ストロー

スーパーで待ち合わせをしよう、ということになった。近所のスーパーを挟んでわたしたちの家は南北500mほどの距離にある。迎えに行ってあげる、と言われたのだけれど、なぜかわたしがスーパーまで出向くことになった。約束は今日の21時。スーパーで何を買うでもなく、彼の後についていき、新しい家に向かった。

東京にいた頃の部屋と間取りが違っていて、家具の置き場所ももちろん変わっていた。ただ、流れる音楽とベッドの位置、照明の暗さと壁一面の本とCDはそのままだったので、ただいま、と帰っていたあの頃を懐かしく思った。本はいくつか捨てるつもりなんだと、大きな段ボール二つを開けて見せてくれた。わたしが欲しいと言うとくれるのだろうかと考えたけれど、おこがましい気がして口には出さなかった。

しばらくはこっちにいると思う、と言いながらキッチンに向かう彼。今日は家での仕事だったからか、いつもより元気そうだった。
「なんか飲む?」
「んー、何がある?」
「大量にもらったトマトジュースしかないな」
箱ごともらったんだ、と言いながら笑って、ベットにいるわたしの方に紙パックのトマトジュースを投げた。あんまり好きではないけれど、嫌いなわけでもないのでストローをさして二、三口飲んでから机に置いた。"こだわり!糖度○%"とか書いているくせに、普通のトマトジュースと変わらない味だった。

ベッドに来た彼の背中に腕を回すと、前より身体が少し小さくなったような気がした。痩せた、とかではなく物理的に小さくなったようなそんな感覚。どうしてなんだろうと考えながら探すように触れていると、変わんないね、と言われた。あなたもでしょうと返して、お互いに知っている曲のフレーズで誰かのせいにしようとした。

暗い部屋の中で音楽を作り出す青色の光が、君の上に乗るわたしの姿をぼんやりと壁に映し出す。その時、突然首に当てられた手と圧力で声が出せなくなり、息もできなくなった。初めてのそれに、君はそんなことをする人だったっけと考えたけれど、意識は次第に遠のいていく。手の力が緩められると、そのままくたっと彼の胸の上に倒れてしまった。そんなわたしを彼は優しく抱きしめてくれた。

時折きつく抱きしめて頭を撫でてくれるところも、キスをする前の仕草も、彼自身は何一つ変わっていないように思えた。わたしが帰ろうとすると、帰るの?と聞いて抱きついてくる癖もずっと変わらない。年上の彼が年下みたいに見える瞬間がわたしは好きだった。いつもはもっともらしいことを言うのに、こういう時だけは素直だなと思う。
「明日の仕事早いんでしょ?もう寝なきゃ」
そう言って腕をほどいて、数時間前に床に落ちた下着を手にとってつけ直す。わたしが服を着ている間、彼はギターをかしゃかしゃと弾いてくれた。このままずっと聴いていたいなと思ったので、上着はハンガーにかけたまま手をつけなかった。

何曲か弾いて満足したのか、彼がギターを置いたので、わたしも立ち上がって上着を羽織った。飲みかけのトマトジュースを右手に持って彼に近付き、少しだけ背伸びをしてキスをした。もう外は真夜中だけれどわたしの家まで送る気はなさそうだったので、玄関でスニーカーをとんとんと鳴らして鍵を開けた。別に送って欲しいなんて思ったことは一度もないのだけれど、毎回この瞬間は寂しくなる。またね、と言って彼は玄関からひょこっと顔を出したまま、わたしが見えなくなるまで手を振ってくれた。本当のことを言うと、遠くなってからは手を振ってくれているのかどうかきちんと見えなかった。でもとりあえず、最後の曲がり角の手前でもう一度手を振っておいた。

スマホを取り出し、空白だった時間を埋めようと数人に連絡を返す。彼からも早速連絡が来ていたので、さっきまで会っていたのに変だなと思いながら返信をした。さっきはニ、三口しか飲まなかったトマトジュースを飲みながら、歩きながら、スマホに目をやった。トマトジュースが空っぽになる頃には、家まであと100mほどの距離だった。口が寂しくならないように、空っぽになったトマトジュースのストローを噛みながら家まで歩いた。これは当然のことなんだけど、トマトジュースと引き換えられたわたしとは違って、ストローはなんの味もしなかった。

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