見出し画像

読書メモ:美術論集(ロラン・バルト)


ロラン・バルト「美術論集」から「眼の中をじっと」メモ。気になった箇所を切り取り、一部編集。

記号とは繰り返されるもの。
眼差しは繰り返されない。
故に、眼差しは記号ではない。
しかし、眼差しは全てを語る=意味が生成している。つまり、眼差しは記号を単位とせず、意味形成性(シニフィアンス)を単位とする意味作用(シニフィカシオン)の領域に属している。

諸芸術は、一般に、意味形成性に属す。
よって、眼差しと音楽との間に一種の親近性がある。

意味形成性の中には、おそらく、なんらかの確固とした意味論的な核があるのだ。この核には暈(かさ)がある。それは無限に膨張する場で、意味が溢れ出、拡散するが、みずからの刻印を失うことはない。眼差しの謎、主要な要素であるあのゆらめきは、この溢出の領域に位置付けられる。

したがってこれはみずからの過剰を本質とする一つの対象(あるいは、実存)である。

精神分析(ラカン「セミネール」第一巻)は創造界の相互主観性を三項構造として定義。
1. 私は他者を見る
2. 私は他者が私を見ているのを見る
3. 他者は私が他者を見ているのを知る

私は他者が見ているのをみる。私は他者の全能のまなざしに怖気づき、呆然として、受身になる。この動揺は非常に大きく、私は、私が他者を見ていることを他者が知っていると認めることができないほどである。—このことは私を解放するだろう。私は他者の前で盲目である自分を見る。

《私はあなたを見る。不可能なものを見るかのように。》

映画芸術について。
映画芸術は眼差しを二分する。われわれのうち一方は他方を見る。見ることしかできない。見る権利と義務とを持っている。他方は決して見ない。すべてをみるが、私の方は見ない。スクリーンから私の方に注がれるまなざしが一つでもあれば、その映画全体が駄目になってしまうだろう。しかし、これは字面だけのことである。というのは、別のレベルでは、スクリーンは絶えず私を見つめているからである。

以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?