く鳥肌が立った。ヘッドフォンを装着して、ギターの準備をしている間も心臓はずっと早鐘を打っていて、なかなか静まることはない。

 それでも、準備を終えると神原はヘッドフォンに取り付けられたピンマイクを通して、その旨を野津田に伝える。

 すると、ヘッドフォンを通して「分かった。じゃあとりあえず三テイク録ってみようか。クリック音を流して、赤いランプが点灯したら、神原君のタイミングで演奏を始めてもらっていいから」という返事が返ってくる。

 神原が頷くと、ヘッドフォンにはカチカチというクリック音が流れ始めた。テンポを一定のものにして、ミキシング作業等をやりやすくするためだ。心臓の鼓動と同期しているようなクリック音に、神原は息を呑む。

 そして、ブース内の赤いランプが点灯すると、神原は一つ呼吸をしてから、演奏を始めた。

 何度も練習したコードを弾く神原。ヘッドフォンからクリック音と一緒に、自分の演奏が聴こえてくる。普段家でもアンプを通しての練習はしているものの、それでも改まった場だと、神原はどこか妙な感覚を抱いてしまう。いつも以上に自分の演奏を意識して、かえっておぼつかなくなるようだ。

 それでも、神原は気を引き締めて演奏を続けた。でも、何度も経験してきたはずの四分間が、今までで一番長く感じる。ブースの外にいる四人の視線が自分に集中していることもあって、神原の緊張はなかなか解けない。

 率直に言うとやりづらくさえあり、三人はこんな感覚のもとレコーディングを重ねていたのだと、神原は演奏しながら思い至った。

 それでも、神原はどうにか最初の一テイク目を終える。曲の最後まで弾き終えたとはいえ、手ごたえがある演奏だとは自分でも言えなかったから、緊張は少しも軽くはならない。

 赤いランプとクリック音が消え、一テイク目の録音が終わったことを知らせる。それを見て、神原は一つ息を吐いた。四人が自分の表情を窺ってきていることを感じる。

 神原は呼吸を整えると顔を上げた。ややあって野津田から、「じゃあ、二テイク目いくよ」と声がかかってくる。

 神原が頷くと、再びヘッドフォンにはクリック音が流れ始めた。赤く灯るランプを合図に、演奏を再開する。

 神原はギターを弾きながら、演奏のことだけを考えた。幸い自分のレコーディングは始まったばかりだったから、まだ集中力は持ってくれていた。


(続く)


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