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【小説】ロックバンドが止まらない(95)


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「神原君、お疲れ様。どうだった? 今日の仕事は」

 窓の外からトラックが走っていく音が聞こえる中、四宮が声をかけてくる。暖房がかかった事務所は常に搬入搬出口が開いている倉庫とは違い、ぬくぬくとした暖かさがある。

 そんななかで、神原は四宮の机の前に立っていた。四宮の目は細められていて、神原としても、応えるのに大きな緊張はいらなかった。

「はい、おかげさまで無事に終えることができました。いつも通り他のバイトの人とも協力して。倉庫にいるときには、特に最後の方は少し寂しく感じられたくらいです」

「そりゃよかった。神原君がここでバイトを始めて、もう三年になるよね。すぐに辞めていく人も多くいるなかで、ここまで真面目に働いてくれたこと、本当感謝してるよ」

「それは僕にも生活がかかっていますから。音楽だけで食べていくのはなかなか難しいなかで雇い続けてくれたこと、僕の方こそ感謝しています」

「そうだね。で、どうなの? 肝心の音楽だけで食べていけるようにはなった?」

 四宮は何気なく訊いてきたつもりなのだろう。でも、神原は「ま、まあ」としか答えることができない。

『D』は現在までに五〇〇〇枚以上を売り上げ、印税も神原たちの懐には入ってきている。でも、まだまだそれだけで食べていくには心許ない額だ。

 自分を気にかけてくれる四宮の前で嘘をつくことはできず、神原は曖昧な返事に終始する。それでも、四宮は穏やかな表情を崩さなかった。

「そっか。まあ、なかなか難しいよね。でも、俺は神原君のこと応援してるから。『D』もちゃんと自分のお金で買ったし、良いアルバムだと思ってるよ。お世辞とかじゃなくて」

「それは、はい。ありがとうございます」

「うん。だからさ、俺が言うことじゃないかもしれないけど、これからもバンド頑張ってよ。俺は神原君のバンドのファンなんだから。これからもどんどん曲リリースして聴かせてね」

「はい。ご期待に添えるよう頑張ります」

 アルバイト先の上司とはいえ、自分たちのファンだと言ってくれる人を目の当たりにして、この人の期待は裏切れないなと、神原は思いを新たにする。三バンドでのスプリットツアーが終わった後のレコーディングにも、より気合いを入れて臨まなければと思った。

 四宮がちらりと腕時計に視線を落とす。神原がここを立ち去る時間が、刻一刻と近づいてくる。

「神原君、もうすぐ駅に向かうバスの時間だよね? そろそろ行った方がいいんじゃない?」

「そうですね」と神原は頷く。そして、姿勢を今一度正した。

「四宮さん、三年間ありがとうございました。ずっと売れないバンドマンだった僕を雇ってくれたこと、改めて感謝しています」

「いやいや、こっちこそ神原君には大分助けられたよ。辞められるのは正直痛いけれど、でもこれからますますバンド活動が忙しくなるなら仕方ないね。これからもバンド頑張ってね。神原君たちが今以上に売れることを、俺も願ってるから」

「はい。四宮さん、三年間本当に本当にありがとうございました」

「うん。神原君、元気でね」

「はい。四宮さんもお元気で」

「失礼します」そう決定的な言葉を口にして、神原は微笑んでいる四宮のもとから離れた。

 事務所の外に出ると、冷たい夜風が神原に触れる。三月ももう終わろうとしているが、夜はまだまだ寒い。

 神原は荷物を持って身体を縮こまらせながら、倉庫にほど近いバス停に向かう。ちょうどバスがやってきたタイミングで、神原はすぐに乗りこむことができた。

 腰を下ろして何の気なしに車窓を眺めながら、神原は現実を反芻する。

 自分は今日アルバイトを辞めた。これからは音楽一本で食べていかなければならない。

 そのハードルは決して低くなかったけれど、CDをリリースする度に売り上げを少しずつ伸ばせている今、神原はいくらか楽観的な見通しを描くことができていた。

 まずは来週に控えている、スプリットツアーの東京公演だ。共演するショートランチやスノーモービルにも、決して負けないライブをしなければならない。

 神原の頭は、次第にバンドに切り替えられていく。帰って夕食を食べたらまたギターを練習しようと、自然と思えた。

 スプリットツアーの初日は朝から晴天が広がり、気温も上がってうららかな春の陽気と言って差し支えない日だった。近隣の公園にも桜が咲き、道行く人もジャンパーやアウターといった防寒着は着込んでいない。

 そんななか、神原は正午を少し過ぎた頃にターミナル駅に降り立ち、約束していた出口で与木たちと落ち合う。三人の表情は意気揚々としていて、今日に対する意気込みを神原に窺わせる。

 少し言葉を交わすと、神原たちはこの日の会場となるライブハウスへと歩き出した。向かっている間も、神原の心臓はやかましいくらいに鳴っていた。

 それもそのはず。今日ライブをするSHIBUYA NーEASTは今まで神原たちが出演したライブハウスの中でも、最も規模が大きい。収容人数は五〇〇人を数え、自分たちだけのワンマンライブならとても埋まらないと、神原には思えるほどだ。

 でも、八千代から聞いた話ではチケットは既に四〇〇枚以上が売れているようで、それは自分たちよりも人気があるショートランチの力が小さくないと、神原は癪だが認めざるを得ない。ショートランチは既に五〇〇人ほどのキャパシティなら、ワンマンライブで埋められるだけの人気を獲得している。

 それでも、神原は大勢の観客の前で演奏できることは、バンド冥利に尽きると前向きに捉える。

 自分たちの曲をあまり知らないかもしれないショートランチのファンやリスナーを前に、練習で磨いた演奏を披露して、自分たちの名前を覚えてもらう。もっと他の曲も聴きたいと思ってもらう。それだけのことができる自信を、神原は持っていた。

 駅から一〇分ほど歩いて、神原たちはSHIBUYA N―EASTの正面入り口に辿り着く。今までのライブハウスとは違うどっしりとした門構えに、神原は息を呑む。

 その姿を目に焼きつけてから、神原たちは裏の関係者入り口に回って、建物の中に入った。バックヤードを進んでフロアに出る。

 今まで出演してきたライブハウスの倍以上の面積があるフロアは、神原たちにとっては紛れもなく未踏の地で、神原は背筋が伸びる感覚がした。

 これまた広いステージでは一組目のバンドがリハーサルの準備をしていて、神原はそれがスノーモービルの三人だと、当然のように分かった。

 何人かのスタッフが忙しなく動いている中で、神原たちはこのライブハウスのオーナーである光永(みつなが)に挨拶をした。光永も神原たちのことを知っていたようで、「今日は期待してるよ」といった声をかけてくれる。

 神原たちは、自分たちが練習でやってきたことを発揮するだけだった。

 楽屋に楽器や荷物を置いて、特にすることもなかったので、神原たちはそのままスノーモービルのリハーサルを見ることにした。

 音量の確認を終えて、スノーモービルの三人が演奏しだした曲は、神原にも聴いたことがある彼らの代表曲だった。バンドの最小単位とも言えるシンプルな三人の構成から、奇をてらうことのないロックチューンが鳴らされる。三人の演奏は確かにうまくまとまっていて、自分たちと同じように練習を積んできたことが神原には分かる。

 でも、神原はショートランチを初めて見たときのような衝撃は受けていなかった。インディーズ時代もそうだがメジャーデビューをしてからも、いくつものバンドのリハーサルを、神原は見てきている。スノーモービルの三人がその中でも抜きんでた演奏をしているとは、正直なところ神原には思えなかった。

 当然、曲も演奏も悪くはない。きっと観客にも受け入れられることだろう。

 それでも、神原は自分たちだって決して負けてはいないと感じていた。練習を重ねることで培った自信は、ここでも揺らいではいなかった。

 スノーモービルのリハーサルが終わると、神原たちは入れ替わるように楽屋へと向かう。ステージに上がるまでの間、神原たちはスノーモービルの三人と少し言葉を交わした。

 スプリットツアーを行うにあたって、神原は共演するバンドのメンバーの名前くらいは頭に入れている。それは相手も同じだったようで、お互いに自己紹介の必要はなかった。

「ツアーよろしくな」とギター・ボーカルの中美(なかみ)が声をかけてくる。白い歯さえ覗きそうなその表情にも、神原は「ああ、よろしくな」と言いながら、心の中では反発してしまう。

 神原にとってこのスプリットツアーの目的は、共演するバンドとの仲を深めることではなかった。他のバンドにも負けない、激しい言い方をすれば打ち倒すようなライブをして、自分たちのファンを一人でも獲得する。そのまたとないチャンスだと、神原はこのスプリットツアーを捉えていた。

 神原たちはステージに立ってリハーサルを始める。楽器を準備して、アンプやモニターからちゃんと音が出るかどうかを確認する間、神原は少しでもステージの広さに慣れるように努めた。

 ステージが広い分、演奏する神原たちの物理的な距離は、今までにないほど空いてしまっている。だから、神原たちはリハーサルを通じて、その距離感を掴まなければならなかった。

 音出しのチェックが終わり、演奏を始める。そのときになって、神原の目はフロアに現れた三人の女性の姿を捉えた。紛れもないショートランチの面々だ。

 人気があるからか、それとも東京の水に慣れてきたのか。神原にはあの顔見せライブで共演したときよりも、三人の雰囲気がどことなく垢ぬけているように思えた。

 その表情には余裕すら漂わせていて、神原は何としても今日のライブ、そして三日間のスプリットツアーで三人を打ち負かしたいと思う。自分たちの方が良い曲を演奏すると、証明したい思いに駆られる。

 だから、リハーサルの段階から神原の演奏には熱が入った。もちろん他の三人の演奏を聴く冷静な頭は持ち続けていたが、それでもギターを弾く手に、歌い始める喉に力が入らずにはいられない。

 自分があの日顔見せライブで受けた衝撃を、ショートランチの三人に与え返せているだろうか。

 じっと神原たちの演奏を見ている三人の表情から、その心のうちを読むことは神原にはできなかった。


(続く)


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