マゾヒズムのサウナ論
なぜサウナに入るのか。サウナ自体は汗をかくし、暑いし、水風呂も冷たいし、それぞれは「不快」である。それでもサウナに入るのはなぜか。
「ととのう」というサウナ用語がある。これはサウナ→水風呂→外気浴の順でまわると、外気浴のときに、脳汁がでるような、ピキーンと形容されるような気持ち良い状態に入ることを指す。この気持ちよさのためにサウナに入っている。これは一般論だ。
この一瞬の「快」のため、「不快」な状態を経るのが合理的なのだろうか。どう説明できるか。
そもそも、あらゆる文化的活動は、人間は根源的にマゾヒズムであることで説明できる。何のために勉強するのか、何のために絵を描くのか、何のために生きるのか。極端に考えると、全ての「生」は不快である。だが、不快に耐えることで、勉強でき、絵を描け、生きることができる。これは、知識を得る、作品を生み出す、生きる、快を知っているからだ。不快を快に転化すること。これは人間的活動の根源的なところである。この不快を快へ転化する体験を繰り返し、人間はどんどんマゾヒズム的に、人間的になっていく。
翻ってサウナ。サウナはこの不快〜快のサイクルが非常に短い。サウナに長時間入って頑張った分だけ快は大きくなる。わかりやすい。それをわかっているから、「快」を得るため、私たちはサウナで耐える。
サウナは、単に脳汁が出るような生理的な「快」に加えて、「快」を得ることができたことへの「快」。「よく頑張ったね」の自己肯定、言わばメタ認知的な「快」があるのだと思う。それは、簡単に実践できる成功体験であり、マゾヒズム体験なのだ。
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