エクリチュール

20世紀フランスの現代思想に影響を与え続けたロラン・バルトの「エクリチュール」について。

これは彼が導入した概念である。彼の処女作「零度のエクリチュール」で論じられ、日本語では「文章体」とも訳されるようだが、それでは定義不明瞭である。

エクリチュールとは何か。大雑把にいうと、言語(ラング)とも文体(スチル)と異なる「歴史」が文学に侵入する入り口である。零度のエクリチュールから参照すると

言語と文体は絶対的な力であるが、エクリチュールは歴史との連帯行為である。言語と文体は対象であるが、エクリチュールは機能である。すなわち、創造と社会のあいだの関係であり、社会的な目的によって変化した文学言語である。

ロラン・バルト(石川美子訳)「零度のエクリチュール」

エクリチュールは文学の問題提起の中心に位置しており、その問題提起はエクリチュールとともにしか始まらない。それゆえエクリチュールとは本質的に形式の倫理なのである。社会的な場を選択することであり、作者はその場の中に自分の言葉の「自然」を位置付けようと決意する。

ロラン・バルト(石川美子訳)「零度のエクリチュール」

すなわち、エクリチュールは書き手が文章の中に選び取る社会性のようなものである。バルトは「自然」を好まない。バルトの言葉を借りると、「自然らしさ」とは、社会の多数一派が装うアリバイであり、一種の合法性である。これは「歴史」であり「神話」であり「ドクサ」であり「コード」であろう。「自然」は「社会的コードが無意識的に浸透した状態」であり、そこから逃れたいのだろう。

つまり、エクリチュールの分析は文章の「自然」の「不自然さ」を暴くことだ。その上で、零度のエクリチュールとは、そういった自然から歴史から逃れた地点 −逃れてもその度自然化されてしまうのだが−、ユートピアとしての「零度」への探究であり、自然への反抗なのだ。

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