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親ガチャと異世界転生の夢、及び十四年前の田中ロミオの解答

 結論から。これはシンプルな話で、親ガチャという考え方と異世界転生ものの作品の流行はセットだよねってこと。

 詳らかに書く。最初に親ガチャという言葉をいったのはどこのキッズか知らんが、親を選べないことをいったのは何もここ最近のことではなく、古代ローマ時代には既に記録が残っている。以下、その聖賢の言葉。

 われわれはよくこう言う、親というものは偶然によって人間に与えられるもので、どの親が割り当てられるかは、われわれの力ではどうしようもなかったことだ、と。(セネカ『生の短さについて』より)

 人々、ないしキッズ、二千年前から同じことをいっているのだ。親ガチャとは当たり前の事実をポップにいいかえただけのことで、まあ、いつの世も、どんな文明も悩みは変わらぬのか。

 まったく絶望するしかないような親ガチャを引くこともあるだろう。親のほうもネグレクトから過干渉、アル中にDVとなかなかバリエーション豊かなものだ。書きたくないほどの最低な者もいて、たまにニュースに事件として出てきたり、ネットやってて読まされたりする。見聞きするだけでしんどい。

 どのような親を持っても、最終的には運命として耐えて受け入れるしかない。いや受け入れなくてもいいんだろうけど、それなら逃げ場くらいは欲しいじゃない。本来なら家庭が避難場所になるべきであるところ、そのようにはならない状況はやはりよくあるのだ。

 逃げ場。学校でも家でもない、ここではないどこか。それをフィクションに求めた結果が異世界転生ものなのだろうかと思う。異世界転生は二重のフィクションである。ある物語世界の最初のレイヤーに主人公がいる。その主人公が別のレイヤーに移動する(転生する)。小説を読むのはそれだけでも逃げ場になるというのに、小説の中でさえ重ねてここではないどこかへと希求するキッズたち、事態はどうだろう、深刻だろうか。そんなに遠くまで逃げなければならないか。

 そしてひとたび本から目を上げれば現実が待っている。生きなければならない世界がある。現実世界からは完全には逃げられないもので、しぶしぶながらでもやっていくしかない。現実が苛烈であるほど物語には救われるだろう。だがフィクションはどうしてもフィクション、架空のことなのだ。

 そのあたり、十四年前に出版された田中ロミオの『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』が時代を先取りして回答を出している。出版当時は親ガチャという単語はおろか転生ものも流行っていたわけではない。作中で親ガチャの問題は扱っていないが、あのタイミングにおいて転生の不可能性を書いたのはなんだかおもしろい。

 この作品では妄想に生きるヒロインが「元の世界に帰還する」という発言をする。この言葉の意味するところは、本人は転生のようなものとして語っているが、実際のところは絶望からの自殺である。現実世界の全否定の形としてそれをやろうとするところを主人公に止められる、というのがクライマックスの部分。生きようとしたいし死にたいし、というキッズの生きづらさがありありと描かれていて、まあ異世界で楽しくどうこうというものよりはかなりのシリアスぶり。信じようとした転生はありえず、結局は現実に踏みとどまって生きていくしかない自分を見出す。ライトノベルなのにヘヴィである。ヘヴィノベルである。

 だから、転生なんてないんだよ、と田中ロミオによってはっきりいわれちゃってるんで、そのあとで異世界がどうこうと流行したのはなんだったのだろうか。わからないんですけど。キッズたち、二重のフィクションにまで追い込まれていたか。生きづらいか。そういうときに大人がしてやれることってなんなんだろうね。

 前述のセネカの文にはこういう続きがある。

 だが、思いどおりに生まれることが、われわれにはできるのである。高貴この上ない天才たちの家々がある。養子にしてもらいたい家を選ぶがよい。養子となって受け継ぐのは名前だけではない。ほかならぬ財産をも受け継ぐのだ。

 セネカは哲学の英知を財産としてそういった。現代なら学びはもっと幅広い。本によってなんでも学べばいいんじゃね。好きなことの勉強は楽しいものだ。

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