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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(160)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(159)






 入賞者記念コンサートが二週間後に近づいた、ある日の夕方。晴明は程よく暖房の効いた地下室で、ピアノを前にウォーミングアップを続けていた。

 指を慣らすための練習曲を、さまざまなテンポで弾いていく。音の粒が立っていて、今日も調子に問題はなさそうだ。

 それでも晴明は、度々壁時計に目をやらずにはいられない。波多野との練習開始時間はもう一五分後に迫っていた。

 波多野は忙しく、到着はいつも時間間際になることが多い。そう分かっていても、この日の晴明はとりわけ落ち着けなかった。

 前回の練習時に、波多野は体調を崩したと言って来なかったからだ。今日は大丈夫だと連絡が来ているのだが、それでも晴明は心配せずにはいられない。

 それでも不安を払しょくするように、晴明がピアノに向かい続けていると、壁時計の上の赤いランプが灯った。波多野が来たサインだ。

 晴明がドアを開けると、そこにはコートを着込んでマフラーをした波多野が立っていた。この二日間でしっかり休めたのか、顔色が悪いようには晴明には見えない。

 それでも、波多野は「晴明さん、先週はすいませんでした」と謝ってきた。もちろん体調の問題だから、晴明は波多野を責める気にはならない。

「いえいえ、波多野先生がご無事なようで何よりです。前回は大丈夫だったんですか?」

「はい。少し風邪をひいてしまいましてね。熱も三九度近くまで出たのですが、二日間大人しく過ごしたことで、すっかりよくなりました。今日は晴明さんを教えるにあたって、何の心配もありません」

 波多野はごく自然な表情で言っていてから、無理をしているようには晴明には見えなかった。肌にもハリがある。だから晴明は、素直に波多野が言ったことを信じた。

「それは何よりです。では、今日もよろしくお願いします」

 二人はピアノに向かっていき、練習を始めた。既にウォーミングアップは済んでいたので、晴明はさっそく本題である、ショパンのポロネーズ第五番に取り組むことができた。

 まだ比較的おぼつかない第三楽章を、波多野が聴いている前で何度も浚う。その度に的確な指導を受けて、少しずつパッセージが板についてくる感覚が晴明にはあった。一人で練習しているときには得られない感覚に、波多野の存在の大きさを晴明は再認識する。

 波多野なしでは自分のピアノは成り立たない。誇張抜きでそう感じた。

 晴明が練習に明け暮れていると、入賞者記念コンサートの日はあっという間にやってきた。冷たいけれど、澄んだ空気が気持ちいい朝だった。

 コンクールぶりに黒の襟付きシャツに袖を通し、リハーサルを終える。会場は全国大会と同じだったが、コンクールが小ホールで行われたのに対し、入賞者記念コンサートは一階の大ホールで行われる。シューボックス型の大ホールは客席がステージをぐるりと取り囲み、二階席はおろか三階席まであるから、規模も雰囲気も小ホールとは大きく異なる。

 晴明としても、ここまで大きな舞台で演奏するのは初めてだから、リハーサルの段階から一杯に埋まった客席を想像して、緊張してしまう。普段通りにやれば大丈夫でも、その保証はどこにもないように思われた。

「似鳥くん、あけましておめでとう」

 楽屋に戻って少しすると、もう一人の出演者と話をしていた天ヶ瀬が晴明のもとにやってくる。もう一月も終わるというのに、ネタで言っているのか判断に迷う挨拶がおかしくて、晴明は少しだけ微笑むことができていた。

 そっくりそのまま同じ言葉を返す。慣れないほど大きな舞台でも、こうして気軽に話せる知り合いがいることは、晴明の心をいくらか落ち着けた。

「ねぇ、聞いたよ。来年、日芸に行くんだって? 僕と同じだね」

 どこか得意げな顔をしている天ヶ瀬に、晴明も頷く。宮島から聞いていたとすれば、知っていても不思議はない。

「うん。まだ書類は出してないし、正式に決まったわけじゃないけど、そのつもりだよ。日本随一の芸術高校に誘われたら、行かない手はないからね」

 天ヶ瀬の存在も決め手の一つになったとは、晴明は言わなかった。そこまで意識していると思われるのが、少し恥ずかしかった。

「そっか。じゃあ来年の四月からは僕たち同級生になるね。楽しみだなぁ。似鳥くんと学べるの」

「そうだね。二人で切磋琢磨し合って、より良いピアニストになれるようお互い頑張ろう」

 天ヶ瀬がにこりと表情を緩めたから、晴明も釣られて微笑む。緊張は完全に解消されたわけではないが、それでも心は少し軽くなっていた。

 来年から一緒の学校で学ぶのだと思うと、天ヶ瀬が同志に思えて心強く感じる。自分一人だけでは行けない場所に、天ヶ瀬と刺激し合うことでいけるような。そんな感覚がした。

 だけれど、晴明の前向きな感情は勢いよくドアを開けてきた冬樹によって吹き飛ばされた。スーツ姿で身を固めているが、表情には焦りの色がはっきりと浮かんでいる。

 ホワイエで開場を待っているはずの冬樹が、なぜここにいるのか。ただならぬ顔色に、晴明はおそるおそる尋ねる。

「お父さん、どうしたの? 何かあった?」

 晴明がそう聞くと、冬樹は苦み走った表情をした。「晴明、落ち着いて聞いてくれ」と言う声が、全く落ち着いていない。

 それだけでいい知らせではないことが分かって、晴明は思わず構えてしまう。

「波多野先生が一時間ほど前に倒れたそうだ」

 冬樹が口にした言葉は、晴明の頭を強くぶった。にわかには信じがたい事実に、脳が理解を拒んでいる。

 確かに波多野は体調不良で休んだこともあったけれど、ここ二週間は毎回欠かさず、晴明のもとに指導をしに来てくれた。特段顔色が悪いようにも見えなかったし、なぜという思いが去来する。思考は悪い方に向いてしまい、もはや一時間後の出番を考えられる気分ではない。

「それ、本当なんですか!?」と、訊いている天ヶ瀬の声が遠い。晴明は括りつけられたように、椅子から動けなかった。

「ああ、出かける準備をしている間に倒れられたそうだ。家政婦さんが救急車を呼んでくれて、今は病院にいる」

「そんな、今すぐ無事がどうか見に行かないと!」

「天ヶ瀬くん。気持ちはよく分かるが、まだ波多野先生は意識を取り戻していない状態なんだ。それにここから入院している病院へは車でも三〇分はかかる。行って帰ってきたら、もうコンサートは終わっているんだ」

「でも……」

「天ヶ瀬くん、それに晴明も。心配なのはよく分かる。ただ君たちは舞台に出て演奏をすべきだ。チケットを買って期待してくれているお客さんに、一人しか出れませんでは申し訳が立たないだろ。大丈夫。幸い現時点では命に別状はないようだし、君たちが演奏を終えて病院に着く頃は、きっと波多野先生の意識も回復してるから」

「そんなの分からないじゃないですか! 僕たちが演奏している間に、波多野さんにもしものことがあったらどうするんですか!? 今すぐ行かないと取り返しのつかないことになるかもしれないのに……!」

 波多野のファンである天ヶ瀬は、分かりやすく焦燥していた。敬愛する人間が倒れたとなれば、冷静でいられないのも当然だろう。

 冬樹が何とかして宥めようとするのを、晴明はまるで他人事のように眺めていた。あまりのショックに、神経がまともに働いていなかったのかもしれない。

 それでも気がつくと、晴明は口を開いていた。自分が何をするべきかは、意識しなくても分かっていた。

「天ヶ瀬くん。波多野先生のことも心配だけど、今はピアノを弾こうよ。それが今の僕たちにできる一番のことだよ」

「何!? 似鳥くんは波多野先生から指導を受けてるんじゃなかったの!? どうしてそんなに落ち着いていられるの!?」

「そんなことないよ。僕だって焦ってるし、どうしたらいいのか確信はないよ。でも、波多野先生は僕たちが出番を飛ばしてまで、自分のもとに来てくれることを望んでないんじゃないかな。きっと僕たちが演奏をしなかったって知ると、波多野先生は悲しい顔をすると思う。もしかしたら僕たちのことを叱るかもしれない。ずっと指導を受けてきたから分かるんだ」

 天ヶ瀬だけでなく自らに言い聞かせるかのように、晴明は口にした。

 今日の演奏は録音されないから、波多野の耳に入ることはない。それでもチケットを買ってくれた観客や開催に尽力してくれているスタッフのためにも、自分たちは演奏しなければならないだろう。

 動揺した状態で、満足のいく演奏ができるかどうかは分からない。それでもピアノの前に座らなければ、何にもならないと思った。

「そりゃ似鳥くんが言ってることも分かるけどさ、やっぱり僕たちが弾いてる途中に、波多野さんに何かあったらと思うと、僕は気が気じゃないよ。完全に演奏に集中するなんて、とてもじゃないけどできそうにないよ」

 天ヶ瀬が抱く焦燥は、晴明にも痛いほど理解できた。自分だって本当は今すぐ病院に駆けつけたい。

 でも、それは目の前のステージより優先すべきことなのか。晴明には確証が持てない。

「天ヶ瀬くん、ここは信じようよ。波多野先生のことも、僕たちのことも。絶対にうまくいく、大事にはならないって信じるんだ。そうでもしなきゃ、うまくいくものもいかないよ」

 分かっている。晴明だって自分の言っていることに無理があるのは。

 自分たちの演奏はともかく、波多野の身体は自分たちが信じたところで一つも関係がない。治療と波多野自身の生命力の問題だ。自分たちが行って呼びかけても、回復する保証はない。

 だったら今自分たちがすべきことは、観客の前に出て演奏することだ。晴明は疑いの余地なくそう考えていた。動揺を隠して、力強い目で天ヶ瀬を見る。

 晴明の思いが伝わったのか、天ヶ瀬も「分かった。波多野さんのことは心配だけど、僕も予定通り演奏するよ」と言ってくれた。その言葉は何が変わるわけでもないのに、晴明を勇気づける。

 波多野のことを心配に思うからこそ、それを感じさせないような圧倒的な演奏をしなければならないと感じた。

 冬樹が「二人ともありがとな。スタッフには俺から伝えておくから、二人は今日までの練習の成果を思う存分本番にぶつけてくれ」と言って、楽屋から去っていく。

 嵐が過ぎ去った後のような静けさのある楽屋で、晴明と天ヶ瀬はそれ以上言葉を交わさなかった。お互い余計な会話は、緊張や心配を高めるだけだと感じていた。


(続く)


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