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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(159)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(158)






 エレベーターのドアが開く。すると、晴明は千葉の街を一望することができた。市街地の隣にくっきりとした海岸線が続いている。

 自分の家はどの辺だろうと目星をつけながらも、晴明はめったに見られない景色に竦んでしまっていた。ただでさえ来ることがない千葉県庁の最上階にいるという現実が、にわかには信じられない。職員の後をついていく自分が、雛鳥のようにも思えてしまう。

 仕事を休んでくれた冬樹がついていてくれているものの、場違いな場所にいるという心細さは、晴明からはどうしても抜けなかった。

 職員がノックして一番奥の部屋のドアを開けると、そこには既にカメラが数台準備されていた。壁には高そうな絵画が飾られ、その上に県章を記した旗が張られている。調度品も見るからに高価そうで、明るい茶色でまとめられた室内は、上品なオーラを漂わせていた。

 人生でもう入ることはないかもしれない。知事室は選ばれし者しか入れない風格を存分に纏わせていて、晴明は息を吞んだ。

 職員に手で促されて、部屋の真ん中付近に晴明は立たされる。すると黒のシックな椅子に腰を下ろしていた、千葉県知事の細矢が立ち上がった。まだ任期一期目で、年齢は冬樹とさほど変わらない。だけれど、含蓄のある表情は晴明に、人とは違う特別なオーラを感じさせるには十分だった。

 細矢は晴明の隣にまで歩を進めると、「似鳥晴明くんですね? 全日本学生音楽コンクールピアノ部門中学生の部、第一位受賞おめでとう」と言って、右手を差し出してきた。大きな手に晴明は一瞬固まってしまったけれど、取れる行動は一つしかない。

「は、はい。ありがとうございます」と同じく右手を前に出すと、細矢は晴明の手を優しく、それでもしっかりと握ってきた。かすかな皴が刻まれた肌に、晴明は息をするのも忘れそうになる。

 それでも、細矢にならってカメラの方を向くと、一斉にフラッシュが焚かれ、シャッター音が切られた。

 当然、ここは笑顔で写真に写るべき場面だったのだろう。

 だけれど、晴明は厳かな知事室の空気に、まだ順応できていなかった。笑顔もややぎこちないものになる。テレビや新聞で取り上げられると思うと、気が気ではなかった。

 細矢から第一位受賞を祝う賞状を贈られても、晴明は満面の笑みを見せることはできなかった。知事室の雰囲気に気圧されていたこともあったけれど、それ以上に自分がわざわざ知事から表彰されるようなことをしたとは思えなかった。今回の第一位受賞は、別にゴールでも何でもない。

 それでも、自分たちに向けられるいくつものカメラと、細矢の穏やかな表情を目の当たりにすると、本音は言えるはずもなかった。

 知事から表彰される機会は、ほとんどの人にはない。だから、受け取られるものはありがたく受け取ろうと晴明は思った。

「いや、実はね、私は前々からクラシック音楽が好きで、似鳥くんのことも以前から知っていたんですよ」

 朗らかに口にする細矢にも、晴明は曖昧なリアクションしか返せない。

 表彰は握手や賞状の贈呈だけでは終わらず、今二人はそれぞれの椅子に腰を下ろして、向かい合っていた。改めて目の当たりにすると、細矢の表情からは県を背負う重圧や覚悟のようなものが滲み出ていて、晴明からは話を終わらせたくてもできそうにない。

 いくつものカメラの横で立っている冬樹からの助け舟も期待できず、晴明はまるで自分たちが檻の中にでもいるように感じられた。

「全日本学生音楽コンクールといえば、全国から有望な出場者が集まる、日本でも随一の学生コンクールでしょう。そこで第一位を受賞できたのは、似鳥くんにとっても大きな自信になったのではないですか?」

「は、はい。もちろんコンクールの結果だけが音楽の全てではないんですけど、一つ目に見える結果を残せたことで、おっしゃる通り自分の演奏により自信が持てるようになりました」

「それはよかったですね。似鳥くんは小学五年生の時から県の音楽祭に出演していますから、その経験が糧となってくれていたら、私としても嬉しいです」

「そ、そうですね。千葉県の音楽祭がなかったら、今回の結果もなかったと思っています」

「そうでしょう。ぜひ私としては、来年以降も似鳥くんには出演していただきたいのですが、いかがでしょうか?」

「は、はい。ぜひお願いします」

 返事を渋るなんて晴明にはできるはずもなく、空気に流されて前向きな返事をする。おそらくは今この場で、来年の音楽祭への出演も決定したことだろう。

 いささか急だったが、それでも晴明は演奏の舞台が用意されたことを肯定的に捉えることにした。観客の反応を直に知られる舞台は、たとえ一つでもあるに越したことはない。

「いえいえ、似鳥くんに出演してもらえるなんて、こちらこそ感謝感謝ですよ。私としても千葉出身の芸術家は応援したいですからね」

 また千葉という狭い地域で括られるのか。音楽は県境どころか国境も越えるのに。

 そう晴明は思ったけれど、話の腰を折ることは許されそうもなかったから、ただ曖昧に頷くだけに留めた。これから先、演奏を披露する機会を定期的に作ってくれるのなら、悪い話ではないだろう。

「そ、それはありがとうございます」

「いえいえ。特に似鳥くんはまだ若く、無限の未来が広がっていますから。ぜひとも千葉で培ったものを生かして、世界に羽ばたいていってください」

「私も一ファンとして応援していますよ」そう暖かい言葉をかけられても、緊張した晴明の心は期待通りには動かなかった。輝く細矢の目に、千葉の若者の期待の星になれと言外に言われているようで、内心怯んでしまう。

 忘れられているかもしれないけれど、自分はまだ中学生なのだ。そこまで多くのものを背負えるとは晴明には到底思えない。

 だけれど、自分たちに向けられるいくつもの目とカメラが、晴明に「はい、頑張ります」という言葉を吐かせる。当然これからもピアノは続けるつもりだが、頑張ることを強制されるのは少し違う。過度な期待に、今すぐにでもこの場を立ち去りたい。

 それでも、細矢は晴明との会話をやめなかった。クラシック音楽について専門的な言葉も使いながら、どう演奏したのかを事細かに聞いてくる。

 インタビュアーのような質問にも、晴明は嫌な顔一つ見せず答えた。感慨深げに頷いている冬樹にさえ、少し不信感を抱いた。

「どうですか、晴明さん。入賞者記念コンサートに向けては。練習の方は順調ですか?」

 目の前に座る男性は、そう話を切り出した。もう何度か家に来ているものの、晴明は未だにこの男性を目にすると緊張してしまう。

 この男性の名は、宮島文治。東京に居を構える、日本総合芸術高等学校の音楽科講師だ。

 年が明けて間もないこの時期に来た理由は、晴明にも当然分かっている。だからこそ、晴明は必要のない萎縮をしてしまうのだ。

「は、はい。概ね上手くいっていると思います。宮島さんの期待に応えられる演奏が、当日はできると思います」

「そうですか。確かショパンのポロネーズ第五番でしたよね。楽しみにしてますよ」

 それとなくプレッシャーをかけられて、晴明は喉に餅がつまったような返事しかできない。隣に座る冬樹に「しっかりしなさい」と軽く背中を叩かれても、晴明はぴんと背筋を伸ばしきることはできなかった。

 自分の未来が決められる瞬間が、刻一刻と迫ろうとしている。これでどうして落ち着いていられるか、リラックスできるかが、晴明にはいまいち分からない。

「さて、本題ですが、晴明さん。僕が今日、何の話をしに来たのかは分かってますよね?」

「は、はい。推薦入学の件でしょうか……?」

 おずおずと口にした晴明に、宮島は鷹揚に頷いてみせた。心配することはないといった微笑が、余計に晴明の身体を強張らせる。

「その通りです。今回は晴明さんの意志を今一度確認したくて、来させていただきました」

「僕の意志、ですか」

「はい。結論から申し上げますと、私たち日本総合芸術高等学校は、来年の音楽科の新入生として、ぜひとも晴明さんを迎え入れたいと考えています」

 それは晴明からすれば、願ってもない申し出だった。日本でも屈指の規模と実績を誇るその高校に入学すれば、より高度で専門的な音楽教育が受けられる。将来ピアニストとして活躍するなら、間違いなく行くべき場所だ。

 だけれど、晴明はすぐに受け入られない。自分が本当にピアニストになる覚悟があるのか、まだ自信が持てずにいた。

 なのに、当の晴明に先んじて冬樹は「ありがとうございます」と頭を下げてまで、お礼を言っている。もちろんありがたい話ではあったので、晴明もそれに続いた。

「いえいえ、全日本学生音楽コンクールで第一位を受賞された晴明さんなら、才能も将来性も十分ですし、私どもも総意を挙げて、晴明さんの今後の演奏活動がより充実したものになるように取り組む所存です。他の学生の刺激にもなりますし、私としてはぜひとも似鳥さんに本校に入学していただきたいです」

 宮島は揺るぎない眼差しで晴明たちを見てきている。嘘はおろか、お世辞やリップサービスもかけらも含まれていないように晴明には思えた。

 でも宮島の情熱に、ここまで誰かから必要とされたことはかつてなかったから、晴明は素直に乗ることができない。自分でいいのかという思いさえ湧いてくる。

 冬樹が煮え切らない晴明の態度を見て、「これはまたとないチャンスなんだぞ」と諭す。言われなくても分かっているし、いつかは決断しなければならなかったが、それでも晴明はまだ踏ん切りがつかずにいた。

「晴明さん、本校はご実家から通える範囲内ですし、学費も推薦入学ならいくらか免除されます。何より晴明さんの、もっと優れたピアニストになりたいという要望に応えられるのは、本校しかありません。入学していただけるなら、私たちは諸手を挙げて歓迎しますよ」

 いくら条件面の利点を宮島が上げようとも、晴明が迷っているのはそこではなかった。身勝手な話だが、今の環境が変わってしまうことへの恐れも、ないとは言えない。

「晴明さん」と宮島はあくまで優しく語りかけてきたが、晴明には決断するよう言われているみたいで、プレッシャーだ。加湿器は稼働しているのに、空気は乾いているように感じる。

「そうですよね。一人で知らない土地に通うのは不安ですよね。でも、安心してください。今年の推薦枠は晴明さん一人ではありませんから。全日本学生音楽コンクールで晴明さんに続く第二位の成績を収めた天ヶ瀬さんも、既に来年から本校に入学することが決定しています。小学生の時から予選で何度も顔を合わせているはずですし、知らない仲ではないですよね?」

 晴明の不安を見透かしたかのように、宮島はつけくわえた。確かに一番の懸念事項は、東京という慣れない環境だったから、天ヶ瀬の存在は晴明の中の天秤をいくらか進学へと傾ける。たとえ一人でも知り合いがいるというのは、想像しただけで心強い。きっとお互い刺激を与えあって、切磋琢磨できることだろう。

「まあ今日答えをいただければ一番いいんですが、晴明さんなら他の学校からも声がかかっていることでしょう。まだ時間はたっぷりありますし、焦らずじっくり考えて決めてください」

 次の予定が迫っているのか、宮島は話を切り上げようとした。横に置いてあるコートに手を伸ばしている。

 その瞬間、晴明は「ちょっと待ってください」と宮島を呼び止めていた。ここまで来てもらって、何もなく帰らせることに申し訳なさがあったけれど、それ以上に晴明の中で一歩踏み出す覚悟が生まれていた。

「決めました。僕、貴校に入学します。いえ、入学させてください」

「晴明さん、何も結論を急ぐことはないんですよ。私を手ぶらで帰らせるのが、申し訳ないと思ってませんか?」

「いえ、十分に考えた結果です。貴校でなら、より深い知識が学べそうですし、今後の演奏家人生を考えたら、貴校の恵まれた環境に身を置くのが、最善だと思ったんです」

 とりあえずで言っているわけではないことを分かってもらうために、晴明は言葉に力を込めた。自分の将来の選択を他者に委ねることはしたくなかった。

 帰り支度をやめた宮島が小さく微笑む。その穏やかな顔に、晴明は未来への扉が一つ開く感覚を味わった。

「ありがとうございます。では、後日学校から推薦入学に関する書類を、晴明さんのもとへ送らせてもらいます。よく目を通して、期日までに返送してください」

 晴明は冬樹とともに頷く。後には退けないという思いが少しずつ強くなっていく。

 二人を見て宮島は「そうでした。それと推薦入学するにあたって条件がもう一つあります」と思い出したように言う。「なんでしょうか?」と聞きながらも、晴明は内心気が気でなかった。

「本校は芸術教育と同じくらい学業にも力を入れています。練習ばかりしていて、学生の本分を疎かにしてはいけませんから。よって晴明さんにも、ある程度の学業成績は求めます。とはいっても全国模試何位とか、偏差値いくつとかそこまで大それたものではありません。日々しっかりと授業を受けていれば、十分クリアできるレベルですので、安心してください」

 何事もないように語る宮島に、晴明は顔の引きつりを何とか抑えた。

 当然晴明だって勉強はしている。だけれど、テストはいつも平均点以下で、成績が良いとは決して言えない。どれだけ勉強に注力しなければならないかは不安だが、将来のためならやるしかない。

「分かりました」と、辛うじて宮島から目を離さないまま答える。自分ならできると信じるしかなかった。

「では、私はこのへんで失礼させていただきます。晴明さん、また会える日を楽しみにしてますよ。まずは月末の入賞者記念コンサート、頑張ってください」

 玄関先でそう言い残した宮島に、晴明もふさわしい丁寧な態度で答えた。きっと次に会うときは、晴明の入学が決まった後だろう。少しプレッシャーを感じるが、晴明はそれを自分の力に変える術を心得ていた。

 宮島は一つ深々と頭を下げてから、似鳥家を後にする。二人残された玄関で、冬樹が「やったな」と声をかけてくる。

 晴明も余計なことは考えずに頷いた。将来ピアニストして活躍する道筋が、おぼろげだけれど見えた気がした。


(続く)


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