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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(161)


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 拍手に包まれる大ホール。それは天ヶ瀬の演奏が成功に終わったことを示していた。

 深く頭を下げている天ヶ瀬を、晴明は舞台袖から眺める。天ヶ瀬の演奏は憔悴していた楽屋の様子からは想像もできないほど、時に落ち着き、時に瑞々しく、ミスタッチがないのはもちろん曲の解釈を一箇所たりとも外さない、完璧に近い演奏だった。

 天ヶ瀬の前の出演者も合わせて、二人続けて素晴らしいピアノが披露されたからか、会場の雰囲気は暖かく程よい緊張が流れている。演奏をするには、うってつけの雰囲気だ。

 舞台袖に戻ってきた天ヶ瀬と晴明は、一言言葉を交わす。拍手が鳴り終わったタイミングでアナウンスが鳴って、晴明は舞台上へと踏み出した。

 リハーサルの時も緊張したが、実際足を踏み入れてみると、三六〇度から視線を感じるため、その度合いは比べ物にならない。衆目に晒され、鼓動が速くなると同時に、晴明の頭は波多野のことを考えてしまう。

 未だに意識が戻ったという連絡はない。不安が身体を震わせたけれど、晴明はそれをどうにか留めて、前を向いてお辞儀をした。

 入場時から鳴っていた拍手は、よりいっそう大きくなる。波多野の状態など知ったことではないと言うように。

 椅子を調節して、晴明はピアノの前に座った。白と黒の鍵盤を見ていると、波多野と練習した記憶が蘇る。焦りや不安がないまぜになって、晴明に襲いかかる。

 それでも、晴明はそれらを静めるように一つ深呼吸をすると、鍵盤に手を置いて、最初の一音を奏でた。

 ショパン作曲、ポロネーズ第五番嬰ヘ短調。その音色を観客、そしてここで聴いてはいない波多野に届けるために。

 晴明は、ごく小さな音から演奏を始めた。忍び寄る足音のように、序奏を奏でる。クレッシェンドしていくオクターブのパッセージが、自らと観客を曲の世界へ引きこんでいく。

 主題部を荘厳に弾いていく晴明。観客も集中して聴いているのが伝わってくる。

 だけれど、弾きながら晴明は、今の心情にこの曲は似合わないと感じていた。ポロネーズ第五番は、有名な第六番のいわゆる英雄ポロネーズと違って、悲劇的で重々しい曲なのだ。

 短調の深刻な響きは、いくらトリルを混ぜたり、スタッカートで歯切れをよくしてみても、晴明の胸に浮かぶ波多野の顔をより克明にした。自分で「今はピアノを弾くべきだ」と言ったのに、心はグラグラに揺らいでいる。

 それでも身体が覚えているのか、指はよどみなく動いてくれていて、晴明の演奏は少しも破綻してはいなかった。

 転調のある短い副主題と、変奏されながらも繰り返される主題部。ここまでのあまり複雑ではない構成が、演奏を何とか前へと引っ張っていく。

 舞曲らしい踊るようなメロディも、晴明は弾きこなすというよりも、一つ一つ片づけていくという感覚で弾いていた。

 もちろん、曲や作曲者に対して失礼だとは思う。だけれど、曲が進むにつれて、晴明の早く波多野のもとへと駆け付けたいという思いは強くなっていた。目に見えて焦るような真似はしないが、それでも手に汗が滲んでいくような感覚は拭えない。

 正直、今の晴明には演奏を楽しんでいる余裕はない。なんとか演奏を破綻なく終わらせて、波多野のもとへと飛んでいきたい。その一心だった。

 跳ねるようだった曲想は、中間部になると一転、優雅なマズルカに姿を変える。ポロネーズと合わせてポーランドの二大舞曲が、この曲では融合しているのだ。

 晴明も伸びやかさを強調するために、たっぷりと間を取った弾き方に変える。テンポもゆっくりめで、聴き入っている観客たちは、酔いしれているかのようだ。

 当然、晴明だってこの優美で洗練された響きを、じっくりと弾きながら味わいたい。でも、そうするだけの心の容量がない。

 弾いていて手ごたえはある。それでも、この状況でなければもっと良い演奏ができるのにと、晴明は思わずにはいられなかった。もどかしい気持ちを弾きながら感じる。

 もちろん、波多野に原因はない。それでも、晴明はこうなってしまった運命を恨んだ。

 マズルカを終えると、曲は再びポロネーズに戻る。ざっくり言ってしまえば、ここからは第一部の再現が圧縮されて表現される。

 だからといって気を抜けないのは当たり前だが、晴明の頭はもはや演奏のことを考えていられる状況ではなかった。

 早く波多野に会いたい。会って無事な声を聞きたい。その思いだけで、ひたすらに曲を終結へと運ぶ。

 フォルティシモの指示通り、力強く最後の一音を弾き終えると、無我夢中だった晴明はようやく一息つくことができた。

 自分が破綻のないようこの曲を弾けたかどうか、晴明には不安だったけれど、観客の盛大な拍手がそれを打ち消す。自分の演奏はちゃんと届いていたのだと、晴明はかすかに安堵する。

 拍手に包まれながらステージを後にする晴明。ステージに誰もいなくなっても、拍手は鳴りやまなかった。

 観客からすれば暖かいつもりの喝采に、晴明は答えないわけにはいかない。もう一度ステージに登場してお辞儀をする。

 より多くの拍手が晴明には注がれたが、心はもはや大ホールのどこにもなかったから、早く自分を解放してほしいと、とんでもなく失礼なことを晴明は考えてしまっていた。

 出番が終わると、晴明はすぐに普段着に着替え、急いで会場を後にしていた。ほとんど走るようにして冬樹の車に乗り込み、一路東京の病院へと向かう。

 冬樹の言うところでは、ちょうど晴明の演奏が終わった頃に、波多野の意識は回復したらしい。命に関わるような事態ではなかったことに、晴明はひとまず安堵するも、それでも一秒でも早く波多野の顔を見たい思いは変わらなかった。

 後部座席でじっとしている間も、波多野の声を聞いて本当の意味で安心したい思いは、どんどん膨らんでいた。

 晴明たちが病院に到着したころには、すっかり日も落ちて、寒気が身体に厳しい天気となっていた。大学病院は、いくつもの病室から明かりが漏れている。

 晴明たちと同じころに出発した天ヶ瀬は、まだ到着していないようだ。道に迷っているのか、それとも渋滞にでも巻きこまれているのか。

 いずれにせよ、天ヶ瀬のことを慮っている余裕は晴明にはなかった。落ち着きなさいと宥める両親も無視して、駆け足で院内に入る。

 波多野の病室は七階にあって、エレベーターを待っている時間が、晴明にはひどくじれったく感じられた。

 波多野の病室は七階の、よりによってエレベーターから一番遠いところにあった。四つあるベッドの全てに人がいる病室に、晴明は早まるようにして入っていく。

 すると入り口から見て右側の、窓際のベッドに横たわっている波多野を見つけた。左腕には点滴が打たれ、表情には疲れの色が濃い。ただでさえ瘦身だった身体は病衣を着ていると、晴明にはより細く見えてしまう。

 波多野は晴明たちに気づくやいなや、心配はいらないという風に小さく笑いかけていたけれど、その姿に晴明の心は余計に締めつけられていた。

「波多野先生、大丈夫なんですか!? 急に倒れられたって聞きましたけど!?」

 晴明はベッドの横まで近づくと、隣に立っている波多野のマネージャーである上條への挨拶もそこそこに、波多野に声をかけていた。

 焦る晴明とは対照的に、波多野は極めて落ち着いた表情をしていた。

「ええ、なんとかおかげさまで。晴明くんをはじめ、多くの方に心配と迷惑をかけてしまいましたね」

 柔らかな声色で答える波多野は、無理はしていないようだった。それでも起き上がる体力はまだないようで、晴明の胃をキリキリさせる。声を聞いたら安心するなんて、そんなわけがなかった。

「波多野先生。僕、先生が倒れられてから本当に気が気でなくて。もし万一のことがあったらどうしようって、ずっと怖かったです」

「そうですか。それは申し訳ないことをしましたね。今回のことは二日続けて徹夜した私に、全ての原因があります。もう若くはないから、体調管理にはより気をつけていかなければなりませんね」

「本当にそうですよ。無理しないでください」。晴明は喉まで出かかった言葉を、どうにか押しこめた。大変な目にあった波多野を、さらに責めるような真似はしたくなかった。

「晴明くん」と波多野が口にする。真剣な目に晴明たちは固唾をのんだ。

「重ね重ねすいません。晴明くんの大切な入賞者記念コンサートに行けなかったこと、本当に申し訳なく思います。教え子の晴れ舞台を見に行けないなんて、私は指導者としてダメダメですね」

「いえ、そんなことないです。僕は波多野先生がこうして無事でいてくれただけで嬉しいんですから。コンサートがどうこうとか関係ないです」

「そうですよ、波多野先生。それに晴明はとても素晴らしい演奏を披露してくれましたから。コンクールの時よりも洗練された輝かしい演奏を。それもこれも全て、波多野先生が丁寧に晴明を指導してくれた結果です。感謝してもしきれません」

 冬樹が誇らしいと言うように付け加えると、波多野は柔らかく口を結んだ。きっと鼻が高い気持ちでいるのだろう。

 実際、晴明も心はここにあらずという状態だったものの、弾いていて手ごたえはあったので、波多野の安心したような顔を見ると、胸が暖かくなる。

「そうですか。それはよかったです。練習した通りに弾ければ大丈夫だと私も思っていましたから。でも、そんなにいい演奏をしたのなら、ますます聴けなかった悔しさが募りますね」

 顔色はさておき、波多野は平然とした表情をしているから、真意のほどは晴明にはつかめない。

 それでも、波多野に自分を責めてほしくはなかったので、「いえ、いつか波多野先生が見ている前で、もう一度弾きたいと思います」とフォローする。どうしようもないことで、負い目を感じてほしくはない。

 なのに、波多野はからかうように軽く笑ってみせる。

「冗談ですよ。私がいなくても、立派な演奏をしてくれたのが、私にとっては何より誇らしいことです。でも、いつか本当に私の見ているステージで、またショパンのポロネーズ第五番を弾いてくださいね」

 冗談とも言いきれない目をした波多野を見て、晴明は首を縦に振った。使命感にも似た感情が湧いてくる。

 そのときまで波多野が健康でいてくれることを、祈らずにはいられなかった。

「ところで、波多野先生。退院はいつ頃のご予定なんですか?」

 頃合いを見て奈津美が尋ねる。晴明も、体調の次に聞きたかった疑問だ。

「それがまだ明確には決まっていないんです。しばらく経過を観察して、念のため諸々の検査を受ける予定となっているので、おそらく一週間後くらいになるのではないかと思いますけど」

「そうなんですか。退院日が決まったら、また私たちにも教えてくださいね」

「ええ、もちろんです」

 波多野に無理をしている様子は見られなかった。点滴が効いているのだろう。

 晴明にはまだ決まっていない退院日が、今から待ち遠しい。一日千秋の思いとはこのことかと感じる。

 本当は何時間でも波多野の側にいたかったのだが、面会時間は三〇分と限られていて、晴明たちはそろそろ病院を後にしなければならなかった。後ろ髪を引かれる思いで「また来ます」と言い、晴明たちは病室から離れようとする。

 入り口を出た瞬間、入れ替わるようにして天ヶ瀬たちがこちらに向かってきたのを晴明は見つける。だけれど、相当焦っていたのか、天ヶ瀬は晴明の顔色を軽く確認しただけですぐに病室に入っていた。「波多野さん、大丈夫ですか!?」と大きな声が、病室の外まで聞こえてくる。

 波多野は穏やかな顔で応じているだろうが、同じ病室にいる他の患者に眉をひそめられてはいないかと、晴明は少し心配になった。


(続く)


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