読書メモ:生き様のパレーシア(千葉雅也)

フーコー研究に収録されている千葉雅也の「生き様のパレーシア」を読んだ。そのメモ。

ミシェル・フーコーは、『狂気の歴史』、『言葉と物』、『監獄の誕生』『性の歴史』などで、多くの人々にとてつもなく大きな影響を与えてきた哲学者、歴史家である。後期フーコーのテーマの一つに「パレーシア」があり、「生き様のパレーシア」はこのパレーシア論である。

パレーシアとは、敵を作ることを恐れず、みずからを危険に晒してまで「真理」をいうこと。古代ギリシャのキュニコス主義は、その真理を実践をしていた。

本論の内容を要約する。

パレーシアは「真理をいうこと」で、それは「批評」であるが、頭を使うだけで言われるものではない。そこでは身体が、命が賭けに出される。
近代では、所謂「デカルト的契機」以来、主体が真理へ到達できるための諸条件が認識であり、ただ認識だけであると考えるようになっている。アタマとカラダが分離してなく、アタマだけで考えるようになった。一方、古代では自己の変化を求める「霊性」の実践と不可分なものであり、アタマとカラダは分離しておらず、トータルに自己が変化するのである。
古代における身体とは人生総体の畳み込みそのものであり、命を賭け、身を以て言われることの真理性とは、時間の真理性なのだ。だが現代はアタマだけで考えるようになり、時間が蒸発、それが自己が不動点になってアタマだけで考えるようになる。
古代的なパレーシアでは、紆余曲折が矛盾に還元されることなく提示される。時間が現れるというアレーティア(現れ=真理)である。フーコーが抱く古代像は人生という有限な時間を生きる古代である。つまりここバラバラの人生の時間が古代において肯定されているのである。ひとりひとりの身体は「人生色々あった」という生成変化のすべてを「潜在的」に体現するカタマリである。矛盾以前の「色々あった」は、潜在性の次元に多いて共存している。身体的出現とは「色々あった」を一挙に提示すること、また、「色々あるだろう」を一挙に先取りすることだ。
近代では身体は、明晰判明なものの「裏側」である。一方で古代では、心身がともにトータルに「自己への配慮」の対象なのであり、過去から未来への不確実な道行きの中で、主体とは、諸々の力のネゴシエーションにつとめる者だった。そこでは身体は「裏側」ではなかった。
身体的に存在するというのは、世界の中で、ある位置を持つということだ。その反対は、世界全体を等しく俯瞰する神的視点である。二種の有限性を区別することができる。近代的な有限性は「人間には全ての俯瞰はできないとい」というもので、だからこそ見えないものを漸進的に可視化し続けることになる。一方で、古代的な有限性、それは存在者は世界ないに位置を持つがゆえに、そこから見える物は有限である、だから位置を変えれば、また別の物が見える、という有限性である。
身体が出現するときには、驚きが生じるだろう。身体が存在するということ、世界のうちに特製があるということそれ自体への驚き。そして究極的には、何をどう言おうとも、パレーシアの本質的な意味とは、世界には身体が存在する、ということによる普遍性への抵抗なのである。

以上。またさらに要約すると以下である。

古代的な生、その真理実践形態の一つとしてパレーシア。古代的な自己の変化は、精神だけでなく、身体の変化を伴うものであった。
「人生いろいろあった」が身体に現れる、それ自体が身体なのだ。身体の真理性は時間変化する。また、世界の中である位置を持つ。故に、それは時間とともに動き、動くと別の景色が見える。それが古代的な有限性であろう。身体が存在するとき、驚きが生じる。それは世界の中に身体が存在することそれ自体への驚きである。パレーシアの本質的な意味は、この驚きによる普遍性への抵抗である。

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