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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(156)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(155)





「お疲れー、ハル。昨日は大変だったでしょ?」

 晴明が教室に入って自分の席に座ると、後ろの席に座る桜子が話しかけてきた。陽気な声が、晴明に日常に戻ってきたことを印象づける。

 教室はざわざわとしていて喧騒そのもので、開いた窓から十月特有の涼しい風がかすかに吹きこんでいた。

「別にそこまでもなかったぜ。もう何百回も練習した曲だったからな。特別意識せず、普段通り弾けたと思う」

「さっすが、ハル。三歳からピアノやってるだけあるね」

 感心する桜子にも、周囲はこれといったリアクションを示すことはなかった。

 晴明がピアノを弾いていることは、クラスでも周知の事実だ。だけれど、桜子以外はあまり関心を示していない。

 興味が薄いのだろう。晴明にとってピアノを弾くことは何ら特別なことではなかったから、あまり話しかけてこられなくても別に構わなかった。

「そうやって普段通りって言っときながら、しっかり第一位を獲得しちゃうんだから、ハルは本当凄いよ。天才だね」

「よせよ。出場者全員レベルが高くて、誰が第一位になってもおかしくなかったんだから」

 晴明がそう言ったのは、謙遜ではなく、紛れもない本心からだった。実際、今回の本選は実力が拮抗していて、自分が選外になっても何も不思議ではなかったと、晴明は感じていた。

 それでも桜子は「またまたー」と、晴明の言葉を本気にしてはいない。訂正するのにもエネルギーが必要だったから、晴明は桜子の思わせたいように思わせておいた。どのみち桜子は、晴明のピアノしか知らないのだ。

「ごめんね、ハル。本選、聴きに行けなくて」

「いいよ。演劇部の稽古があったんだろ? 文化祭も近いし、そっちを優先させた方がいいよ」

 桜子は来月初めに行われる文化祭で上演される演劇で主演を務める。稽古に穴を開けるわけにはいかなかっただろう。それが小学校からの友人の大事な舞台であったとしても。

「うん、そうだね。でも、全国大会は来月の末でしょ。その頃には文化祭も終わって、多少は暇になってると思うから、コンクール、聴きに行けると思う」

「ああ、ありがとな」口から出た言葉は、間違いなく晴明の本音だった。去年、晴明は本選で選外となったから、全国大会の舞台を知らない。何もかもが未知の世界で、知り合いが一人でも増えることは、味方がいるという安心感をもたらしてくれるだろう。

 桜子は何度も自分のピアノを聴いているから、今さら恥ずかしさも晴明は感じなかった。

「ところでさ、ハル、あの話はどうなったの?」

「あの話って?」

「ほら、東京の音楽学校から推薦の話がきてるみたいなこと、前言ってたじゃん。あの話って進んでんの?」

 コンクールに集中していて、すっかり忘れていた。というわけでは晴明にはなく、毎日その音楽学校のことは頭の片隅で意識していた。

 でも、今はコンクールが先決だ。少し訝しむ表情を見せている桜子に、自然な顔をして答える。

「いや、推薦の話が来てるって言っても講師の人と、二言三言話しただけだから。特に話は進んでねぇよ。まだそういうことを考える時期でもねぇしな」

「そう。よかった。その音楽学校って東京にあるんでしょ。ハルと離れ離れになっちゃうかと思った」

「あのさ、もし行くにしても十分家からは通える距離にあるんだから、引っ越しはしねぇって。両親もひとり暮らしにはまだ早いって言ってるしな」

 桜子が多少心配しすぎているように感じたから、安心させるためにも、晴明は冷静な口調を心がけた。音楽学校には寮もあるとはいえ、まだ両親と離れて暮らせる自信は晴明にはない。

 安堵した表情を見せている桜子を見ると、晴明もどこか胸がすく思いがした。少ないとはいえ、気楽に話せる友人がいてよかったと感じる。

「うん。通学とか色々大変だと思うけど、絶対にその音楽学校で頑張ってね。私、ハルがもっと立派な演奏家になれるよう応援してるから」

「ああ、まだ決まったわけじゃねぇけど、ありがとな」

 教室は相変わらず騒々しくて落ち着かない。だけれど、晴明はそんなことも気にならないほど、爽やかな気分でいた。

 たとえ別々の高校に進んだとしても、桜子は何度も晴明の背中を押してくれるだろう。

 そのことがコンクールで全国大会に進んだことと同じくらい嬉しかった。まだまだ続く練習も頑張れそうな気がした。

 チャイムが鳴って、担任が教室に入ってくる。すぐに教室は静まることなく、まだ話し声に溢れていたが、晴明は桜子との話をやめて前を向いた。

 黒板も時間割も学級目標も、何一つ先週と変わっていない。自分に何があっても、この教室はずっとこのままであり続けるのだなと、晴明はふと思った。

 軽快な音色が地下室に響く。華やかなトリルや瑞々しい三度を、晴明は力を抜いた状態で奏でる。

 晴明はウォーミングアップがてら、練習曲を弾いていた。指は今日もスムーズに動いてくれているし、ピアノから発せられる音にもよどみがない。

 だけれど、晴明は心の中で無視できない不安を感じていた。レッスンの開始時間になっても、波多野が現れないのだ。

 少し遅れるとスマートフォンに連絡は入っているものの、波多野が宣言した時間ももう過ぎている。

 レッスンそのものは遅れた分、終了時間を延ばせばいいのだが、それでも波多野の遅刻は、晴明の胸に大きな波紋を投げかけていた。練習曲が終わるたび、ドアを見やる。でも、開けられる気配はあまりなかった。

 ドアがノックされたのは、晴明が四つ目の練習曲を弾いている途中、レッスン開始時刻を一五分も過ぎてのことだった。

 晴明が開けると、そこには波多野が立っていた。急いで来たのか息が上がっていて、額に薄っすらと汗をかいている。着ているジャケットが暑苦しそうで、その様子を見ると、晴明には波多野を責めることはできない。

「似鳥くん、本当にすいません。レッスンの時間に遅れるなんて講師失格ですね」

「いえ、そんなことおっしゃらないでください。こうして無事に来てくれて、僕は安心してますから」

「すいません。心配をおかけして。これは言い訳にしかならないのですが、実は昨日研究で徹夜をしてしまいまして。似鳥くんのレッスンには間に合うように寝たのですが、寝すぎてしまいました。今後はこのようなことがないよう、十分に睡眠時間を確保したいと思います」

「そうだったんですか。それはお疲れ様でした。あの、僕もうウォーミングアップはできてます。今すぐにでも課題曲の練習を始められます」

「そうですか。では昨日に引き続き、第二楽章を重点的にやっていきましょうか」

 晴明は波多野の息が落ち着くのを待ってから、練習を始めた。ウォーミングアップの時間を長く取ったおかげか、苦手な箇所もすらりと弾くことができる。アーティキュレーションもいつになく明瞭で、弾いていて手ごたえがある。波多野も大いに褒めてくれた。

 だけれど、晴明の心は浮かれ立つことはなかった。指導している波多野の顔色が、あまり優れているとは言い難かったからだ。瞼が重そうで、目の下にできたクマがまだ睡眠が足りていないことを訴えている。

 さすがに波多野も自分の体調には気づいていたのか、この日は椅子に座りながらの指導だったが、それでも心配に思う気持ちは晴明からは抜けない。最初はよかったものの、徐々に集中力を欠いてしまって、音色もぎこちなくなり始めてしまう。

 原因が自分にあると思っているのか、波多野も強く指摘してはこない。晴明は少しずつ崩れていく自分の演奏に、焦りを覚えた。練習が早く終わってほしいと、滅多に思わないことを願った。

 それでも、晴明は自分を奮い立たせながらピアノに向かい続け、練習は当初予定していた時間をきっちり確保してから終わった。

 最後の一音を弾き終わったとき、晴明は普段以上に疲れてしまっていたが、それでも波多野がより疲労困憊といった表情をしていたから、素直に疲れを口にすることは憚られる。

 お互いに礼をすると、練習室の空気は少しだけ和らいだものになる。もうそろそろいい時間なのに、壁のランプは光っていない。波多野は頭痛でもあるのか、少し辛そうな表情をしている。

 得策ではないと分かっていながらも、晴明は一応尋ねた。

「波多野先生、今日は夕食、食べていきますか? 母親がアヒージョを作ってくれているんですけど」

 波多野はすぐに返事をしていなくて、厚意に甘えるかどうか迷っているようだった。こまめに瞬きをしている波多野を、晴明は複雑な思いで眺める。

 やがて、波多野は小さく頭を下げてから答えた。

「申し訳ありません。お気持ちはありがたいのですが、今日はこのまま帰らせてください。家で少しゆっくり休みたいです」

 そう言って、バツが悪そうな表情をした波多野を、晴明は引き留めずに、すんなりと受け入れた。今日の体調なら、それが最善だろう。

「分かりました。両親には僕から言っておきます。どうかお大事になさってください」

「はい。今日は気を遣わせてしまって申し訳ありませんでした。絶対にこのようなことがないよう、以後しっかりと体調管理に気をつけたいと思います」

 二人は練習室を出て、階段を上っていく。足取りだけでも、波多野の気分が優れていないのは明らかで、晴明はゆっくり休んでほしいと心から思う。

 両親にも一言挨拶を済ませてから、晴明は夜道を歩きだす波多野を見送った。波多野の家は東京にある。どうか無事に辿りつけますようにと、晴明は祈らずにはいられなかった。

 すぐ近くで、海が静かに凪いでいる。都市部ともあって眼下では人々が盛んに行き交い、海岸線に沿って建つ背の高いビル群が、どこか忙しない。

 背後から聞こえてくる演奏は、きっと小学生の部の出場者のものだろう。全国大会ともなると、そのテクニックや音色は自分たちと比べてもあまり遜色がない。

 演奏中ともあって、屋上デッキに人はほとんどおらず、晴明はコートの裾を掴みながら、それでもリラックスすることができていた。

「似鳥くん、こんなところにいたんですか」

 ドアを開けて、屋上デッキにやってきた波多野に晴明は振り向いて、挨拶をした。黒いチェスターコートが精悍な印象を与えてくる。

 一一月下旬は、もう冬のように寒い。

「ちょっと外の風に当たりたくて来ちゃいました」

 晴明は意識して頬を緩めた。

 小学生の部開催中、中学生の部出場者はあまりやることがなかった。楽屋にいても、全国から集められただけあって、顔見知りは天ヶ瀬ぐらいしかいなかったから、会話は弾まない。

 審査開始一時間前までには戻っていればよかったから、晴明は息が詰まるような楽屋を抜け出していた。屋上デッキは寒いけれど、緊張した空間にいるよりはマシだった。

「そうですか。昨晩はよく眠れましたか?」

「はい。八時間ぐっすり眠れましたし、体調も万全です。出番も三人目で悪くないですし、いい条件が揃ってると思います」

「このホールで演奏するのは初めてですよね。どうでしたか? リハーサルの感触は?」

「音響がいいのはもちろんなんですけど、なんというかホールに温かみみたいなものがあって、全国大会の舞台にふさわしいなと感じました。必要以上に緊張せずに演奏できそうです」

「それは何よりです。似鳥くんの力なら、過度な緊張さえしなければきっといい成績を残せると、私は思っているので」

「ありがとうございます。ぜひ上位に入って、来年の入賞者記念演奏会に出演できるように頑張ります」

「ええ、その意気です。でも、コンクールは順位が全てではありませんから。重要なのは経験から何を学ぶかです。きっと今日の演奏も、似鳥くんにとっては大きな学びとなることでしょう。結果がどうであれ、ぜひ今後に役立てて、より良い演奏家になってください」

 波多野なりのエールに、晴明は歯切れよく頷いた。感じていたプレッシャーもいくらか軽減される。

 別に今年のコンクールで優秀な成績を収めなかったからといって、晴明の演奏家生命が絶たれるわけではないのだ。あくまで腕試しのような感覚で臨めばいい。

 そう思うと、晴明は今日を目一杯楽しもうという気になる。その方が肩の力も抜けて、いい演奏ができるだろう。

「はい。どちらにせよ、今年最後の人前での演奏ですし、今年一年やりきったと思えるような演奏をしたいと思います」

「ええ。ベストを尽くして、いい状態で新しい年を迎えられるようにしたいですね」

 実感を込めて言う波多野に、晴明は意気を高める。今日を終えれば、しばらく人前で演奏する予定はない。大きく成長できたこの一年を、納得のいく形で終わらせたい。

 それでも、晴明には今から少し寂しさが浮かんでしまう。

 口にするのには少しエネルギーが必要だったけれど、波多野なら訊いても不満そうな顔を見せずに答えてくれると思った。

「あの、波多野先生は、今年も年末年始はフランスですか?」

「はい。今年も一週間ほど、母方の実家に帰省する予定です。その間、似鳥くんへの指導はできなくなってしまいますね」

「いえいえ、滅相もありません。ちゃんと自主練しておきますから、僕のことは気にせずゆっくりしていってください」

 晴明が気丈に振る舞うと、波多野は「そうですか」と口元を緩めた。

 波多野は既に、父親を心臓の病気で亡くしている。そのため親戚は母親を始め、フランスにしかいない状態だ。もちろん波多野の指導を受けられないのは、晴明にとっては損失だが、それでも年中忙しい波多野のプライベートな時間を確保する方が、優先されるべきだろう。

 海から一筋の寒風が吹く。それは、晴明と波多野の身を大いに震わせた。日差しはあるけれど、あまり役目を果たしてはいない。

「寒いので中に入りましょうか」と言った波多野に、晴明も首を縦に振った。

 演奏が終わったのか、屋内からは拍手が聞こえてくる。でも、まだ休憩時間ではない。

 二人はドアを引いてホワイエに戻った。満遍なく行き渡った暖房が、二人を柔らかく包みこんでいた。


(続く)


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