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「哲学」の実子である「戦争」が「哲学」を終わらせてしまうのではという恐怖について(ヘーゲルとクラウゼヴィッツ)

皆さまこんばんは。1976newroseです。

おかげさまで、拙稿「【教養】としての、戦前・戦中・戦後 基礎知識」シリーズは無事完結させることができました。

コアなテーマにも関わらず、多くの方にお読みいただいているようです。心より御礼申し上げます。


さて、今回は「戦争はなぜ哲学と相性が悪いのか?」というテーマで論考して参ります。

このテーマは、五年ほど前から私が取り組んできたもので、最近ようやく自分の中でまとまったように感じております。
しかし、私の周囲にはこのようなハードコアな問題意識を持つ友人はおらず、見解の妥当性を客観視することができておりません。
広く世界からご意見、ご批判を頂ければ、本当に、本当に嬉しく思います。

さて早速本題に参りましょう。

まず、本稿の問題認識は以下の通りです。

「戦争について、哲学的観点からなされる考察に説得力がないのはなぜか?」

これについて、私なりに得た仮説を説明してまいります。
まずは、恐らくどなたでも納得できる二点から述べます。

①戦争そのものが持つ固有性・偶有性。
戦争を原因・経過・結果の三段階に分割したとき、これら三点がぴったり一致する戦争は二つとありません。
また、戦争には必ず相反する政治的目的を有する当事者が、二つ以上存在します。陣営によってその戦争目的は異なるのが普通でしょう。
更に、戦争には多分に不確実性と誤謬と偶然の要素が入り混じります。不明瞭な情報をもとに敵の裏をかき合うのが戦争ですから、戦争には意図せざる結果がつきものです。

つまり、戦争には僅かな共通項を除いた膨大な相違点が存在するため、そもそも一般化が極めて困難なのではないか?というのが一つ目の仮説です。
クラウゼヴィッツが「戦争論」で述べたように「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である(戦争は、政治目的を達成するための手段である)」と述べるので精一杯でしょう。

(なおこれは、クラウゼヴィッツの偉大な業績を過小評価する文脈ではありません。むしろ私は、戦争を一般化する試みは彼1人によってほぼ完成していると考えています。クラウゼヴィッツを踏まえない戦争の考察は、ほぼ全てと言っていいほど的外れです。彼の思想については、また機を捉えて詳しくご紹介できればと思います。)

②人道的、実存主義的な観点。
戦争が他の活動とは決定的に異なるのが、戦争は敵の資産や人命を破壊する、という点です。
言うまでもなく、この事実は人道的観点からは到底受け入れがたいものです。戦争は絶対悪であり決して起こしてはならない、というのが人道主義の立場でしょう。
また、哲学諸派のうち、「いま・ここ」にある、他とは違う個人を重視する実存主義という観点からも、戦争は受け入れがたいものです。
戦争で失われる一人の人間、一つの家族というものは、それ自体が偶有性を持つ貴重な存在です。それぞれが持つ価値や偶有性は、一般化することはできない、というのが実存主義の立場です。
人道主義、実存主義どちらの観点からも、戦争は人間一人一人に状況をもたらす外的事象としてしか登場しません。
そのため、戦争「そのもの」が持つ哲学的な特徴についての考察までは至らない
のが実情でしょう。
もちろん、それが悪いと言いたいわけではございません。しかし、このようなアプローチからは、戦争「がもたらす」事柄については考察できても、戦争「そのもの」について考察することができないと思います。

③弁証法的極致性(?)の観点。

上記の①と②については、恐らく多くの方にご理解頂けると思います。

私の核心的な問題意識と結論は、この③番に凝縮されています。
私には、かなり本質を捉えた観点のように思えますが、残念ながら他者からのご批評を頂いたことがなく、この観点が持つ客観的な価値はまったくわかりません。
是非とも率直なご意見を頂きたく思います。

さて、説明に入る前に、論の前提となるヘーゲルという哲学者の哲学について、ごく簡単にまとめます。

近代的西洋哲学は、それまでキリスト教によって規定されていた世界に、理性主義の批判が加わったことに端を発します。
理性主義によりあらゆる科学が発達し、世界の解釈がより明晰に、より客観的になる一方、理性ではキリスト教的世界観はまったく説明がつかなくなってしまいました。
この問題を統合的に解決しようとしたのが、1770年にドイツで誕生したヘーゲルです。彼によって近代西洋哲学はいったんの完成を見た、と言われるほどの偉大な思想家です。
彼の哲学は「弁証法」という世界の解釈に代表されます。
曰く、世界には、今のところ【正(テーゼ)】として扱われる考えや事柄があります。この【正】では扱いきれない考えや事柄【反(アンチテーゼ)】が生じたとき、両者は鋭く対立します。
この相反する二つのテーゼを、より高次元で統合し、解決することを【止揚(アウフヘーベン)】と呼び、生み出された新たな考えや事柄を【合(ジンテーゼ)】と呼びます。

※画像は務本塾様のHPよりお借りしました。

重要なのは、ヘーゲル哲学においては、【合】として導き出された結論も、いずれは【正】となり、そして【反】の挑戦を受け、また新たな【合】が生み出される…という、無限のサイクルが想定されている点です。

ヘーゲルは、こうして観念上常に進歩し続ける世界を想定した、壮大で理想的な哲学を構築しました。
そして、このような理性による無限の進歩が繰り返される理由こそ、神の愛に基づく【絶対精神】によるものなのだ!
というのがヘーゲルの世界観でした。

…難しく感じますか?
実はこの世界観、私たちの日常生活に引き寄せて考えると、非常にしっくりきます。ぜんぜん難しくありませんのでご安心ください。

例えばiPhone。
大昔、我々が情報を人から人へと伝えようと思ったら、直接相手に声が届く距離まで行くしかありませんでした。これが現状、ヘーゲル哲学でいう【正】です。
しかし、これでは不便だよね、という【反】からの挑戦を受け、人は早馬に乗ったり、狼煙をあげたり、鳩に手紙を持たせたりという解決策を編み出しました。これが【合】です。
さて、こうして馬や狼煙や鳩による通信が【正】となりましたが、伝えられる情報の速度や量にまだまだ制限があります。そこで人類が生み出したのが、電気的技術による通信です。電話やモールス信号を用いた電信などがその典型です。これによって、情報が伝わる速度、量、距離が飛躍的に増大しました。
しかし、これでは飽き足らない人類は、インターネットを発明します。これにより更に情報の伝達は進歩しました。
さらにさらに、パソコンからしかインターネットに接続できないことに不満を持った人類は、ついに誰でも持ち運び可能なデバイスを発明します。それがiPhoneです。

このように、様々な分野において正反合・正反合のアウフヘーベンが繰り返された結果が、いま私たちが生きる世界なのです。よろしければ、皆さまもぜひ身近な例を考えてみてください。楽しいですよ。

さて、ここまでお読み頂いた方の中には「いやいや、世界はそんな進歩史観では捉えられない事もいっぱいあるよ」とお思いの方も多いと思います。
まさにおっしゃる通りで、ヘーゲル後の哲学は、このヘーゲルの哲学に「当てはまらない」事柄を探し求める方向に発達します。ヘーゲル哲学という【正】ですら、【反】からの挑戦を受けることになったのは面白いですよね。
その典型例が、②で述べた実存主義哲学です。世界全体が進歩していようが、個人の偶有性、存在はアウフヘーベンされない、というのが実存主義のざっくりとした立場です。

さて、話を本題に戻しましょう。
ここで私が述べたいことは、ヘーゲル哲学では戦争は捉えられない、ということではありません。
また、ヘーゲル哲学そのものの正しさでもありません。私は、彼の哲学は世界全体を非常に正確に描写できていると感じていますが、残念ながらここは私の専門領域ではありません。

私の核心的な問題意識は、むしろ、「戦争は、ヘーゲル哲学の言う通り発達したにもかかわらず、ヘーゲル哲学では捉えられない危機に人類を追い込んだのではないか?」という点にあります。

他の学問領域と同様、戦争もアウフヘーベンにより著しい発展を遂げました。昔はせいぜい棍棒で殴り合っていた人類も、矢を持ち、部隊を編成し、火器を持ち、さらには核兵器まで持つようになりました。
問題は、核兵器まで持ってしまった人類は、ついにお互いを絶滅させることが技術的に可能になってしまった、ということです。
もし全面核戦争が起きれば、地上の人類はほぼ死に絶えるでしょう。原理的には、一人残らず死に絶える可能性だってあります。なぜならそれが、お互いが敵を武力で打倒することを目指す戦争の、究極の目的だからです。

人類が死に絶えた世界では、誰が、何を、アウフヘーベンするというのでしょうか?恐らくヘーゲル哲学では、この点を説明することができません。できたとしても、そこにはもはや人類は存在しません。

ヘーゲル哲学の言う通り、正反合・正反合…の繰り返しによって戦争も発達したのは間違いありません。にもかかわらず、発達の極致に至った戦争によって、少なくとも人類にはアウフヘーベンを行えない状態が、原理的には現れたのです。

また、ヘーゲル哲学の特徴は、ただ単に世界が発展することにあるのではなく、「神の愛に基づく絶対精神が世界を進歩させる」という世界観にあります。
クリスチャンだったヘーゲルは、なんとかして理性とキリスト教的な神の愛をアウフヘーベンしたかったのです。

しかし、全人類が絶滅するような世界を、どうしたら神の愛の現れとみなせるのか私にはわかりません。
それでなくとも、近代戦が人類にもたらした惨禍は、世界の漸進の原動力とみなすにはあまりにも悲惨すぎます。

【考えられる反論と再反論】

私の見解に対して、私自身が思いつく反論および再反論は以下の二点です。他にもしあれば、ぜひとも教えてください。よろしくお願いいたします。

①現状、人類が滅びるような核戦争は起きていない。これは戦争だけでなく、戦争を抑え込むための諸分野(政治等)でもアウフヘーベンがしっかり機能している証拠である。
→これはなかなか説得力があります。ただし、核戦争が起きた瞬間、この論は崩壊します。実際すでに人類は、全人類を滅ぼせるだけの核攻撃能力を有しています。
シュレディンガーの猫よろしく、実際に起きてみないと正しいか正しくないかわからないというのは、果たして哲学的な説明と言えるでしょうか?

②人類が滅びたとしても、世界は再びアウフヘーベンしはじめる。
→たしかに、人類が滅びたとしても、放射線量が下がれば再びなんらかの有機生命体は生まれ、進化と絶滅を繰り返しながら生態系を育むでしょう。
しかし、これも言わば何も説明していない、なるようになるというのと同じレベルではないでしょうか。

【クラウゼヴイッツの慧眼】

最後に、クラウゼヴィッツは、戦争について全く異なる解釈アプローチをとっています。平たく言えば、「戦争は、戦争そのものの論理でしか説明できない」というものです。

彼の遺稿「戦争論」より、以下の言葉を引用します。

”戦争の論理自体が必要とするものは、ただこれら諸問題(戦争の準備のために必要となる砲兵学・築城学その他あらゆる学術領域。筆者注)の結果だけであり、これらの諸材料によって引き渡された諸手段の主な性質の知識だけである。”

このようにクラウゼヴイッツは、「戦争にとって、戦争以外の領域については、戦争に影響を与える結果のみが重要である。その領域自体の論理は重要ではない」、平たくいうと、「戦争は戦争そのものの論理でのみ理解しなさい」と述べています。

私の知る範囲では、戦争そのものの論理以外に、戦争を説明できた論理はありません。
クラウゼヴィッツのこの考察こそ、今のところ戦争を理解する唯一の方策でしょうし、哲学はむしろこの定義に果敢に挑み、覆そうと努力するべきでしょう。

【まとめ】

ヘーゲル以外の哲学では、戦争の原因や戦争がもたらす結果については説明できても、戦争「そのもの」については説明できておりません。
また、唯一戦争そのものの発展を説明することができるヘーゲル哲学も、その論理にのっとって究極まで突き詰めてしまうと、原理的にはいずれ戦争が世界すべてを崩壊させてしまう、という懸念にうまく答えられません。

やはりクラウゼヴイッツが言う通り、戦争は戦争そのものの論理でしか説明できない、というのが現実ではないか?私はそう思います。

私が懸念しているのは、戦争そのものについて考察もしないまま、戦争について安易に言及する言説が多すぎるのではないか?という点です。

数学者が、数式そのものではなく、数式を書き記すための万年筆について力説していたらどう思われますでしょうか?それは数学そのものについて語っているとは言えないですよね。戦争についても同じことが言えるのではないでしょうか?


ところで、戦争そのものとは何か。これは次回、クラウゼヴィッツのご紹介と合わせて整理してみたいと思います。

以上、お読みいただき誠にありがとうございました。



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