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クラウゼヴィッツ「戦争論」読んだフリ。Part①

みなさんこんにちは。1976newroseです。

近代的な戦争哲学の中でも、最重要著作のひとつとして知られる、クラウゼヴィッツ「戦争論」

私の過去noteでもしばしば引用して参りましたが、今回は「戦争論」読んだフリ、と題しまして、読んだことがなくても読んだフリができる!というコンセプトで、その概要をご紹介したいと思います。
それでは早速まいりましょう。


★「戦争論」とは?

「戦争論」は、クラウゼヴィッツがプロイセン陸軍大学校の校長を務めた期間に書かれた草稿です。
彼本人も草稿は未完成だと自覚していて、将来修正・編纂して完成させるつもりでしたが、志半ばにしてコレラに冒され没してしまいます。

この遺された草稿を編纂し、世に問うたのが妻マリーです。

「戦争論」は、マリーによる、短くも流麗な序文から始まります。そこには出版に至る経緯とともに、マリーから亡き夫への愛情、そして遺された思想に対する敬意が随所に感じられます。
出版から200年近く経った今も、軍事哲学の源流とみなされる偉大なクラウゼヴィッツの思想ですが、この溢れんばかりの価値に気付き、世に問うべく関係者を奔走したマリーこそ「戦争論」の影の立役者と言えるでしょう。

※なお、本稿では清水多吉氏訳・中公文庫版「戦争論」を下敷きにして論を進めます。
清水氏の訳は、平易な表現でありながら当時の空気感、格調高さのようなものも併せ持っており、個人的には素晴らしい翻訳だと思います。

★そもそも「戦争論」って読むべきなの?

いきなりですが、「戦争論」って、読むべきなのでしょうか。

私の答えは

(a)戦争に興味があれば必読書。

(b)政治に興味があれば推薦図書。

(c)そうでないなら、特に読む必要はない。

です。

(a)本書は、タイトル通り「戦争とはなにか」を体系的に論理化した著作です。その哲学は、現代軍事哲学においても思索の源流であり続けています。

(b)そして、クラウゼヴィッツ哲学の革新的な点は「戦争は政治の一手段である」と見破ったことにあります。
このように本書の内容は「戦争そのもの」について哲学的理論化を追求したものであり、その根底では、政治と戦争の関わりが強烈に意識されているわけです。

「政治」の定義は様々ですが、便宜的に内政と外交に二分化したとき、戦争(安全保障)は言うまでもなく外交の超重要なファクターです。
戦争を正しく織り込んでいない政治理論は、あたかも柱の足りない建物のようなものです。政治に関心がある方には、ぜひ一読をオススメします。

(c)しかし「戦争論」は、戦争という複雑な現象を理性と論理によって説明し尽くしたいという、異常な執念によって書かれた大作です。その精緻な理論をかみ砕きながら読み進めることは、並大抵の労力ではありません。

また、当時の戦史・時代背景・軍事的素養がないと、何を言っているのかさっぱりわからない記述が多々あります。
更に、ナポレオン戦争後の戦争技術を前提としているため、技術の発展に伴い今では妥当性を失ってしまった部分もあります。

以上の理由で、戦争にも政治にもそれほど興味がないあなたにとっては、「戦争論」は面白くもなんともない、ただ古臭くて長いだけの本に感じられるかもしれません。無理して読む必要は全くありません

※なお、本書をビジネス書としてお勧めする文脈も見受けられますが、正直これは「本当に読んだ…?」と言いたくなるような言説です。
「戦争論」は「敵の意図を武力によって粉砕する」、戦争という特殊な営みについて説明しています。戦争とは前提条件が全く異なるビジネスに、直接当てはめることはできません。
もちろん、ミリタリー・マネジメントの手法が後世のビジネス・マネジメントに及ぼした影響は大きく、その歴史を源流まで遡りたいなら、読む意義はあるでしょう。
しかし、現代ビジネスにすぐさま役立つ教養を身につけたいなら、正直にビジネス書を読んだ方が、断然最短かつ有意義だと思います。

★「戦争論」をつまみ読みしよう!

しかし「戦争論」といえばこれだけ有名な著作ですから、概要だけは知っておきたい…という方もいらっしゃるでしょう。
そこで、「戦争論」をざっくり把握するための、二つの方法をご紹介します。

方法①第1、2、8部だけ読む。

先述の通り「戦争論」は、クラウゼヴィッツが本業の合間を縫って書き残した遺稿を、その死後に妻のマリーが中心となって出版したものです。
そのため、議論は読み進めるごとに、明らかに草稿の様相を呈していきます。
そんな中、クラウゼヴィッツ本人が唯一完成形と言っているのが、戦争そのものについて思索する第1部第1章です。
この章を読むだけでも、クラウゼヴィッツの戦争観、そして現代にも通用する思索の深淵を十分に味わうことができます。

また第8部は、第1~7部までを踏まえつつ、より詳細に記述することを目指して追加された部分ですので、理解を補完する意味でも読んだ方がいいでしょう。

第2部は、第1部で考察した「戦争そのもの」の哲学的特徴を踏まえつつ、実際に戦争を遂行するための用兵思想へと導入していく、重要な結節部です。
余裕があれば後述したいと思っていますが、第3~7部は、クラウゼヴィッツ自身が哲学的な誤りを犯している部分だと私は考えており、また前提とされる技術・政治状況が古いため、無理して読む必要はないと思います。
しかし第2部は、彼が戦争の哲学的特徴をどう捉え、現実の用兵にどのように結節しようとしたかを知るために大切な部と思われますので、一読の価値はあるでしょう。

方法②このnoteを読む。

はい、皆さま大変お待たせしました(笑)。
それではこの記事の本編、「戦争論」のまとめに移りたいと思います!

★「戦争論」の構成

「戦争論」の構成は、以下の通りです。

●序文(妻マリーによる短文)

●覚え書(著者による覚え書)

●著者の序言

●第1部 戦争の性質について

●第2部 戦争の理論について

●第3部 戦略一般について

●第4部 戦闘

●第5部 戦闘力

●第6部 防禦

●第7部・第8部のための附言

●第7部 攻撃(草案)

●第8部 作戦計画(草案)

このうち「戦争とは何か?(戦争哲学)」という哲学的な思索は第1、2、8部に、「戦争を遂行するとは何か?(用兵思想)」は第3~7部に集約されています。

★「読んだフリ」スタートです!

それでは、覚え書~第1部から、重要な概念を学んでいきましょう。
※以降、「彼」とは原則クラウゼヴィッツのことを指します。
※()内ページ数は、中公文庫版「戦争論」によります。

「戦争とは他の諸手段による継続した政治以外の何ものでもない(24)」
「戦争とは、敵をしてわれらの意思に屈服せしめるための暴力行為のことである(35)」

→彼の思想のうち、最も有名なものの一つでしょう。
政治的に敵対する「敵」にたいして、暴力をもって我々の意思に従わせるための手段のひとつ、これが戦争であると彼は見抜きます。
従って、「政治的意図を達成するための手段ではない」単なる暴力行為や、「暴力による意図の強要を伴わない行為」などは、彼の定義する戦争からは外れることになるのです。

なお、彼の思想を雑に引用した言及でよくある「戦争は政治の失敗」とか、「政治の延長が戦争」といったものは、全て不正確です。
彼は戦争を政治の失敗とはみなしていませんし、政治から自動的に延長されるものとも言っていません。
あくまでも戦争は、「政治的目的を達成するための、諸手段のうちの一つ」であること、この点を意識する必要があります。
政治的意図が上位にあって初めて、その多様な実現手段の一つとして起こるものが戦争である…という階層構造が一貫して重要なのです。

続いて彼は、「概念上の戦争」と「現実の戦争」との説明に取り掛かります。
概念上の戦争においては、3つの相互作用が働き、戦争は無制限性を持つというのが彼の考え方です。

戦争の第1相互作用:「敵対感情」と「敵対意図」(36)、「無制限性(38)」
彼は、粗野で本能的な「敵対感情」であっても、より理性的とみなされ感情に依存しない高度な政治的意図であっても、「敵対意図」にがあってはじめて激しい闘争に至ると言います。
またどのような目的の闘争であったとしても、敵対による闘争は「敵対感情」を起こす、とします。
これは戦争を、暴力・理性のいずれかの領域だけで説明しようとすることへの戒めでしょう。彼は戦争には両方の性質があり、相互に作用しあうと考えるのです。
また、こうした相互の暴力行使は概念上、限度なく行われる(無制限)ものだと彼は言います。
この無制限性は、後述する「絶対戦争ー制限戦争」を理解するための大切な考え方ですので、覚えておいてください。

戦争の第2相互作用:「目標は敵の抵抗力を粉砕することである(38)」
→「戦争とは、生きた力と生きた力の衝突(40)」

当事者双方にとって戦争の目標は、敵の抵抗力を粉砕し、敵に政治的意図を強要することにあります。
どちらかが完全に受け身では戦争状態は成り立たず、戦争は双方の生きた力同士の衝突です。
この時、戦争は、純粋な自分の意図から発するのではなく、「敵が自分たちに戦争を仕掛けるのではないか」という恐れから発するものになります。
彼はこれを「戦争の第2の相互作用、無制限性」と呼びます。

戦争の第3相互作用:「力の無制限の発揮(40)」
敵の抵抗力を粉砕しようとするとき、敵の①諸手段の大小②意志力の強弱、の両方の要素を知り、それを凌駕するように対応する必要があります。
しかし①はある程度数量化できるのに対して、②は推測しかできません。
また敵も①②双方において自分たちを凌駕することを目指すため、理論上、闘争は新たな闘争へと登り詰め、その相互作用は無制限なものとなる、と彼は言います。

このように、概念上の戦争は相互作用によって無制限な暴力の行使となることが宿命づけられていますが、現実の戦争はこの無制限性に一定の修正を施す、と彼は説きます。

ざっくり要約すると、現実の戦争は政治・国家・時間軸・諸戦力(狭義の戦闘力、国土の表面および人口、そして同盟者)etc…など、多くの条件に縛られる。
そのため、概念上の戦争が持つ無制限性は、これらから常に制約を受ける…ということです。これは当然といえば当然ですよね。

「ここにおいて政治的目的が再び立ち現れる(47)」
為政者は、こうした現実の戦争を全体的に考察した結果、蓋然性(確実性)の高い戦争シナリオと元々の政治的目的とを打算することになり、場合によっては政治的目的を達成できないために暴力の度合いを小さくすることになる、と彼は説きます。


さて…私もみなさんも疲れてきた頃かと思いますので(笑)、
今回はこのくらいにして、いったんPart①を終えたいと思います。

お読みいただきありがとうございました。

なお私自身は、法学士卒の単なる民間人であり、専門家ではないことを申し添えさせていただきます。

原典に忠実な記述を心掛けるつもりですが、自信満々というわけではありませんので、ぜひともご意見、批評、ご感想などいただけますと幸いです。

【私見・追伸】クラウゼヴィッツ思想の真髄

彼の思想の真髄は、その哲学的射程が異常に「長い」ことにあると私は思います。

プロイセン王国に生まれ、ナポレオンによるヨーロッパ支配の時代を経験した陸軍将校である彼が念頭に置くのは、当然19世紀前後の陸戦です。

にもかかわらず、彼が200年近く前に見破った戦争の本質は、これほど技術が発達した今日にあっても、また陸戦にかかわらずあらゆる戦闘領域にあっても、妥当性を全く失っていないのです。

例えば1941〜45年に起きた「絶滅戦争」とも言われる独ソ戦などは、クラウゼヴィッツ哲学の妥当性を確認できる最悪の例でしょう。
東方スラヴ民族から収奪し、奴隷化し、最後には絶滅させようとしたナチスドイツの戦争観は、まさしく暴力によって敵にこちらの意図を強制しようとする戦争の営みが、極限に近いところまで発揮されてしまった例と言えます。

冷戦も、クラウゼヴィッツのフレームワークによって理解することができます。
冷戦は、米ソの二大陣営が、もし全面戦争に陥れば互いを核攻撃して、地球丸ごと滅ぼす「能力を有する」まで至った時代を指します。
これも言い換えれば、敵の戦力を全て滅ぼす「概念上の戦争」が成立する一歩手前で、政治的な打算、あるいは我々人間の良心といった諸条件によって制約を受けた結果、冷戦は「起こり得なかった現実の戦争」となった、と理解できるでしょう。

なんならあの頃、米ソの直接全面戦争こそ起こらなかったものの、朝鮮、ベトナム、アフガン、中東などでは「代理戦争」と呼ばれる間接的な東西対決は数多く起こったわけです。
これらも制約を受けつつ起こった「現実の戦争」そのものでしょう。

ポスト冷戦時代になり、西側自由民主主義陣営の優位が決定的になったあとも、クラウゼヴィッツ哲学はひたすら現実に対して妥当し続けます。

私も専門外ではあるのですが、ポスト冷戦時代に流行した政治思潮をざっくり言えば、「グローバル化・自由民主主義の優勢・非国家主体の活動などがもたらす平和」…と言った感じでしょうか。
人類は激烈な対立と戦争を乗り越え、より良い未来に向かって進歩できるという楽観的な空気があったと思います。
確かにこの頃、世界大戦期や冷戦期のような激烈な対立がなかったのは確かです。
しかし現実には、民族紛争やテロとの戦いなどの悲惨な戦いは起こり続けましたし、2022年2月に起こったロシアによるウクライナ侵攻などは、私たちが久しぶりに目の当たりにする国家間大規模正規戦となってしまいました。

こうして、クラウゼヴィッツの洞察した通り、「暴力によって敵に政治的意図を強要する」という概念上の戦争は、様々な現実的制約を受けつつも、現実の戦争として、今も起こり続けていると言わざるを得ません。

まとめると、私たちがもっている人間としての良心、努力、願いにも関わらず、戦争の本質は今日に至るまで何ら変わることなく、現実の営みとして起こりうる。
まことに、まことに残念ながら、これが事実なのです。

さて、私は、クラウゼヴィッツ哲学が、冷たくも正しいから好きなのではありません。
むしろこの冷たく正しい洞察を下敷きにしなければ、現実をより良く変えることができない、そのための道具として彼の哲学は有用だと信じるから好きなのです。

先だって私は、「戦争論」をビジネス書として読むことを批判しましたが、これは戦略や戦術といった、表面的類似性をもって何かを語ろうとする安直さに向けた批判です。

現実をより良くするための道具として、哲学的極致で起こりえる「地獄」をいったん確認し、なおその地獄を避けるために真剣に努力し続けること…ただこの真摯さにおいてのみ、クラウゼヴィッツ哲学がビジネスにおいても輝きを放つと信じます。

拙い稿ではありますが、引き続きお付き合いいただければ幸いです。

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↑戦争は哲学の失敗ではなく、むしろ哲学が産み落とした実の末娘であり、哲学の正統な末裔であるがゆえに、私たち人類を滅ぼすのでは?という一考です。私がずっと抱えている根源的な問いにあたります。
宜しければあわせてご覧ください。

↑ウクライナ情勢を自力で追いかけたい方のための基礎知識です。
内容少し古いですが…

↑ゴイゴイスーです。

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