見出し画像

【小説】ロックバンドが止まらない(44)


前回:【小説】ロックバンドが止まらない(43)






 神原たちの出番は六曲と短かったものの、それでも神原は最後には楽しんで演奏を終えていた。ステージに上がるときに抱いていた苦い記憶も、徐々にその姿を消していっていて、やはり自分はギターを弾いて歌うことが好きなのだと思う。

 与木たちの演奏も曲を追うごとに明るい色彩を帯びていき、神原には自分たち全員があのときの苦い思い出から、立ち直ることができたと感じられる。きっと次にこのステージに立つときには、オーディションの記憶は今日のライブの記憶に上書きされて、より前向きな状態で臨めるだろう。

 ライブが終わると、いよいよデビューに向けての動きは活発化していく。マスタリングが済んだ音源を確認したり、アーティスト写真を撮ったりと、神原たちにもしなければならないことが少しずつ増えていく。

 だけれど、その前に神原にはやらなければならないことがあった。一人暮らしの準備である。

 自分の部屋の荷物をまとめ、引っ越し用の段ボールに詰めていくなどの引っ越しの準備を、神原はライブが終わった後の短い期間で集中して進めていく。達雄や祥子にも協力してもらって、冷蔵庫や洗濯機などといった家電や、ローテーブルやベッドといった家具もあらかじめ一通り揃えた。

 そして、気がつけば神原は、引っ越しの前日を迎えている。生まれて初めて経験する一人暮らしに、神原は両親のもとを離れる不安や寂しさ、家にいる全ての時間を自分のために使える開放感など、一言では表現できない感情を抱いていた。

 引っ越し当日。神原たちは朝の一〇時にやってきた引っ越し業者のトラックに荷物や真新しい家具家電を載せ、自分たちは電車で引っ越し先の最寄り駅に向かった。

 駅前の不動産屋から鍵を貰って数分ほど歩くと、三人は引っ越し先の三階建てのアパートに辿り着く。神原の部屋は西側に窓がある一〇一号室だ。道路に面してはいるものの、カーテンを閉めれば大して気にすることはないだろう。

 引っ越し業者のトラックはまだ来ておらず、三人は鍵を開けて一〇一号室に入った。六帖のワンルームは内見に来たときよりも神原には若干狭く感じられ、それは本当に自分がこの部屋に住むのだという緊張に他ならなかった。

 引っ越し業者のトラックは神原たちがアパートに到着してから、間もなくやってきた。冷蔵庫や洗濯機など大型家電は引っ越し業者が運んで設置してくれたが、それでも神原たちも小さな段ボールくらいなら運ぶのを手伝う。

 全員で協力して荷物の運び出しが終わったのは、午後一時を回る頃だった。引っ越し業者が去っていくと、神原たちは自炊用の道具や掃除用具、もしものときの医薬品などを購入するため、一度アパートの外に出る。

 見慣れない街を歩く神原の心は、どこか落ち着いてはいなかった。

 近くのホームセンターやドラッグストアを回り、神原たちは必要なものを揃えていく。ホームセンターでは移動の際に便利だからと自転車も買った。

 大方必要なものを買い揃え、部屋に戻った神原たちは家具を組み立てたり、段ボールを開けたりして、部屋を生活できる空間に整えていく。

 あれはどうする、これはどうすると話しながら部屋を作っていくと、全ての段ボールが片付いた頃にはもうすっかり日が暮れていた。

 神原たちは、近くのファミリーレストランで夕食を食べる。注文した料理を待っている間も、料理を食べている間も、達雄たちは一人ぐらいの心構えだとかアドバイスを伝えてきていて、神原はありがたいと思う反面、両親と過ごす時間が刻一刻と減っていることに、寂しさを感じずにはいられなかった。

「じゃあ、泰斗。明日になったら、お隣さんや上の階の人にちゃんと挨拶しておくんだぞ。特にお前はギターを弾くんだから、その辺りもよろしくお願いしますって、ちゃんと言っとかないと」

 夕食を終えた神原たちは、神原の住む部屋へは戻らなかった。最寄り駅に向かう方が近かったからだ。

 駅に到着すると、神原たちは改札の前で立ち止まる。中央線は一本前の電車が発車したばかりで、次の電車が来るまでにはまだ少し時間があった。

「分かってるよ。ちゃんと今日買ったタオルを持って、挨拶に行くから」

「うん、よろしくね。それと出かけるときはちゃんとガスの元栓を閉めてから出かけてね。あと掃除はこまめにすること。どうしようもないほど散らかっちゃったら、後が大変なんだからね。それと、少しでも体調が悪いなと感じたらすぐに病院に行ってね。一人暮らしじゃそれが一番心配なんだから。あと……」

「分かってる分かってる。今日教えられたことは全部ちゃんと気をつけるから。そんな心配しなくてもいいよ」

「泰斗、困ったらいつでも連絡していいんだからな。携帯も買ったことだし。協力してほしいことがあったら、お父さんたちはいつでも駆けつけるから」

「そうだね。なるべく仕事の邪魔にならない時間にするよ」

「寂しくなったらいつでも帰ってきていいんだからね。お母さんたちはいつでも大丈夫だから。疲れたときはご飯を食べてお風呂に入って、ゆっくりしていっていいんだよ」

「うん、ありがと。俺も盆や正月にはちゃんと帰るようにするから、心配しなくても大丈夫だよ」

 それからも達雄や祥子はしきりに声をかけてきて、それが心配の現れだと分かっていても、神原は少し大変さを感じてしまう。自分は何度も大丈夫だと言っているのに。

 それでも、しばらく話していると駅はチャイムを鳴らし、間もなく電車がやってくることを伝えてくる。神原が「そろそろ行った方がいいんじゃない?」と言うと、二人とも名残惜しそうに頷いた。

「じゃあな、泰斗。元気で頑張るんだぞ」

「またいつでも連絡してきてね。待ってるから」

「うん、分かってる。じゃあ、父さんや母さんこそ元気でね」

 最後にそう言葉を交わした三人は、目を合わせてお互いの意思を確認し合う。

 そして、達雄たちは乗車時間に間に合うように改札をくぐっていった。その姿を神原は見えなくなるまで見送る。

 やがて、二人が階段を上っていき、発車した電車の走行音を聞くと、神原は自分の家へと向かい出した。肌に触れる夜風は涼しいというよりも、まだ寒かった。

 家に帰ると、昼間よりも部屋がよりいっそう狭くなっているように神原には感じられた。それは家具や家電、荷物が置かれているから当然なのだが、達雄や祥子がいないことに、神原は改めて心細さを感じずにはいられない。ここが今日から自分の帰る家だという実感は、未だに持てていなかった。

 それでも、神原はギターケースからギターを取り出し、この日初めて触れた。アンプに繋ぐことなく、ギターを何度か弾いてみる。

 ギターから出る音には何一つ変わったところはなく、それが神原の孤独を浮き彫りにした。達雄たちの存在がもうこのアパートにないことに、身につまされるような思いがする。

 それを紛らわそうと、神原はギターを弾き続けた。でも、いくら弾いてみても神原のギターを聴いている者は誰もおらず、エアコンの稼働音と時折聞こえる車の走行音だけが、今の神原に寄り添っていた。

 一人暮らしを始めて、ギターの練習やバンドの活動以外に、神原が真っ先にしたことはアルバイトを探すことだった。両親は月三万円の仕送りをしてくれているが、それでは家賃すら払えない。だから、神原は一日でも早く、バンド以外の収入を得る必要があった。

 コンビニエンスストアで求人情報誌を入手し、いくつかの企業に履歴書を書いて送ってみる。履歴書を書くのも初めてだったから、神原は四苦八苦する。

 特に応募動機を絞り出すのが困難で、世の中のアルバイトをしている人は全員、こんな大変な工程を乗り越えているのかと、神原は途方もない思いを感じていた。

 なかなかアルバイトが決まらない中、神原たちはその日、吉間から連絡を受けてECNレコードの事務所に集まっていた。

 久しぶりに訪れた事務所の一角には、自分たちのポスターも貼られていた。それはライブハウスで吉間がデジタルカメラで撮った簡素な写真を使用したものだったが、それでも神原は感慨深い思いを抱く。

 面談スペースに通されると、吉間は中くらいの大きさの段ボールを持ってやってきた。その中に何があるのか、神原には見なくても分かる。

「じゃあ、電話で言った通り、皆のデビューミニアルバム『日暮れのイミテーション』が完成したから。これから配るな」

 そう言って吉間は段ボールからCDを取り出し、神原たちに配った。

 受け取った瞬間、神原の胸はじわりと満たされていく。

 屋上で夕日を見つめる少女がジャケットのCDは、間違いなく神原たちのデビューミニアルバム「日暮れのイミテーション」そのものだった。赤く書かれた自分たちのバンドの名前とアルバム名が、そのことをはっきりと神原の目に焼き付ける。

 与木たちも感嘆していて、神原には自分たちがデビューすることが、改めて紛れもない現実なのだと感じられた。CDケースを開けてみて歌詞カードを見ても、その実感は大きくなるばかりだ。

 とうとうここまで漕ぎつけた。神原はデビューする前から、達成感を覚えた。

「このCDを皆には一人五枚ずつ献呈するから。友人や家族、お世話になった人たちに渡してくれ」

 神原たちは頷いて、さらに一人四枚ずつのCDを受け取る。その厚みを感じると、自分たちがデビューできるのは自分たちだけの力だけでなく、多くの人に支えられてきた結果なのだと、神原には思えた。

 神原たちはそこから改めて、吉間からデビューまでの取材等のプロモーションのスケジュールや、デビューした後の予定などを伝えられる。五月中にまた一つライブがあるから、当面はそこが神原たちの目標になるだろう。

 吉間から連絡事項を伝えられて、神原たちは事務所を後にする。でも、最寄り駅に向かう間も神原たちの会話は一瞬たりとも止まなかった。園田や久倉は実際に「日暮れのイミテーション」の実物を見てテンションが上がっていたし、それは大げさには現れ出ていなかったものの、与木も同様のようだった。

 いよいよだねという話で盛り上がる四人に、神原は未来が開けていく心地がしていた。

 家に帰った神原は、さっそくCDプレイヤーに受け取ったばかりのCDをセットし、ヘッドフォンを装着した。

 再生ボタンを押すと、一気に音が耳に雪崩れこんでくる。

 レコーディングだけでなく、ミキシングやマスタリングの段階でももう嫌というほど聞いたはずなのに、完成したCDを通して聴くと、また違って聴こえるのが神原には不思議だった。CDになる際に、何らかの魔法がかけられたかのようだ。今までは一曲一曲を単独で聴いていたから、アルバムの形で通して聴くのは神原にとっては初めてで、しっかりとした「作品」になっていると感じる。

 最後まで聴き終えて、神原は一つ息を吐いた。このアルバムには、間違いなく自分たちの現状のベストが詰まっている。

 どう評価されるか、神原には少し怖くもあるけれど、その気持ちを早くリリースされて人に聴いてほしいという気持ちが簡単に上回った。

 きっと気に入ってもらえる。そう思えるくらいの自信は、神原にも確かにあった。


(続く)


次回:【小説】ロックバンドが止まらない(45)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?