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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(162)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(161)





「では、八月一七日に予定されている千葉県民文化会館でのコンサート、引き受けていただけるということでよろしいですね?」

 灰色のスーツを着た男性の確認に、晴明は「はい。喜んでお受けします」と頷いた。隣に座る冬樹も、満足そうな表情を見せている。安堵したように、息を吐く男性。

 入賞者記念コンサートが終わってからというもの、晴明のもとにはいくつか公演のオファーが届くようになっていた。いずれも東京近辺からのものだったが、すべてを受けるのは曲の完成度を保つならば不可能だ。だから心苦しいながらも、晴明は受けるオファーと断るオファーを選ばなければならなかった。

 その中でも千葉県芸術振興課からのオファーを受けたのは、やはり自分の演奏を地元の人に聴いてもらいたかったからに尽きる。自分が育ったこの土地をないがしろにはできない。まだ半年ほどあるし、今から選曲を考え始めても間に合うだろう。

「本当にありがとうございます。似鳥さんのような将来性豊かな演奏家を支援できて、私たちとしても本望です」

「いえいえ、私としても晴明はここで育ったわけですし、恩返しのような気持ちで頑張ってほしいと思っています」

「なぁ、晴明?」。そう訊いてくる冬樹に、晴明はもう一度頷いた。自分はまだ子供だから、スケジュール管理は両親に任せなければならない。

 それは分かっていたし、両親は最後には晴明の意見を尊重してくれるのだが、どこか自分を差し置いて物事が決まっていく感覚に、晴明は少し腹を据えかねていた。

「それは何よりです。私どもも、当日を楽しみに待ちたいと思います。それと、この場でこんなことを訊くのは違うかもしれないのですが……?」

「何でしょうか? どうぞ何なりとおっしゃってください」

「あの、波多野さんはまだ退院していらっしゃらないんですよね?」

 おそるおそるといった調子で発せられた男性の言葉に、晴明は頷けなかった。代わりに冬樹が「はい。まだ入院中です」と答えている。

 入賞者記念コンサートの日、つまり波多野が倒れた日から三週間が経とうとしている今も、波多野は入院生活を続けていた。検査の結果が気になっても、波多野は具体的なことは何一つ教えてくれず、「もう少しだけかかりそうです」としか言ってくれない。

 疑うつもりはないが、先行き不透明な状況にm晴明はどうしても心配を募らせてしまう。再び波多野がピアノを弾けるようになるのか、自分のもとに指導に来てくれるのか。晴明は気になって以前のようには眠れない日々が続いていた。

「そうですか……。私どもとしては、波多野さんと似鳥さんの師弟共演を公演の目玉として考えているのですが」

「それは私としても見たいですが、こればっかりは波多野先生の体調の問題ですからね。快方に向かってくれることを祈るばかりです」

 冬樹と男性のやり取りも、晴明にはどこか他人事にしか聞こえなかった。

 間違いなく自分の方が、波多野のことを心配しているし、考えている。主催者視点での物の見方に、完全に相容れることはできない。

 それでも角を立たせたくはなかったので、晴明は何も言わず首を縦に振る。少なくとも波多野の快復を願う気持ちは、二人と同じだと思った。

「では、演奏する曲目を伺うためにも、来月またお伺いしたいと思います」

 それからいくつか注意事項を確認してから、男性はそう話を結んだ。

 曲目を決めるのに際しては、どうしても波多野のアドバイスが必要だ。入院している状況でも助言くらいはできるだろうが、晴明はできれば一緒に地下室で話しながら考えたいと思う。

 カバンとコートを持って立ち上がった男性に続くように、晴明たちもソファから立ち上がる。

「その頃には波多野さん、退院されてるといいですね」。帰り際にそう言った男性に、晴明は明確な返事をした。

 お見舞いに行くたびに、波多野の顔色は少しずつ良くなっていっている。きっと退院日も近いはずだ。

 何の根拠もなく、晴明はそう信じていた。信じていないと、現実にはならない気がした。

「似鳥くん、今のオクターブ、終盤が少し雑になっていましたy。ここは焦るところではないので、もっと落ち着きを持って弾いてください」

 地下室に波多野の声が、さりげなく反響する。晴明も自分で弾いていて、うまくいかなかった自覚はあったので、素直に頷いた。

 もう一度、波多野に指摘された箇所をさらう。磨かれる途中の音が、ピアノから部屋中に広がっていく。

 何百回と繰り返してきた練習の風景。だけれど、以前は立って指導をしていた波多野は、椅子に座るようになっていた。

 波多野が退院したのは結局、入院してから一ヶ月が経ってからだった。喜ばしい気持ちでいっぱいの晴明が見たのは、杖をつきながら病室から出てくる波多野の姿だった。長い間ベッドに横になっていたから、足腰の筋肉が弱っているらしい。

 それにまだ完全に快復したわけではないから、激しい運動もできないようで、ただでさえ日常生活に支障が出るほどなのだから、波多野がまたピアノを弾けるようになるのは遠い未来の話だと、杖をついている波多野を見て晴明は痛感していた。

 少しでも体に負担をかけないために、二時間近くの練習も波多野は座って見るようになっていた。その点以外は今までと変わりないのだが、晴明は椅子に腰を下ろす波多野を見るたびに、寄る辺ない思いを感じてしまう。

 練習に集中しようとするも、心は揺らいで、以前は難なく弾けていたところでミスタッチをしてしまう。波多野も自分に原因の一端があると思っているのか、強く咎めることはせず、あくまで優しく諭す。

 それでも、晴明は澱み始めた空気に、入院する前には戻れないことを薄々悟っていた。

「波多野先生、今日もご指導いただきありがとうございました」

 結局、晴明は完全には身が入らないまま、この日の練習を終えていた。いずれ慣れる日が来るのかもしれないが、今はまだ波多野の体調を案じずにはいられない。

 コンサートが開かれる八月までは、まだ時間がある。だけれど、晴明は少し焦りにも似た感情を抱いていた。

「ええ。似鳥くん、今日もお疲れ様でした。なかなか調子が上がっていないようですが、大丈夫ですか?」

「それは、はい。波多野先生が入院していた間も毎日練習はしていたのですが、どうも成果は上がらなくて……」

「そうですか。でも、まだコンサートは先のことですし、焦らなくても少しずつ調子を戻していけば、十分間に合うと思いますよ」

「本当ですか……?」。そう尋ねたい気持ちを晴明は何とか抑え込んで、頷く。

 晴明が不安なのと同様、波多野も心配をかけたことを申し訳なく感じているのだ。波多野の心にこれ以上負荷をかけるような真似はしてはいけない

「では、次のレッスンはまた三日後ですね。一歩ずつでも進んでいけるようにまた頑張りましょう」

 晴明は声に出して返事をする。波多野も、自分も安心させたかった。

 杖をついて。ゆっくりと立ち上がる波多野。階段を一段一段上っていく様は、不安に思うなという方が無理な話だ。

 それでも、晴明は波多野に声をかけつつも、手を取ることはしなかった。ピアノを弾かなくなって筋肉が落ちた指に触れるのが、どことなく恐ろしかった。

 季節が変わって春になると、波多野は入退院を繰り返すようになっていた。体調の快復が思うようにいっていないらしい。

 波多野は何も言っていなかったが、お見舞いに訪れるたびに、晴明は波多野が何らかの病気に罹っていると感じていた。そうでなければ、ここまで家と病院を行ったり来たりするわけがない。

 波多野は県にも八月のコンサート出演について正式に断りを入れていて、晴明は一時間半の出番を一人で全うしなければならなくなった。曲目は固まったものの、そこまで長い出番は初めてなので、準備に試行錯誤する日々が晴明には続く。

 楽譜や関連資料を深く読みこまなければ、良い演奏はできない。地道な準備はなかなか勉強と両立できなくて、晴明は少しずつ焦りだしていた。

「で、ここに今解いた方程式で出た解を代入するの。すると後は単純な連立方程式になるから。こうなったらハルなら解けるよね?」

 桜子が参考書を見ながら言う。教えられた通りに、晴明は数学の問題に食らいついていく。

 一学期中間テスト前日の日曜日、晴明は桜子を家に招いて勉強を教えてもらっていた。成績優秀な桜子はそのことを決して鼻にかけることなく、いつも晴明が困ったときには手伝ってくれる。

 桜子の教え方は丁寧で分かりやすく、晴明は特別なありがたみを感じていた。

 しかし、勉強に集中力を注ぎこむのは、晴明には少し難しく、教科書やノートに向かっていながらも、チラチラと壁掛け時計を気にしてしまう。まだ一時間ほどしか経っていなくて、ピアノの前ならまだまだ集中は持つのにと感じる。

 少しずつ気が散り始めた晴明に気がついたのか、桜子が少し休憩しようと言った。晴明も頷く。中間テストまで時間はないが、焦っては元も子もないと都合のいいことを考えた。

「ねぇ、ハル。波多野さんってまだ入院してるの?」

 ペットボトルのお茶を飲みながら、尋ねてくる桜子に、晴明は小さく頷くほかなかった。

 先週から波多野は三回目の入院をしている。こうも短い期間に入退院を繰り返すのは、どう考えてもただ事ではない。

「そっか。心配だよね。ハルは波多野さんのことについて何か聞いてるの?」

「いや、何も聞いてない。訊こうとしても教えてくれなくて。余計な心配をかけまいとしてるのかもしれないけど、知らない方が心配すんのに」

 両親にも話せない思いの丈を、晴明は桜子になら吐露できた。

 案の定、桜子も神妙な面持ちをして聞いている。休憩中だというのに、二人の気分は少し下がりつつあった。

「ねぇ、ハル。大丈夫だよね?」

「ああ。波多野先生のことだからきっとまたよくなるって。何の根拠もねぇんだけどな」

「そうじゃなくて、ハル自身が。八月のコンサート、ちゃんと開催できる?」

 芯を食った疑問に、晴明は胸を張って「できる」と言えなかった。練習は積んでいるものの、なかなか波多野の指導は受けられていないから、自分が正しい方向に進んでいるのかどうか、イマイチ確証が持てていなかった。

 でも、「正直難しいかも」と言って桜子を落胆させることもしたくなく、晴明は今の状況に当てはまる言葉を見つけられないでいた。ただ時間だけが、ひどくゆっくりと流れていく。

「あのさ、プレッシャーをかけるわけじゃないんだけど、私ハルのコンサート楽しみにしてるんだからね」

「分かってるよ。できる限り頑張るつもり」

「うん、本当にお願いね。波多野さんの指導を受けられなくても、ハルならいい演奏ができるって、私は信じてるから」

「ああ。少しずつ形にはなってきてるから、本番には間に合うと思う。サクだけじゃなく、来てくれるお客さんの期待に応えられるような演奏をするよ」

 桜子だけでなく、自分にも言い聞かせるように晴明は口にした。強く信じなければ、成功するものも成功しないだろう。

 なのに、桜子は未だに少し訝しむような目を、晴明に向けている。簡単に受け流すことは、晴明にはできなかった。

「なんだよ。まだ俺のことが信じらんないのかよ。心配しなくても大丈夫だって」

「いや、ハルのこと信じてないわけじゃない。でも、ハルは誰のためにピアノを弾いてるんだろうって、ちょっと気になっちゃって」

「なんで?」

「だって、ハルは波多野さんの指導を受けてここまで上手くなったんでしょ。もし、波多野さんがそのときも入院したままで、コンサートに来れなかったらハルはどうするんだろうって一瞬思っちゃった」

「そんなの、どうするもこうもピアノを弾くしかないだろ」。そう口では言っていたが、晴明は胸に漠然とした不安を抱いていた。

 自分のピアノは、誰のためのものなのだろう。今まで考えたことがなかった疑問が噴出する。短時間で答えが出るわけもなく、眉間に皴が寄っているのを、晴明は桜子に言われて気がついた。

 ごまかすようにペットボトルのお茶を飲む。喉は潤ったが、心はまだ渇いたままだった。

「ごめんね。何か重い話しちゃって。こんなんで何だけど勉強に戻ろっか」

 重くなり始めた空気を払しょくするかのように、桜子が声を出して、教科書を開く。晴明も正直勉強をする気分ではなかったが、後に続いた。

 古典の文法や歴史上の事件。それらをいくら勉強しても、晴明の頭にはイマイチ入っているとは言い難かった。

 波多野の体調が悪化したらどうしよう。そんなまだ起こっていない事態を想像しては、勝手に不安になっていた。


(続く)


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