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【小説】ロックバンドが止まらない(80)


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 顔見せライブが終わってから、神原はそれまで以上の時間を、ギターの練習やボイストレーニングに充てていた。顔見せライブで見せつけられたショートランチとの差を思えば、今までと同じように過ごしていてはダメだと感じられたからだ。

 レコーディングで少しでも良い演奏ができるように、神原は寝食を惜しんで練習に励む。四人でのバンド練習のときにも、水準を上げた要求をする。

 三人もショートランチのライブを見て、多かれ少なかれ危機感は抱いていたらしい。神原の厳しさを増した要求にも、演奏で応えようとしてくれる。

 高度な要求が飛び交う中でバンド練習は重ねられ、それは神原たちの演奏のクオリティを一歩ずつでも、着実に高めていた。

 相変わらずの寒さに、時間の流れを神原があまり感じられないなかでも日々は過ぎていき、あっという間にミニアルバムのレコーディング初日を迎えた。

 サニーミュージックが押さえたレコーディングスタジオは、ターミナル駅から地下鉄を数駅分行った、神原たちが初めて訪れる街にあった。

 駅の出口から一本道を行った先には、一階が楽器店となった建物があって、神原たちはレコーディングスタジオに向かう階段を下りていく。スタジオはインディーズのときにお世話になったところよりも心なしか規模が大きく、神原はここでもメジャーとインディーズの違いを思う。スタッフもインディーズのときは野津田一人だったのだが、今日は三人もいる。

 八千代に先導され挨拶をする四人。メインで今日のレコーディングを担当する伊佐木(いさき)は、四人の緊張を解さんとするかのような、穏やかな笑みを向けてくれていた。

 挨拶を済ませてから準備を整えると、神原たちはまずは久倉のドラムからレコーディングに入った。

 とはいえ、レコーディングの工程自体はメジャーでもインディーズでもほとんど違いはない。何テイクかを録音し、それを全員で聴いてそれぞれのテイクの最適な個所を選んで、OKテイクを作り上げていく。そのなかでもし満足がいかなければ、さらにテイクを重ねる。そんな地道な作業の繰り返しだ。

 それでも、神原にはインディーズのときよりも、どことなくスタジオの空気が引き締まっているように感じられる。

 別にインディーズのときも、空気は緩んでいたわけではない。それでもより多くの人に聴かれるメジャーは、その分重みがあるからか、ただ椅子に座って久倉が演奏するドラムを聴いているだけでも、神原は神経をすり減らすようだった。より耳を澄ませ神経を集中させているからか、まだレコーディングが始まって数時間も経っていないのに、早くもかすかな疲労さえある。

 それは他の二人も同じだったようで、スタジオに流れるピンと張られた糸みたいな空気は、神原たちが談笑することも、テーブルの上に置かれている個包装の菓子に手を伸ばすことも妨げている。

 自分たちやスタッフの視線を一身に浴びて、レコーディングブースの中の久倉も、さぞ緊張しているのだろう。最初のテイクは肩に力が入りすぎていた。徐々に慣れてきて本来のドラムが叩けるようになっていたものの、それでも神原は自分がレコーディングブースに入るときのことを考えると、今から喉が渇いてきて、しきりに水を飲んでいた。

 久倉がどうにか想定していた時間内でレコーディングを終えると、レコーディングの順番はベースの園田、そしてリードギターの与木に移っていく。

 二人ともブースに入る前は緊張していた様子だったけれど、ブースに入って自分の番のレコーディングが始まってからは、しっかりと集中した演奏をしてくれていた。細かいところで気になる個所はあったものの、目立ったミスは一度もしていなくて、神原はバンド練習の外でも二人が積んできた練習の量を感じる。

 タイトな演奏は数テイクを重ねることでOKテイクを作ることができ、レコーディングは神原たちが事前に立てたスケジュール通り進んでいた。

 それでも、自分の順番が近づくたびに、神原の鼓動は速まっていく。自分がミスをしたり音を外したりして、この流れを止めてしまったらどうしようという不安が、わずかにでも顔を出す。

 その度に、今まで重ねてきた練習を思えば大丈夫だと神原は自分に言い聞かせる。

 幸い三人がスムーズにレコーディングを終えてくれたおかげで、神原には多くの時間が残されていた。

 伊佐木に声をかけられて、三人からも励まされながら、神原はレコーディングブースに入っていく。まずはバッキングギターの録音だ。この曲はバッキングギターを二つ重ねて音に厚みを持たせる方針だから、その分神原は多くのテイクを録らなければならない。

 それでも、多少疲労は感じていてもレコーディングブースに入るとアドレナリンが出て、神原は一心にギターを弾くことができていた。自分で演奏していても音にキレが感じられて、今までで一番良いレコーディングができているのかもしれないとさえ思う。

 伊佐木や与木たちの反応も上々で、二本分のトラックを録音しなければならないのに、神原は六テイクを録っただけで二つのOKテイクを作り上げることができていた。

 神原も大きな手ごたえを感じる。それは最後に控える歌のレコーディングにも、大いに弾みをつけていた。

 バッキングギターのレコーディングを良い状態で終えられたことも相まって、神原は歌のレコーディングにも緊張感と落ち着きを適切なバランスで併せ持った精神状態で臨むことができていた。音を外していないのはもちろんのこと、自分の口から出る歌声がいつにもなく伸びやかであることに、神原の気分も乗せられていく。

 完成した曲を聴いたときに、まず多くの人が真っ先に関心を向けるのは、自分の歌だろう。いわば曲の顔ともなるパートで自分の最大値を発揮できていることが、神原には喜ばしかった。ここまで八時間以上スタジオにこもっている疲れも今だけは全然感じられない。

 この曲は間違いなく良い曲になる。そして、明日以降もこの調子でレコーディングを続けられれば、メジャーデビューを飾るミニアルバムも、現時点での自分たちの最高傑作になるだろう。神原はそう確信していた。

 歌も含めて全てのパートのOKテイクを作ることができ、この日のレコーディングが完了した頃には、時刻はもう夜の八時を回っていた。当初の予定通り進めることができたとはいえ、レコーディングスタジオを出た瞬間に神原にはどっと疲労が押し寄せてきて、自分たちが密度の高い時間を過ごしていたことを改めて思い知らされる。これがあと四日も続くと考えると、少し気が遠くなってさえきそうだ。

 それでも神原たちは一人ではなかったから、お互いを励まし合うことができる。四人で、駅の入り口の近くにある中華料理チェーンに入る。

 軽くアルコールも交えたりしながら、神原たちは今日の成果と反省について、言葉を交わし合った。「今日はお疲れ様」とお互いを称え合い、明日への英気を養う時間は、神原にもとても大切なものだった。

 レコーディングは休みなく行われ、神原たちは毎日正午から日が沈んだ後までレコーディングスタジオにこもる日々を続けていた。

 缶詰という言葉が思い浮かぶほどスタジオにいると、様々なことが起こる。当然、誰かが思うような演奏がなかなかできずに、テイク数を重ねてしまうことだってある。

 それでも、神原たちはあからさまに声を荒げたり、不機嫌な態度を顔に出すことはしなかった。

 レコーディングは長丁場の戦いで、その間に雰囲気を悪くしてもいいことは一つもない。幸い工程に遅れが出ても、さらにもう一日は予備日として、スタジオを確保している。

 だから、神原たちはうまくいかないことがあっても当人のせいにすることはなく、前向きな言葉をかけて、良い雰囲気のなかでレコーディングをしようと努めていた。

 長い間地下のスタジオにいて、誰もがストレスを感じていないわけがない。それが分かっていたからこそ、神原たちはうまくいかないときは励まし、OKテイクができたときは言葉にしてそのメンバーを労う。

 そんな神原たちの姿勢が功を奏したのか、スケジュールから遅れることなくレコーディングは進められていた。

 レコーディング期間も四日目に差しかかり、少しずつ終わりが見えてきた日。神原は少し早く家を出てターミナル駅へと向かっていた。品ぞろえの良いターミナル駅近くのCDショップで、今日発売のバンドのCDを買いたいと思ったためだ。

 出口を出て、神原は駅前のスクランブル交差点に差しかかる。歩行者信号はちょうど赤になったばかりで、渡るには少し待たなければならなかった。その間、神原はどこに目をやるでもない手持ち無沙汰な時間を過ごす。

 すると、人々の雑踏に混じって、聞き覚えのある歌声が頭上から降ってきた。

 神原は思わず視線を上げる。その歌声は、交差点の向こうにあるビルにはめ込まれた大型ビジョンから流れてきていた。

 ビジョンに流れる映像に神原は目を凝らす。そこに映っていたのは間違いなくショートランチの三人だった。メジャーデビューとなるミニアルバム、そのリード曲と思しき曲のミュージックビデオが、ビジョン一面に映っている。

 それは、神原が以前顔見せライブで二曲目に聴いた曲だった。その曲は外で聴いてもやはり歯切れが良く、実際神原の周囲にもビジョンを見ている人は、何人か見られた。

 キャプションで示された発売日は今日の日付になっていて、この人目につく場所でミュージックビデオを流すのは、計り知れない宣伝効果があると神原には感じられる。きっと今ショートランチを知って、気になってミニアルバムを買う人間だっているだろう。

 本当にサニーミュージックに推されているんだなと、神原は羨ましさとそれ以上の妬ましさを感じる。自分たちには、まだこういった外で曲を流して宣伝するという話は出ていない。それはまだレコーディングが終わっていないから当然のことではあるものの、それでも神原は悔しさに似た感情を抱く。自分たちとの差を改めて思い知らされたようで、いてもたってもいられない。

 歩行者信号が青に変わると、神原はすぐに歩きだした。悔しさを振り払いたくて、歩調も自然と速くなる。

 今の自分たちにできることは、少しでも良い演奏をレコーディングすることだ。

 やるしかない。神原は歩きながら、決意を新たにしていた。


(続く)


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