田中

31歳。文章を書きたい年頃。

田中

31歳。文章を書きたい年頃。

最近の記事

2023.09.04

こんばんは。誰も見ていないnoteにしれっと復活を遂げようと思い立ち、今この日記を書いています。復活しようと思った理由も特にないのだけど挙げるとするならば、ただ文章を書きたいからです。 どうせ誰も見ていないのだからなんでもかけるぜウェーイとか思って書き始めたわけですが、書き始めて1分が経過して特に書くことがないことに気づき始めました。さて何を書けばよいのでしょう。 最近は、昼間は茹だるような暑さが続いておりますが皆様いかがお過ごしでしょうか。朝晩は涼しくなってきたようにも

    • 労働者にならないために

      普段仕事をしていると、どうしても「優秀な人」と「優秀でない人」がいて、そして優秀な人と仕事をしたいと思ってしまう。これが嫌だ。 これは社会人になってから気づいたことだった。大学時代までは「優秀か優秀でないか」という軸で他者をみたことがほぼなかった。 つまり、人間を道具として見ているということである。優秀/優秀でない=使える/使えないという分類。 他者を道具とみなす、ということは自分も道具であることを認めているのだ。労働を資本とする資本主義において、労働者は労働するための

      • 否定の快

        肯定の裏側に否定がある。これは二元論だ。私たちはこの二元論的な思考形式=言語体系に頼って生きている。 生/死。生きることが肯定であり、死ぬことは否定である。そういう意味で、生きてるこの今、常に肯定されている。否定は存在しない。 自然は否定しない。草木、土、風、動物。これらはあなたを否定しない。実存に否定は存在しない。 否定はどこに生じるのか?否定は「今」生じない。否定は思考にのみ現れる。 つまり、否定は人間が発明したものなのだ。人間なので至るところに否定をつくる。禁止が

        • 小説は実存だ

          「実存」について。サルトルの「実存は本質に先立つ」で知られる実存主義が有名だ。大雑把に言うと、私たちは世界の真理を知らされることなく、知ることもできないけど、日々生きるしかないから、積極的に社会参加しながら、前を向いて頑張って生きようぜ、みたいな思想である(雑ですみません)。 一方で、「小説」(*エンタメ小説ではなく、文学小説)とは、「何かよくわからないけど、世界に主人公がいて、なんかわからないけど、苦しんだり、悲しんだり、喜んだりする」ものである。 この2つ、全く同じで

        2023.09.04

          ロラン・バルトのインタビュー集「声のきめ」「わたしは影響を信じない」

          ロラン・バルトのインタビュー集「声のきめ」の中に「わたしは影響を信じない」と題されるインタビューが収録されている。 バルトの言う「作品からテクスト」への考えが窺える。テクストはあくまで「書かれた」ものなのであって、「影響を与えるもの」ではないのだ。作者が「意味の起源」ではないのだ。 作者は「意味の起源」のように考えられがちであるが、そうではなく作者が過去のあるときに、機械制作される布のように、紡がれ、織られた、ものである。そう言う意味で、 のである。大雑把に言えば、テク

          ロラン・バルトのインタビュー集「声のきめ」「わたしは影響を信じない」

          社会性とクィア性

          人間は社会的な生き物であり、社会に属さないと生きてはいけない。社会性が必要である。社会性とは端的にいうと、多数決である。マジョリティにとって幸せな、行動・思考様式を持っているか。或いは、個として社会と折り合いをつけているか。 「そうであるべきだ」ということを言いたいのではない。そうであるのだ。そういうようにできている。世界に合わせていくしかないのだ。これは生存戦略の話である。 一方で、個は変えられない。であれば、非社会的人間は、社会から爪弾きにされる。彼らはどう生きれば良

          社会性とクィア性

          今日における神話(ロラン・バルト、神話作用より)

          以下引用を含む。 神話とは、言葉である。 本文はそんなシンプルな定義から始まる。ただし、神話になるためには特殊な条件が必要なようだ。作者が特に強く提示したいのは、神話は伝達の体系であり、意味作用の様式である、ということだ。 神話は、その話しかけの対象によってではなく、それを表現するやり方によって、定義されるのだ。神話には形式的な限界があるが、内容的な限界はない。では、すべてが神話でありうるのか?そうだと私は思う。宇宙は無限に暗示的だからだ。 ソシュールの意味論。意味論

          今日における神話(ロラン・バルト、神話作用より)

          構造と力 記号論を超えて(浅田 彰)

          好きな箇所を引用

          構造と力 記号論を超えて(浅田 彰)

          音楽と記憶

          音楽を聴いた時気分が変わる。このとき、音楽が記憶と結びつき、気分をつくる。 結びつけているものは何か。意味だ。実存のモノを認識する時、私たちは言葉として、実存のモノを一面的に理解する。このとき、モノと言葉の間は意味作用が働いている。 この考えを適用する。音楽はある種の言葉、時間的な言葉と考える。時間的な言葉である音楽は、時間的なモノ=記憶と結びつく。両者は意味作用が働いている。 モノと言葉は社会的な関係であるが、音楽と記憶は個人的な関係であり、非自然であり、狂気を含むか

          音楽と記憶

          マゾヒズムのサウナ論

          なぜサウナに入るのか。サウナ自体は汗をかくし、暑いし、水風呂も冷たいし、それぞれは「不快」である。それでもサウナに入るのはなぜか。 「ととのう」というサウナ用語がある。これはサウナ→水風呂→外気浴の順でまわると、外気浴のときに、脳汁がでるような、ピキーンと形容されるような気持ち良い状態に入ることを指す。この気持ちよさのためにサウナに入っている。これは一般論だ。 この一瞬の「快」のため、「不快」な状態を経るのが合理的なのだろうか。どう説明できるか。 そもそも、あらゆる文化的

          マゾヒズムのサウナ論

          自然化されるもの

          自然とはなんだろうか。 スピノザは、神即自然とし、世界全体を神と解釈した。人間も自然の一部であり、世界の一部である。 ロラン・バルトは、テクストにおける自然をエクリチュールとし(※これは意訳である)、私たちはエクリチュールから逃れられないことを論じた。新しいエクリチュールに出会ったとしてもそれは自然化される。それは歴史であり、神話であり、コードであり、儀式である。 どうやら私たちは自然化には抗えないようだ。だが、争うことはできる。それは、否定性の肯定であり、倒錯的な動物

          自然化されるもの

          読書メモ:美術論集(ロラン・バルト)

          ロラン・バルト「美術論集」から「眼の中をじっと」メモ。気になった箇所を切り取り、一部編集。 記号とは繰り返されるもの。 眼差しは繰り返されない。 故に、眼差しは記号ではない。 しかし、眼差しは全てを語る=意味が生成している。つまり、眼差しは記号を単位とせず、意味形成性(シニフィアンス)を単位とする意味作用(シニフィカシオン)の領域に属している。 諸芸術は、一般に、意味形成性に属す。 よって、眼差しと音楽との間に一種の親近性がある。 意味形成性の中には、おそらく、なんらか

          読書メモ:美術論集(ロラン・バルト)

          読書メモ:生き様のパレーシア(千葉雅也)

          フーコー研究に収録されている千葉雅也の「生き様のパレーシア」を読んだ。そのメモ。 ミシェル・フーコーは、『狂気の歴史』、『言葉と物』、『監獄の誕生』『性の歴史』などで、多くの人々にとてつもなく大きな影響を与えてきた哲学者、歴史家である。後期フーコーのテーマの一つに「パレーシア」があり、「生き様のパレーシア」はこのパレーシア論である。 パレーシアとは、敵を作ることを恐れず、みずからを危険に晒してまで「真理」をいうこと。古代ギリシャのキュニコス主義は、その真理を実践をしていた

          読書メモ:生き様のパレーシア(千葉雅也)

          ロラン・バルト「明るい部屋」

          20世紀のフランス現代思想に限りない影響を与えたロラン・バルト。そのロラン・バルトが写真について書いた「明るい部屋」。この本は、後述の通り、いわゆる普通の写真の技術書ではない。私はこの本が好きだ。特に惹かれた箇所は最初と最後にある。 最初、彼が言わんとしていることはこんな感じである。 写真について書きたいが、一般論には惹かれない。写真の本質は「かつてそこにあった」ということである。一般論的な、風景写真の構図の規則など、私にとってなんの関わりがあろう。自分にとっての写真論を

          ロラン・バルト「明るい部屋」

          エクリチュール

          20世紀フランスの現代思想に影響を与え続けたロラン・バルトの「エクリチュール」について。 これは彼が導入した概念である。彼の処女作「零度のエクリチュール」で論じられ、日本語では「文章体」とも訳されるようだが、それでは定義不明瞭である。 エクリチュールとは何か。大雑把にいうと、言語(ラング)とも文体(スチル)と異なる「歴史」が文学に侵入する入り口である。零度のエクリチュールから参照すると すなわち、エクリチュールは書き手が文章の中に選び取る社会性のようなものである。バルト

          エクリチュール

          一周回って

          「一周回って」という感覚が好きだ。苦手だったものが「一周回って」好きになることがある。この「一周回って」はどんなものなのだろうか。 例えば、ある曲を初めて聴いたとする。その曲はなんとも好きになれない感じで、自分自身にフィットしていない、どうも居心地の悪い感じがする。ただ、聴き続けている内になぜか「一周回って」好きになってくる。こんなことないだろうか。 好きになれないものと適度な距離を保っているうちに「けっこういいじゃん」となってくる。この宙ぶらりんな状態から受容する過程が

          一周回って