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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(157)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(156)~





 お辞儀から顔を上げると、客席が改めて目に入る。東京大会よりも大きな会場が、ほとんど満席と言っていいほど埋まっている。

 落ち着いていたり、険しかったり、期待していたり。十人十色の表情を見せながら拍手を送る観客に、晴明は今一度背筋が伸びた。

 一角には波多野と両親が並んで座っている。軽く目を向けると、波多野は微笑んでくれていて、晴明から余計な緊張を取り去っていた。

 椅子に座って、ピアノに向き直る。鍵盤に残っている汗や手の脂をグリスで軽くふき取って、晴明は目線を上げた。

 視線の先に何かがあるわけではない。でも、これから演奏する曲はリストのメフィスト・ワルツ第一番『村の居酒屋での踊り』だ。リストの中でも屈指の難曲と知られているから、弾き始めるには呼吸を整え、心を落ち着かせる必要があった。

 拍手が止んだ小ホールには、氷の上にいるみたいな静寂が漂う。それが晴明には、何とも言えず心地いい。晴明は一つ息を吸うと、鍵盤に手を落として、演奏を始めた。

『村の居酒屋での踊り』は、不穏な空気を感じさせる五度の演奏で始まる。メフィスト・ワルツはゲーテの小説『ファウスト』に基づいた曲だ。悪魔であるメフィストが居酒屋で楽士からバイオリンを奪って調弦する様子が、この五度によって表現されている。

 晴明はマルカートという発想記号の通り、はっきりと、バイオリンを引っかく様をイメージして奏でる。不気味にも聞こえる冒頭に、小ホールの空気が一気に変わったことを、晴明は感じた。

 誰もが音楽に耳を傾けるだけでなく、心までも向けている。打鍵する指にも力みがなく、晴明は曲の導入に成功したことを頭の片隅で感じた。

 とはいっても、一一分ほどあるこの曲はまだ始まったばかりだ。晴明は浮かれることなく演奏に集中した。

 主題部に突入し、メフィストによるバイオリンの演奏が始まると、晴明は居酒屋にいる村人を踊らせるかのように、軽く優美な演奏を心掛けた。細かく休符が挟まれた旋律、を跳ねるように軽快に奏でてみせる。クレッシェンドが導く心が弾むような踊りは、悪魔が演奏しているとはとても思えないほどだ。

 上下する音階に、目まぐるしいオクターブ奏法。習得に時間がかかった箇所、も晴明は特別な意識をせずに弾くことができた。荘厳なグリッサンドが気持ちいい。

 曲を一部分だけでも自分のものにできている感覚に、晴明は演奏しながら明確な喜びを抱いていた。客席も聴き入っているのが、見なくても伝わってくる。

 確かな手ごたえは気分を盛り上げ、演奏に艶を増していく。三拍子の跳ねるようなメロディも合わさって、晴明はかすかな万能感さえ抱いた。

 賑やかで華美なメロディは続いていく。

 それでも、晴明は主題部が終わるにつれて演奏を弱めた。曲想が移り変わるのを印象付けるように、ソフトペダルを踏む。打弦される弦が限定され、音は柔らかな響きを持つ。ささやくような甘い響きを、晴明はこの中盤の展開部に込めた。

 曲のストーリーでは、ここはメフィストによって若返ったファウストが、意中の村娘マルガレーテを見つけるシーンだ。オクターブの響きが高鳴るファウストの鼓動を優しく、それでいて情熱的に伝える。

 過度な甘さに浸らないように晴明は細心の注意を払って演奏したが、それでもこの展開部が持つ甘美な響きには、心を動かされずにはいられない。

 だんだん遅く、弱くなっていく音がファウストのもどかしさを物語っていて、晴明はたっぷりと間を取って演奏に表情をつけることで、ファウストが抱く葛藤を観客に伝えた。

 きわめて早い音の羅列が甲高く叫ぶ若者の登場を表現し、曲はさらなる展開を迎える。

 楽譜に書かれた指示は、テンポルバート。テンポを速めたり、遅くしたり、演奏者の解釈に大きく委ねられる箇所だ。晴明としてもここは曲の要であり、じっくり聴かせたい箇所でもあったので、間延びしない程度にゆっくりと、それでも時折速度を速めてメリハリをつけた。上昇する音階が、マルガレーテの抵抗する声を表しているかのようだ。

 若者に言い寄られるマルガレーテを見て、ファウストも黙っているわけにはいかない。若者とマルガレーテを取り合おうとする。右手と左手で奏でられる異なる旋律が、二人の男の姿を立ち上がらせていて、晴明は演奏しながら、胸のなかで手に汗を握っていた。

 ピアニッシモの指示だから、そこまで強くは弾けない。それでも、晴明は緊迫感のなかで集中しが演奏ができていた。別に強く弾くだけが、表現の方法ではない。弱音部には弱音部なりの豊かさがあるのだ。

 観客も固唾を飲んで、自分の演奏を聴いている。晴明の胸には、ただ曲に対する純粋な没入感だけがあった。

 ピアノが出せる限界近くの高音部を弾き終わると、曲は再び主題部に戻った。メフィストが奏でるバイオリンの音。それはすなわち、ファウストがマルガレーテを自分のものにしたことを象徴している。

 音階の上昇や下降も派手でフォルティシモの指示通り、晴明の打鍵する指にも力が入る。目一杯低音部が鳴らされ、そのかすかに濁った響きはメフィストの悪魔性を暗示しているようだ。

 そのまま曲は、この難曲でも最大の難関部・オクターブの跳躍を迎える。とはいえ、何度も波多野と確認した箇所でもあるので、もはや考えるよりも身体が覚えていた。

 晴明は小気味よく演奏を続ける。ファウストとマルガレーテの情熱的なダンスを再現するかのように。

 晴明は自分の周りで空気がうねっているのを感じた。身体が波打つような感覚。それはまさに晴明の演奏がうまくいっている証拠だった。

 曲はクライマックスを迎える。フォルティシッシモの鍵盤を踊るように移動する旋律を、晴明は文字通り今自分が持てる全ての力を注いで奏でた。

 観客や審査員の反応は、もはや目に入らない。耳から入った音が身体に浸透していき、晴明のなかで一つになっていく。晴明は完全に、自分とピアノだけの世界に入りこんでいた。

 熱中したパッセージを弾き終わると、晴明は打って変わって打鍵する力を弱める。ファウストとマルガレーテは一緒になって森の中へと消えていくのだ。減衰する音に、離れていく二人を晴明は思う。夜鶯が鳴くように、余韻を持ってトリルやアルペジオを弾く。

 二人の行く末は、誰も知らない。せめて幸せな結末が待っていますようにと、消えていく和音に晴明は思わずにはいられなかった。

 二人が去った後も居酒屋では、メフィストの演奏による踊りは続いている。晴明は最後にもう一段階ギアを上げて、駆け抜けるようにして曲を終結に運んだ。力強く最後の一音を鳴らし、心の底からやりきったと思う。

 観客席も一瞬静まり返った後に、惜しみない拍手を送ってくる。盛大な祝福は、客観的に見ても晴明の演奏が成功したことを物語っていた。

 立ち上がってお辞儀をすると、拍手はさらに大きくなる。突き抜けるような爽快感。

 晴明は今一度、客席を見回した。割れんばかりに手を叩く両親の隣で、波多野が満足そうに手を重ねている。その光景を見るだけで、晴明の胸は満たされた。

 順位はもはや大事ではない。持てる力を出し切れたことが全てだ。

 晴明はステージを去るまで、感慨を持って拍手を聴いた。

 これからの演奏活動も、きっとうまくいく。そんな確信にも似た予感を、晴明は感じていた。

「ハルー、おはよー」

 玄関を開けると、満面の笑みを見せる桜子がいたから、晴明の心は大いに癒やされる。一夜が明けて、昨日の演奏は紛れもない現実だったのだと、ようやく実感が湧いてくる。

 でも、頭は昨日の疲れを引きずっていて、まだ少し眠たかった。

 二人は、学校を目指して歩き出す。通学路には、同じ中学の制服を着た学生が何人も歩いている。

 だけれど、晴明に気づいている様子はなくて、完全な現実なのに、晴明にまだ夢の中にいるような心地さえ抱かせる。思わずあくびをすると、桜子が少し心配そうに見つめてきた。

「どうしたの? まだやっぱちょっと眠い?」

「まあな。昨日はなかなか落ち着けずに、あまり眠れなかったから」

「そう。でも、今日はしっかりしてよ。全校朝礼で報告するんだから」

 桜子の諫めるような言葉は晴明を再び現実に引き戻した。晴明たちが通う中学校では、毎週月曜日に校長による全校朝礼がある。部活動等で結果を残した学生の報告も時折一緒に行われるのだが、急遽昨日の夜に晴明の報告会を行うことが決まったのだ。

 何か一言、挨拶を求められたりもするのだろう。そう考えると晴明は少し気が重たくなる。演奏ならまだしも、大勢の前で何かを話すのはあまり得意ではなかった。

「分かってるって。ちゃんとふさわしい態度で臨むよ」

「ならよかった。みんなハルのこと祝ってくれると思うよ。どう? 一夜明けてみて、今の気分は。中二で学生コン一位獲るのって珍しいんでしょ?」

 嬉々として聞いてくる桜子に、晴明も口元を緩める。

 審査の結果、晴明は見事一位に輝き、また来年の入賞者記念演奏会への出演も決めていた。昨夜、両親が自分事のように喜んでいたことを、今でも思い出せる。

「まあ嬉しいっちゃ嬉しいよ。でも、それと同じくらい驚きもあるかな。まさか二年生のうちに一位獲れるとは思ってなかったから。こういうのを望外の喜びって言うんだなって思った」

「またまたー、そんな謙遜しちゃってー。本当は自分が一位獲れると思ってたんでしょ?」

「そりゃもちろん自信はなくはなかったよ。でも、俺よりも上手かったり経験を積んでる人はいくらでもいるから。正直、全国大会に残れただけでもやったって思っちゃったな」

「そう? 私も会場で聴いてたけど、ハルの演奏が一番感動したけどなー。真に迫るって感じ? 迫力も繊細さも他の人とは段違いだった」

「ありがとな。でも、もしそう感じたんなら俺を支えてくれた両親や、指導してくれた波多野先生のおかげだから。俺自身の力なんてサクが思ってるほどもないよ」

「まったく。どこまで謙虚なんだか」

 小さく笑い合う二人。吹く風は寒いが、上空からは温かな日差しが降り注いできていて、自分たちを包みこんでいるようだと晴明は感じた。

「まあでもこれでよかったんじゃない? 良い順位獲るに越したことはないでしょ」

「それはそうだな。評価してもらったことは、俺もありがたく受けとめてるよ」

「それにさ、今回の結果はハルの将来にとってもプラスになったんじゃない? ほら、いつか言ってた音楽学校への進学。中二にして学生コンで一位獲ったんならもう確実でしょ」

「だといいんだけどな。まあそれも、これから話し合って決めることだから、今すぐにどうこう言えるようなことじゃねぇよ」

「ねぇ、ハル」

 さっきまでのにやついた声とは裏腹に、桜子が真剣な表情をしたから、晴明は目を向けざるを得ない。

 桜子は歩みを止めなかったが、それでも晴明の方を向いて確かに口にした。

「絶対良い演奏家になってよ。私、あの似鳥晴明と幼馴染みなんだって自慢したいから」

「ああ。サクこそ頑張れよ。絶対女優になって、俺に文月桜子の知り合いだって自慢させてくれよ」

「女優じゃないでしょ。私がなるのは売れっ子女優なんだから。将来なんかの映画かドラマで一緒に仕事できたらいいね。私が主演でさ、ハルが主題歌とかの音楽を担当すんの」

「本当にそうなったら凄いよな。まあ何年かかるかは分かんないけど」

「いや、何年かかっても絶対に実現させようね。約束だよ」

 桜子の言葉の力強さに、晴明も思わず頷いた。コンクールで一位を獲った自信からか、自分たちには明るい未来しか待っていないように思われた。

 角を曲がって、遠くに学校が見えてくる。生徒の数も増えてきた。

 晴明たちは何度通ったか分からない道を、着実に歩く。朝の冷え切った空気が頬を撫でる感覚さえ、晴明には気持ちよかった。


(続く)


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